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第4話 雨の海に唸されて(3)


 途中、30分ほどの休憩を入れて、香が海から上がって来たのは3時になってからだった。


 いい加減、泳ぎ疲れたのか、波打ち際から歩いてくる香の足取りが、やたらと遅い。足を引き摺っていると言っても、おかしくない。


 なんとか海の家まで辿り着くと、香はバスタオルを肩に掛けて座り込んだ。


「おい、大丈夫かよ。唇が、紫色になってるぞ」


「うん。大丈夫。気にしないで」


 そう言ったものの、香は全身に鳥肌を立てて、唇を真っ青にして震えていた。だから、大丈夫な訳がないのは一目で判る。気にするなと言われても、気にならない方がおかしいくらいだ。


「気にするなって言ってもなぁ」


「大丈夫だって。ちょっと着替えてくるね」


 香はそう言うと、ボクからバッグを受け取って更衣室へ向かった。


 20分後、香が着替えて戻って来た。


「お待たせ」


 泳ぎ疲れたんだろうか、それとも体調を崩したんだろうか? いつになく元気がない。まあ、こんな雨の中を、結局3時間以上泳いでいたんだから無理もない。香は、無茶し過ぎなんだ。


「んじゃ、帰るか」


 ボク達は、海の家の人に声を掛けると、駅へと向かった。


 朝来た時は気づかなかったけど、片瀬江ノ島駅って、随分派手な造りをしてるんだな。まるで竜宮城か何かだよ。


 ボクは自動券売機ではなく、駅員の居る切符売り場へと向かった。


「ねえ。切符買うんじゃないの?」


「ああ、買うよ。その前に、ちょっと確認したいことがあってね」


 ボクはそう言うと、窓口にある時刻表を確認した。


 ヒュー。危なかったぁ。あと15分遅かったら、5時台までロマンスカーはないじゃないか。4時台にないって言うのは、意外だったなぁ。


 ボクはポケットから財布を出しながら、窓口に顔を近付けた。


「新宿まで、ロマンスカー2枚」


「お時間は?」


「次のでお願いします」


「タバコはお吸いになりますか?」


 ボクはどっちでもいいんだけど、さっきまで唇を紫色にしていた香の体調を考えると、禁煙席の方がいいだろう。


「いえ。禁煙席でお願いします」


「乗車券もお買いになりますか?」


「はい」


 すると切符が4枚出されて、ボクはそれを受け取った。


「ほい、切符」


「え? 何これ?」


 キョトンとした顔で、香は切符とボクを見比べた。


「ロマンスカーの、乗車券と特急券だけど」


「えー、そんなのもったいないよぉ。普通の電車でいいじゃない」


「うーん。この時間に新宿まで直通の電車があれば、それで帰ってもいいんだけど。この時間って、ロマンスカー以外に直通電車がないからね。相模大野で乗り換えるとなると、そこからは立って帰ることになるから、泳ぎ疲れてる香には辛いだろ」


「え。あたしのために、わざわざ特急に乗ってくれるの?」


「まあね。それに、ボクも乗ってみたかったし」


 ボクは照れ隠しに笑うと、頭を掻いた。実際、ロマンスカーに乗ってみたいだなんて、子供っぽいもんな。


「ありがと」


 香はお返しとばかりに、頬笑み返してきた。だけど、どことなくその頬笑みは、力なく感じられた。


 ロマンスカーに乗ってしばらくすると、ボクは後悔し始めていた。


 ロマンスカーの冷房が、効きすぎているんだ。


 ボクにはどうってことない冷房でも、香には凍えそうなほど涼しいらしい。ボクの隣りで、ガタガタと震えながら丸くなっていた。


「大丈夫?」


「うん、大丈夫。ちょっと寒いだけ」


 ボクに心配を掛けまいとしているのか、香は頬笑んだ。でも、大丈夫でないのは明白だ。


 ボクは、自分のバッグから使ってないバスタオルを出すと、香の肩に掛けてやった。これで、少しは寒さを凌げるだろう。


 香はボクに寄り掛かるように丸くなると、耳元で囁いた。


「ありがとう。貴司」


 ボクは不覚にも、香のことが可愛いと思ってしまい、香の肩に腕を回して抱き寄せた。


 まったく、何処が幽霊だって言うんだ? こうして触れ合えば、冷え切った身体とは言え、香の温もりが感じられるじゃないか。


 なんでお前は、嘘をつくんだ?


