211# 《影狼》と《邪竜》
『…邪魔だな。消えろ売女』
「ちょ——いああああ!?」
乱暴に投げ飛ばされたアステリアを、地上でリルカとフォルが受け止めた。
「ちょっと! 危ないでしょ!? ていうか、ロー君…じゃないよね!? どういう事!?」
本気で死を覚悟して顔を真っ青にするアステリアを安心させるようにフォルがぽんぽんと背を叩き、リルカが抗議の声を上げる。
別の方向では、メイリンが警戒の面持ちで杖を向けていた。
敵意、畏怖、警戒——それらを一身に受けながら、ローファスの影——《影狼》は嘲るように見下す。
『はっ! そうだ、俺に対してはその目で見ていろ! 命を助けられながら礼も無しか、などとは言わん! 口が裂けても感謝の言葉など口にするな! 気色悪過ぎて殺意が湧くからな!』
空に立ってフハハと悪役然とした高笑いをしながら、《影狼》はその直後に放たれた獄炎のブレスを最小限の動きで躱す。
高笑いの邪魔をされ、《影狼》は不機嫌そうに《邪竜》を睨む。
その知性を欠片も感じない、濁りきった目を。
『…おい駄竜。今、誰に火を吐きかけた? 力任せに暴れる事しかできん身の程知らずの獣が』
《影狼》は暗黒鎌を手に生み出し、《邪竜》に向けて最大出力の暗黒の斬撃を放った。
月夜の暗がりが、より濃厚な暗黒に染まった。
黒き破壊の奔流が山脈の表面を削り、地形を変える。
圧倒的な威力——しかし、《邪竜》は無傷。
先程と何一つ変わらず、鱗に汚れ一つ付かずそこに存在していた。
それに堪らず、リルカが叫ぶ。
「駄目だよ! 《邪竜》は無敵なの!」
その暗黒の肉体を持つのは、姿形はローファスでも、リルカにとっては別人。
どんな手段を用いたかは分からないが、少なくともそれがかつて四天王の《影狼》と呼ばれた存在である事は何となく分かる。
そしてきっと、自分達を助ける為にローファスが派遣してくれた事も。
この《影狼》は敵ではない。
だからこそ、リルカは声を張り上げて言う。
「タチアナさんの援護無しじゃその無敵は剥がせない! 力任せのゴリ押しじゃなくてもっと別の手を——」
直後、リルカの髪先を掠めるように暗黒の斬撃が飛んで来た。
「ひっ!?」
死神に指でなぞられるように、冷たい風がリルカの頬を撫でる。
明確な殺気、かつて対峙した時と同じ冷酷な目。
『黙れ空賊女。次口を開いたら殺す』
「…!」
ドスの効いた声で脅され、リルカは両手で口を塞ぐ。
《影狼》は鼻を鳴らしてリルカから視線を切ると、じろりと《邪竜》を睨んだ。
最大出力の暗黒鎌——地形を変える程の威力を真正面から受け、《邪竜》は無傷。
身動き一つ、力に押されて仰け反った形跡すら無い。
これは想定の範囲内。
時間停止——《時の鎧》の存在は、ローファスと情報を共有している《影狼》も当然知っている。
今の一撃は、《影狼》にとって攻撃ではなく検証である。
《時の鎧》は、時間停止を鎧のように纏い、あらゆる攻撃を受け付けない。
一見攻略不能の最強の防御のように思えるが、詰まる所時間操作の延長。
付け入る隙は幾らでもある。
先ずはその効果範囲と、“鎧”は何を起点にしているのか。
『上からは当然耐えるか…まあ想定通り。では次は下だ——《生者を拒む禊の門》』
《邪竜》の真下から、巨大で禍々しい漆黒の門が現れた。
門は出現と同時に《邪竜》を下から突き上げる。
《邪竜》は無傷——しかし刹那の拮抗の末、《邪竜》は門により天高く打ち上げられた。
