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第4話 雨の海に唸されて(2)


 日曜日の朝八時過ぎ、ボクと香の二人は新宿駅に居た。


 ボクは切符売り場で運賃表を見上げながらも、チラチラと隣りに居る香を盗み見てしまう。


 香は、一体何処に隠し持っていたのか、スリムジーンズに真っ赤なビスチェを着ていた。丈が短いから、ちょっと見上げただけでお臍が見えてしまう。


 まったく、目の毒だってぇの。第一、もし香が本当の姉貴だったら、こんな刺激的な服装なんて、ボクは絶対許さないところだ。


「えーと、片瀬江ノ島までだから……。結構、運賃高いな」


 そう思いながらも、ボクは券売機で切符を買った。


 切符とお釣りを取って振り向くと、香が肩からバッグを提げたまま両手をボクに向かって突き出していた。


「なに?」


「切符」


「へ?」


「だから、あたしの分の切符」


「なんだよ。お前の電車賃まで、ボクに出させる気かよ」


「当然じゃない。あたし、水着買っちゃってお金ないんだから。それに、あたしを海に、連れてってくれるんでしょ?」


「…………」


 開いた口が塞がらないとは、このことを言うんだろうな。一体、何処まで図々しくすれば気が済むんだ?


「あのなぁ。連れて行くとは言ったけど、交通費まで出すとは言ってないぞ」


「いいじゃない。ここまでの電車賃は出してくれたんだから、ここからの電車賃も出してくれたって」


 香は、小首を傾げてニコリと頬笑んだ。


 くそー、失敗したなぁ。好意で新宿までの電車賃を出したけど、それで香をつけあがらせてしまったとは……。


「ったくなぁ……」


 ボクはもう一度振り返ると、券売機にお金を入れた。




 電車に揺られること一時間半、改札口を抜けるとそこは雨だった。


 いつ雨が降り出したのか判らないけど、江ノ島線に入った時には、もう雨は降っていた。


「雨、だな」


「うん。雨ね」


 ボクと香は、真っ赤な駅舎の出口で茫然と立ち尽くしていた。


 シトシトと降る雨。そのせいか、駅から見える範囲は総て灰色に覆われている。これじゃ、泳ぐのは無理だな。


「海、諦めて帰るか?」


「えーん。せっかく水着を新調したのにぃ」


 香が泣き真似をしても、天からの恵みである雨は止みそうになかった。


「まあ、取り敢えず、浜辺に行ってみるか」


「うん。……ちょっと待って」


 香はそう言うと、駅の売店に行った。


 戻ってきたその手には、ビニールの傘が握られていた。


「一応ね」


 香はそう言ってニッコリ笑ったが、その手に握られている傘は一本だけ。どうやら、ボクの傘は買ってきてはくれなかったようだ。


 ボクが仕方なく自分の傘を買いに売店に向かおうとすると、香に呼び止められた。


「貴司、何処行くのよ?」


「え? 売店に傘を買いに」


「なに言ってるのよ。傘なんて、一つあれば十分よ」


 そう言って傘を拡げると、香はボクの腕を取った。


「こうやって、二人で入れば一本でいいでしょ。はい、傘持ってね」


 香はボクに傘を押し付けると、ボクの左腕にしがみついた。


「へへへぇ。なんか、恋人同士のデートみたいだね」


「ちょっ……」


 香の言葉に、ボクは慌てて香を振り払おうとした。そりゃそうだろう。香と恋人同士に見られたら、とんでもないことになる。


 だけど、香はしっかりとボクの腕にしがみついて、離れなかった。


「いいじゃない。美紀ちゃんが見てる訳でもないし、お姉ちゃんと腕を組んで歩くのが、そんなに嫌?」


「…………」


 そういう言い方をされたら、返す言葉がない。仕方なく、ボクはそのまま歩き出した。


 横山さんに教えてもらった通りなら、改札を出てすぐ右の道を真っ直ぐ行って、海岸通りを渡れば西浜に出る。改札から真っ直ぐ行って橋を渡り、地下道で海岸通りの反対側へ出れば東浜だ。横山さんの話では、西浜は広いから海の家が点在してて、東浜は浜辺が狭いぶん海の家が密集しているとのことだった。ここは雨も降っていることだし、海の家のお世話になることだから、東浜へ行った方がよさそうだな。


 地下道を抜けて海岸通りの海辺側に出ると、すぐ目の前には砂浜が広がっていた。すぐ右手には、江ノ島も見える。


「海だぁ」


 香は、感無量と言わんばかりの声で呟いた。ホントに、海に来たかったんだな。


 雨が降っているから、見渡せる限りの海には当然のように泳いでいる人は殆ど居なく、サーフィンをする人も居ない。まあ、目の前の海の家で見えない所に、もっと人が居るのかもしれないけど。


 湾岸通りの歩道から浜に降りて行くと、浜全体が見渡せるようになった。で、浜全体を見渡しても、人気はまばらだ。まあ、こんな雨じゃ、泳ごうって物好きも居ないだろう。


 でも、意外だったな。雨が降ったくらいじゃ、遊泳禁止にはならないんだ。


「こんな所で突っ立ってても仕方ないから、取り敢えず、海の家でお茶でもしないか?」


「うん……」


 香は元気なく頷いた。


 まあ、判る気はする。あれだけ海に来たがってて、来てみたら雨が降ってたんじゃ、ガッカリもするだろう。とはいえ、こればかりはどうしようもない。諦めてもらうしかない。なんたって、過ごしやすいと言うよりは、涼しいを通り越して寒いぐらいなんだから。