 ボクは、眠りながら震えている香に、問い掛けずにはいられなかった。


 アパートに帰り着くと、香はボクの敷いてやった布団に疲れた様子でグッタリと倒れ込んだ。


「香、夕飯どうする? さすがに、疲れて作れないだろ」


「うん。ごめんね」


「じゃあ、コンビニでなんか買ってくるから、何が食べたい?」


「いらない。食欲ないから、あたしの分はいらないわよ」


「ホントに、大丈夫か?」


「うん、大丈夫。ちょっと疲れただけだから。一晩寝れば、治るわよ」


「そうか? それならいいんだけど……」


 香のか細い声に納得できないものを感じながらも、ボクはコンビニへと出掛けた。




 翌朝、ボクは蒸し暑さで目が覚めた。


「うー、暑いー」


 目覚まし時計を手にすると、既に時刻は10時を回っている。


 今日は特に約束がある訳じゃないから別にいいけど、香にはもうちょっと早く起こしてもらいたいな。


 ボクはのっそり起きると、隣りの部屋に目をやった。すると、いつもならボクよりも遥かに早く起きて家事をしている香が、まだ布団にくるまって寝ていた。


「おい、もう朝だぞ」


 ボクは布団を上げるついでに、香を起こそうとした。だけど布団に近付くと、香の様子がおかしいことに気がついた。


 香の寝顔を覗き込むと、どことなく顔色が悪いように見える。額に手を当てると、熱い。


 風邪か?


 ボクが香の額に手を当ててると、香の目蓋がゆっくりと開いた。


「あ、おはよう」


 どうやら、香を起こしてしまったらしい。


「大丈夫? なんか、熱があるみたいだけど」


「なんか、貴司に迷惑かけちゃってるね」


 しおらしく答える香が、なんか可愛い。


「迷惑だなんて……。で、どうなの?」


「うん。ちょっと寒気がして、身体がだるいの」


「それは、完全に風邪だな。今、薬買ってくるから、おとなしく寝てるんだぞ」


「でも、朝ご飯作らないと」


 健気にも起き上がろうとする香を、ボクは押し留めた。


「残念ながら、もう朝ご飯の時間じゃないよ。もうすぐお昼だから、ついでにお昼も買ってくる。何が食べたい?」


「食欲ないから、いらない」


「ダメだよ。何か食べて体力つけないと、治る風邪も治らないぞ」


「うん……」


「じゃあ、お粥でも買ってくるから、ちゃんと食べるんだぞ。ホントは、ボクがお粥を作れればいいんだけど、ボクの作ったお粥で風邪が悪化したら、洒落にならないからな」


 ボクがそう言って立ち上がると、香がボクを見上げて言った。


「貴司。迷惑かけて、本当にごめんね」


「いいから気にするなって。おとなしく寝てるんだぞ」


 ボクはそう言い残すと、薬屋へ薬を買いに向かった。


 薬屋に着くと、まずは風邪薬のコーナーに行く。


 へー、風邪薬って、こんなに沢山あるんだ。どれがいいんだろう?


 ボクにはどれがいいのか判らないから、適当に風邪薬を一つ手に取る。


 次は……。


 ついでだから、水枕も買っておこう。冷却シートって手もあるけど、クーラーのない部屋じゃ、頭全体を冷やせる方がいいだろう。


 それから手っ取り早く体力を回復させるのに、栄養ドリンクがいいって聞いたことがあるな。


 それから必要なものは……。うーん、判らない。あとは、何が必要かな?


 まあ、足りない物があったら、また買いに来ればいいか。


 レジで支払いを済ますと、思った以上に出費を強いられた。薬も高いけど、水枕が結構高かった。


 それからボクは、スーパーに向かった。


 スーパーでは自分の昼飯と、香のためのお粥のレトルトパック、それからちょっともったいないけど、水枕用にダイヤモンドアイスも買った。


 買い物を終えてアパートに帰ってきたのは、11時半を回った頃だった。


「ごめんごめん、遅くなっちゃって。お昼にはちょっと早いけど、今、お粥を作ってやるからな。薬を飲むためにも、少しでいいから食べてくれよ」


「ありがとう」


 ボクは香の顔を覗き込むと、すぐに台所に立ってナベをコンロにかけた。


 水が沸騰するまでの間に、水枕を作ってやる。


 香の頭の下に水枕を敷いてやると、気持ち良さそうに微笑した。


 水が沸騰してからお粥のレトルトパックをナベに入れる。3分経つまでの間に、丼ぶりを出してすぐに移せるように用意する。ホントは、レトルトのお粥はお茶漬け茶碗の大きさが丁度いいんだけど、家にはそんな気の利いた物なんかないから、丼ぶりで我慢してもらおう。蓮華れんげは、やっぱりないからカレーを食べる時の大きめのスプーンを用意する。


 温まったお粥を丼ぶりに移すと、お盆に載せてスプーンを添えると香の所へ持って行く。


「ほら、起きられるか?」


「うん、大丈夫」


 香が起きるのを手伝ってやって、ボクは呆気に取られた。


「なんだよ。服着たまま寝ちゃってたのかよ。そんな肩の出る服じゃ、却って身体に良くないぞ」


 そう。香は昨日着ていた、真っ赤なビスチェを着たまま寝ていたんだ。


「だって、着替えるの面倒臭かったんだもん」


 拗ねるように言う香に、ボクは呆れながらも叱りつけた。


「風邪引いてるのに、そんな格好で寝てちゃダメじゃないか。いいから、まずは風呂場で着替えて来い」


「…………」


 香が上目使いでボクを見つめて、その瞳で『着替えなきゃダメ?』と訴えてくるのを、ボクは無言で促した。


「はぁ」


 香は諦めたのか、溜息をつくと立ち上がって、押入から着替えを出して風呂場へと消えた。


 まったく、子供なんだか大人なんだか判りゃしない。例え嘘でもボクの姉貴を名乗るんなら、もう少しちゃんとして欲しいな。


 しばらくして風呂場から出て来た香は、普段パジャマ代わりに着ているボクの大きめのワイシャツを羽織っただけで、それ以外は何も身に付けていなかった。いや、下着は着ているだろうけど、さすがにそれを確かめる訳にはいかない。


 生脚が目の前を通って布団に入ると、ボクは思わず生唾を飲み込んでしまった。


 マ、マズイ。ボクは一体、何を考えているんだ。


「とにかく残してもいいから、食べられるだけ食べろよ」


 ボクは変な考えを打ち消すかのように言うと、台所に戻って自分の昼飯の用意を始めた。


 結局、香はお粥を全部食べて、薬と栄養ドリンクを飲んだ後は、薬の効き目もあってかグッスリ眠ってしまった。


 まあ、ボクとしては手間が掛からなくて楽なんだけど、やることがなくなってしまった。本当なら、部屋の掃除をしたいところなんだけど、さすがに病人の居る所で埃を立てる訳にもいかず、掃除をするのは諦めた。


 蒸し暑さで勉強する気にもなれないし、仕方なく冷たいジュースを飲みながら本を読むことにした。それに、こんなことでもない限り、本を読むなんてこともしないし。美紀に面白いからと押し付けられた本を読むには、丁度いい機会だ。


 机の引き出しに放り込んどいた文庫本を出すと、台所の側の壁に寄り掛かって本を開いた。


 何故台所の側へ行ったかと言うと、1つには涼しいから。クーラーのない部屋は蒸し暑く、窓を開けても風が入ってこない。それに今は病人が居るから、窓を大きく開け放つ訳にもいかないしね。


 それともう1つは、香からなるべく離れるため。


 あんな無防備な格好で年頃の女性が寝ているんだ、ボクが変な気を起こさないとも限らない。だから、香からなるべく離れて、他のことを考えることなく本を読もうと思ったんだ。