 ボク達は手近な海の家に入ると、ホットコーヒーを頼んだ。さすがにこれだけ涼しいと、冷たい物は遠慮したくなる。


「はぁー。せっかく楽しみにしてたのに、残念だなぁ」


「仕方ないさ。天気ばかりは、人の手で変えることは出来ないんだから。また、今度来ればいいじゃないか」


 香が憂鬱そうに呟くものだから、ついそんなことを言ってしまった。だけど、香はあまり乗り気ではないようだ。


「うん……。でも、せっかく重い思いしてサンオイルとか色々用意してきたのに、ちょっと残念だなって思って。それに、貴司にあたしの水着姿をもっと沢山見せて上げたかったしさぁ」


「お前の水着は一度見せてもらってるから、もう見なくてもいいよ」


「ひっどーい。あたしの水着姿は、見るに値しないって言うの?」


 ボクがうんざりした声で言うと、香は頬を膨らませて抗議した。


 香のヤツ、ホントに自分のプロポーションに自信があるのか、よっぽどの露出狂に違いない。


「いや、そう言う訳じゃなくてさ。見せる相手が違うだろってこと」


 ボクはコーヒーを掻き混ぜながら、ボソリと呟いた。


「あは。貴司ってば、優しいんだ」


 香はニッコリ頬笑むと、下からボクを覗き込んできた。


 ボクはプイッとそっぽを向くと、海を眺めた。


 海の家から波打ち際まで50メートルほどもあるのに、思いのほか波の音が大きい。波の音がこんなに大きいなんて、ホントに知らなかった。だけど、その割りに潮の香りがしないな。やっぱり、雨が降っているからだろうか。ジリジリと肌を焦がすような太陽が出てないと、潮の香りはしないんだろうな。それだけは、ちょっと残念だ。


 そんな風にして、小一時間ほど海を眺めていたら、突然香は立ち上がって叫んだんだ。


「やっぱりダメ! 我慢できない。あたし、泳ぐ」


「!」


 まさかこの雨の中、泳ぐってんじゃないだろうな?


「おい、香。こんな雨ん中泳いだら、風邪引くぞ」


「大丈夫。あたし、幽霊だもん。風邪なんか引かないわよ」


 香は胸を張って答えたけど、それは違うだろ。


 だけど、ボクの心の中でのツッコミは香に届かず、香はバッグを持って更衣室に入って行った。


「…………」


 なんだかなぁ。まあ、香が泳ぎたいと言うんなら止めはしないけど、絶対風邪引くぞ。


 しばらくして、香が更衣室から出てきた。


「貴司ちゃん、お待たせぇ」


 香はボクの前に立つと、ポーズを取って見せた。


 着ている水着は、この間見せられた水着で、どう見ても海で着る水着には見えない。やっぱり競泳用の水着は、プールで着るべきだ。


「お待たせぇ、じゃないよ。こんなに涼しいのに、寒くないのか?」


「大丈夫よ。ホントに貴司ったら、心配性なんだから」


「別に、心配してる訳じゃないよ。香が風邪引いたら、世話を焼くのはボクなんだから、そんなことしたくないだけだよ」


「ふふふ。判ってるわよ」


 そう言うと、香はボクにバッグを押し付けた。


「人も居ないことだし、ロッカー代がもったいないから、それ、預かっててね」


 言うが早いか、香は海へと走って行った。


「おい……」


 香は途中で転びそうになりながらも、なんとか無事に海に入って行った。


「キャハ―――ァ」


 香の歓声が聞こえてくる。


 なんか、水着を着て一人で海に入っているのって、傍目から見ると凄く寂しいぞ。と言うか、間抜け。ウェットスーツ着て、サーフィンしてればまだマシなんだけど、あれじゃどう見てもアホだもんなぁ。


 ボクがのほほーんと眺めているうちに、香はいつの間にか結構沖の方に行っていた。


 なんだ、香のヤツ、泳げるんじゃないか。確かに、海で泳いだことはないと言ってたけど、泳げないとは言ってなかったもんな。




 香が海に入ってから一時間、一向に上がってくる気配がない。


 溺れたのかと何度も思ったけど、波間に泳いでいる香を見つけるたびに、ボクはホッとした。


 ボクは香のことを姉貴だと認めた訳じゃないけど、香が姉貴だったらいいのになって、思い始めているのかもしれない。


 もう昼過ぎてるんだけど、昼飯どうする気だ?


 ボクが昼飯の心配をし始めた頃、やっと香は海から上がってきた。


「お待たせぇ」


「遅いよ。昼飯、先に食べちゃうところだったんだぞ」


「ごめんごめん。この雨で、水の中より外の方が寒くて、なかなか出られなかったんだ」


 香は悪びれずにそう言うと、ボクからバスタオルを受け取ってボクの正面に腰を降ろした。


「大丈夫かよ?」


 柄にもなく、香を心配してしまう。本当なら、ここは香を小莫迦にするところだ。


「うん、平気。それに言ったでしょ。あたしは幽霊だから風邪引かないって」


「そりゃそうかもしれないけど……」


「そんなことより、お昼食べよ」


 ボクが言い淀むと、香は微笑んで言った。


「ああ」


 ボク達は全く客の居ない、殆ど貸し切り状態の海の家で、ボクはラーメンを、香は焼きそばを食べた。


 そして昼飯を食べ終えると同時に、香はまたしても海に向かって走って行った。


 香はよっぽど海が好きなのか、でなければムキになってるんだろうな。


 そうでなければ、雨が降って涼しいのに、こんなに長い時間海になんか浸かっていられないよ。



雨の中、肌寒いのに泳ぐなんて、香さんが何を考えているのか判らないよ。

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