 ボクの思惑が功を奏して、2時間ほど香のことを忘れて読書に没頭できた。だけど、ちょっとばかり忘れすぎていたようだった。


 3時過ぎに香のことを思い出して様子を見に行くと、部屋の蒸し暑さもあって、香は玉のような汗をビッショリと掻いていた。


「うっ、どうしよう」


 汗を掻いているとはいえ、グッスリ眠っている香を起こす訳にもいかないし。かと言って、このまま寝汗を掻いたままにしておくと、却って風邪を悪化させかねないし……。


 ボクは、本当に困ってしまった。


 そりゃ確かに香に対して、『犯すぞ』とか色々酷いことは言ってるけど、言うのと実際に行動するのとは別問題だ。香に対して『犯すぞ』と言っていても、ホントに犯すつもりはないし、不可抗力とはいえ裸にするのは気が引ける。一番いいのは目が覚めて、香が自分で着替えることなんだけど、残念ながら目を覚ます気配がまったくない。


「どうするか……」


 声に出して言うことによって、考えを纏めてみる。


 やっぱり、美紀に来てもらうしかないかな。


 ボクは携帯電話を手にすると、美紀の携帯に電話した。



 トゥルルルル、トゥルルルル、トゥルルルル、トゥルルルル。


「はい、私。どうしたの、貴司」


 相変わらず、『もしもし』の一言がないなぁ。携帯電話のディスプレーに名前が出るから、電話に出る前に相手が誰なのか判るとはいえ、いつもこうだとちょっと寂しいものがある。


「あ、美紀か? ちょっと助けて欲しいことがあるんだ」


「なに? どうしたの」


 いつもの明るい声から、心配そうな声に変わる。


「香が風邪引いて、四苦八苦してるんだ。寝汗を掻いて着替えさせたいんだけど、グッスリ眠ってるから、着替えさせることも出来なくて……。だから、美紀に来て欲しいんだ。頼む」


「うん、判った。で、香さんの具合いはどうなの?」


「今は薬を飲んで、グッスリ寝てる」


「そう、判ったわ。30分ちょっとで行くから、取り敢えず香さんを着替えさせておいて。寝汗を掻いたままだと、却って風邪を悪化させるから。いいわね」


 プツ、プ――――――――――。


 美紀はそれだけ捲し立てると、電話を切ってしまった。


「ちょっと待て、この慌て者が! その着替えをさせられないから、美紀を呼んだんじゃないか。ボクが着替えさせるんじゃ、意味ないんだよぉ」


 携帯電話に怒鳴ってみたところで美紀に届くはずもなく、ボクは項垂うなだれて考え込んだ。


 とにかく、今だけは香に風が当たるのは良くないんで、窓は閉めておこう。


 で、まずは身体を拭くタオルを出して、それから替えのパジャマはないから、ボクのワイシャツを出してと。下着は……。これは完全にないから、どうすることも出来ないな。


 ここまでは、ボクにも出来る。でも、ここから先は、ボクには出来ない。


 仕方ないから、額の汗や胸元の汗をタオルで拭いてやる。それ以上は、ボクには出来ない。


 まったく、なんでこんなことでボクがあたふたしなきゃいけないんだ? 風邪で寝込んでるのが美紀だったら、迷わずボクが着替えさせてやれるのに……。


 ボクがあたふたして何も出来ないでいると、しばらくして美紀がやって来た。


「貴司。香さん、大丈夫?」


 美紀は靴を脱ぐのももどかしげに、部屋の中に駆け込んでくる。


「あんまり大丈夫じゃない。早く着替えさせてやって欲しい」


「何よ。着替えさせて上げなかったの?」


 美紀は呆れた声で言ったから、ボクは思いっきり反論した。


「仕方ないだろ。見ず知らずの女の子を、裸にする訳にはいかないだろ」


「ごめんなさい。そうだよね。私の方が、動転してた」


 すると美紀は、その事実にやっと気がついたのか、優しく微笑んで言った。


 美紀の微笑みは、ボクの気配りを思ってなのか、それとも照れ隠しなのかは判らない。けど、ボクが美紀を呼んだ理由を判ってくれて助かった。


「じゃあ、ボクは部屋を出てるから、すぐに着替えさせて上げて」


「うん、判ったわ」


 ボクは美紀の返事を確認すると、すぐに部屋を出た。


 しばらくして部屋に戻ると、香は眠ったまま着替えさせられていた。


「ふう、疲れた」


 美紀はちゃぶ台に突っ伏したまま、顔も上げずに言った。


「ご苦労さま。助かったよ。ボク一人じゃ、どうにも出来なかったからね」


「そうかも知れないけど、やっぱり香さんの着替えは、手伝って欲しかったなぁ」


「それが出来ないから、美紀に来てもらったんじゃないか」


 ボクが何度同じことを言わすんだという風に言うと、美紀はムックリと身体を起こしてボクを見つめて言った。


「それはそうだけど、私1人で着替えさせるの、大変だったんだからね。……そうだ、貴司に目隠しさせて手伝わせればよかったんだ。そうすれば、力仕事を貴司にさせてって、やっぱダメか。香さんの身体に、貴司を触らせる訳にはいかないものね」


 美紀は一人で言って、1人で納得してしまったようだ。どのみち、ボクには手も足も出なかったってことだよな。


 で、1つ気になることがある。香の持ち物なんて殆どない訳で、パジャマすらない。水着を持っていたのが不思議なくらいだ。そんな香のアレは、どうしたかだ。


「ちょっと聞いていいかな」


「なに?」


「えっと、香の下着は、どうしたのかなって思って。コイツ、殆ど何も持ってないから、下着もないはずなんだ。何処かに隠しているんなら別だけど、そんな隠せるような場所もないしさ」


 ボクはちょっと視線を泳がせながら、美紀に聞いた。単なる好奇心じゃなくて、女性の生態研究と言うことでって、やっぱダメか?


「教えて上げない。ひ・み・つ」


 美紀はそう言って、「ベー」っと舌を出した。


「でも、不思議なのよねぇ。香さん、シャツの下は何も着けていなかったのよぉ。まさか、貴司が一度着替えさせたんじゃないでしょうね」


「バ、バカ野郎。そんなことする訳ないだろ! 昨日の服装のまま寝ていたから、昼飯を食べさせる前に着替えさせたんだ」


 何を言い出すかと思えば、美紀はとんでもないことを言う。間違っても、ボクがそんなことをする訳ないじゃないか!


「何うろたえてるのよ。大丈夫よ。私は貴司がそんなことしないって、信じているから」


 美紀は、ニコリと微笑んで言った。けど、その微笑みには、氷のような冷たさを感じる。


 絶対、信じてないな。


「それから、着替えさせるのはこれが最期って訳じゃないでしょ? だから私、今夜は泊まって上げる。お母さんにも、病気の友達を看病しに行って泊まってくるって言ってあるから、心配しないで」


「それは助かる。でも、ボクは夕方からバイトだから、美紀に任せっきりになるけど大丈夫?」


「大丈夫。任せといて」


「良かったぁ。香の夕食、どうしようかと思ってたんだ」


 腕捲りをして力こぶを作って見せる美紀に、ボクは安堵の笑顔を見せた。


 最悪、今夜のバイトは休まないといけないと思っていたボクにとって、美紀の申し出は願ってもないことだ。もっとも、これで香が居なければ、もっと嬉しいんだけど。


 その後、ボクは本を読んで過ごした。


 ホントは、美紀と話をしたり、美紀とじゃれ合ったりしたかったけど、病人が居る所でそんなことも出来ないから、おとなしくしている以外になかったんだ。


 夕方までそうして過ごすと、ボクは美紀に後を任せてバイトに行った。


 バイトをしてる最中は、なるべく香や美紀のことを考えないようにしていたんだけど、どうしても考えてしまう。特に美紀のことは、ここのところ香のせいでご無沙汰してたんで、美紀が今夜泊まると言った時から、色々と妄想を掻き立てられている。


 そもそも今夜寝る時、布団をどうするかを考えないといけない。


 一つは香が寝るのは当然として、美紀はボクの布団だな。そうするとボクは、やっぱりまた座布団で寝るしかないか。


 そんなことを考えているから上の空になりがちになり、危うく何度もお皿を割るところだった。


 バイトを終えてアパートに帰ると、美紀が出迎えてくれた。


「ただいま」


「お帰り、貴司」


 ニッコリ頬笑む美紀の肩越しに部屋の奥を見ると、香は既に寝ているようだった。


 ボクは美紀を抱き寄せると、その濡れたように光る唇にキスをした。無論、美紀も応えてくれて、永い永いキスになった。


 少し心残りだったけど、美紀の唇を開放すると、抱き締めたまま聞いた。


「香の様子はどう?」


「大丈夫みたい。夕飯も食欲あったし、薬もちゃんと飲んだから、明日には元気になってると思う」


「そう。良かった」


 そこまで言って、ボクはあることに気がついた。この会話って、もしかして……。


 ボクが黙り込んでしまったので、美紀が不思議に思ったのか、キョトンとした表情で聞いてきた。


「どうしたの、貴司。急に黙り込んじゃって」


 今ボクが気づいたこと、言ってもいいものかな?


 ボクは気がついたことを言ってもいいものか一瞬考え込んだけど、答えが出る前に話し始めてしまった。


「いや、今の会話って、なんだか新婚夫婦が、子供のことを話しているみたいだなって思って……」


 すると美紀は、ポッと顔を赤くした。


「やだぁ、貴司ったらぁ。私達には、まだそんな話早いわよ」


 うっ。恥ずかしがっている美紀が、超可愛い。


「それより、夕飯は食べてきたんでしょ。だったら、シャワー浴びてきなさいよ」


 美紀は照れ隠しのためか、慌てて話題を変えてきた。


 まあ、仕方ないか。取り敢えずシャワーを浴びて……。って、ちょっと思い付いたことを言ってみた。


「じゃあ、一緒に入らないか?」


「ベーッだ。もう私は浴びちゃったから、貴司1人で入ってらっしゃい」


 そう言うと、美紀は一層顔を赤くしてそっぽを向いた。


 やっぱ、可愛い。


 ボクはもう一度、ギュッと美紀を抱き締めると耳元で囁いた。


「シャワー浴びてくるから、おとなしく待ってるんだよ」


 何がおとなしくなのか自分でも判らないけど、そう言うとシャワーを浴びに風呂場に入った。


 風呂場から出ると、美紀はパジャマに着替えて待っていた。本当なら、こんなシチュエーションならこの後は美紀と愛し合うところなんだけど、香が居るからそんなこと出来るはずもなく、結局1つの布団で2人寝ることにした。もっとも、こんな風にして寝るのは本当に久し振りだったせいか、2人ともなかなか寝つけなかったけど……。




「貴司に美紀ちゃん、起きなさーい」


 もうちょっと寝かせて欲しい。昨夜は、美紀と一緒の布団で寝たから、なかなか寝つけなかったんだから……。


「2人の仲がいいのは判ったから、お味噌汁が冷めないうちに起きて欲しいんだけどな」


 だからもう少し……。って、香か!?


 ボクがパッチリ目を覚ますと、目の前には香の顔があった。


「…………」


「…………」


 ボクが黙って香の顔を見上げていると、香も何が嬉しいのかニコニコしながらボクの顔を見つめていた。


「なに人の顔見て笑ってるんだよ」


「え? 何って、貴司の寝顔が可愛いなって思って」


「まったく、起きるから、そこ退いて」


「はいはい、判りました」


 香は立ち上がると、台所に戻って朝食の準備の続きを始めた。


 すると、香はシンクに向かったまま、ボクの心臓を止めるようなことを言った。


「2人とも、昨夜はよっぽど激しかったみたいね。ホントにグッスリ寝ていたもん」


「バ……」


 香の言葉にボクは反論しようとしたけど、口をパクパクさせるだけで言葉が出てこなかった。


 それは振り向いた香が、舌を出して笑ったのが、本当に可愛いと思ってしまったからだ。



ちょっとバランスが悪いですけど、(3)は少し長めで第4話が終了です。丁度いいところで切れるところがなかったのが原因で、携帯電話で読む人が居たら、申し訳ないなと思っています。

携帯電話での閲覧は、パソコンやスマホでは1ページで表示するところを、小分けにページ分割して表示するので、長いと結構読みにくいんですよね。なので、パソコン・スマホで読んでいる方には申し訳ないんですけど、1つづつは短めに投稿していました。

てなことで、次回は第5話となりますが、最終話となります。お楽しみに。

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