最初の暗黒鎌の一撃は、《時の鎧》の耐久テストと同時に暗黒の魔力を地上に直接打ち込み、《邪竜》の下に魔法陣を刻み付ける為のもの。
天高く舞う《邪竜》を、リルカ、フォル、アステリア、メイリンの四人はポカンと見上げる。
どんな攻撃も問答無用で弾いていた《邪竜》が、吹っ飛ばされた。
リルカは思う。
たとえ《影狼》であろうとも、やはりローファスはローファスだと。
*
《時の鎧》は、時間停止による絶対不変の領域を鎧のように身に纏い、あらゆる攻撃を無効化する。
しかしその“鎧”の起点は飽く迄も《邪竜》の肉体にある。
そして《邪竜》は、無敵の鎧を纏いながらも地に足を付けており、それは即ち引力の影響下にあるという事の証明である。
《邪竜》はあらゆる攻撃を問答無用で弾く。
時には《邪竜》以上の質量を持つ攻撃すら——例えば明らかに《邪竜》を吹き飛ばすレベルの威力を持っていた最大出力の暗黒鎌であろうと一方的に押し返す。
そんな芸当ができているのは、《邪竜》が地に足を付けているからに他ならない。
《時の鎧》が作用しているのは飽く迄も《邪竜》だけであり、空間や座標に固定されている訳ではない。
故に《邪竜》を傷付ける事ができずとも、力の押し合いに関しては質量勝負になる。
《邪竜》が動かないのは、《邪竜》自身が地に足を着け、己の質量と大地の質量を合算させていたから。
《邪竜》が地に足を着けている限り、《邪竜》に力押し——質量勝負に勝つには、詰まる所大陸を引っぺがす程のエネルギーが必要という事になる。
つまり、ただの力押しで《邪竜》に勝つのは不可能に近いという事。
しかしこれの攻略は簡単である。
問題なのは、掛ける力の向き。
時間停止という絶対不変の鎧を纏う《邪竜》を動かしたいから、上や側面からの攻撃ではなく、下から押し上げる形で力を加えてやれば良い。
《生者を拒む禊の門》は、暗黒魔法の中でも最高の硬さと質量を誇る。
《邪竜》を打ち上げるのに最適な魔法である。
ここまでは《影狼》の推察通り。
しかしこれだけでは、攻略したとはいえない。
この程度では、《時の鎧》の防御を突破する事はできない。
《影狼》は、ただ広く暴れても周囲への影響の少ない天上に戦場を移したかっただけ。
本当の攻略はこれからである。
天に打ち上げられ、翼を広げ羽ばたく《邪竜》の下に、暗黒の飛竜が高速で接近する。
その背には《影狼》が乗っていた。
『さて《邪竜》——自慢の鎧を剥がしてやろう。この世に無敵なんてものなど無い事を無知な貴様に教えてやる』
《影狼》の影より、一体の小さな使い魔が現れた。
手に乗る程に小さな、ふさふさとした尾が特徴な齧歯類——リスに似た魔物。
名を家守り栗鼠。
古い屋敷に住み着く魔物であり、全国的に分布し、目撃情報が多いものの非常に逃げ足が早く捕縛記録が殆どない。
その愛らしい姿と神出鬼没な様から《古城の妖精》とも呼ばれている。
人間に対して実害も無い為、積極的に駆除される事もない。
世間では殆ど知られていないが、その固有能力は——自由度の高い転移である。
《影狼》は背後に無数の暗黒槍を展開し、己が使い魔に短く合図する。
『やれ、イル』
暗き家守り栗鼠は、軽やかに《影狼》の肩に登り、「キュウ!」と一鳴きした。
その瞬間、無数に展開されたの暗黒槍の内、一本だけ消失した。
それだけ、それ以外には何も起きない。
当然、《邪竜》は構わず翼を羽ばたかせて襲い来るが、《影狼》はそれを一瞥もせず暗黒槍の弾幕で迎撃する。
当然、その程度では《時の鎧》は突破できない。
しかしここは上空。
数多の暗黒槍による多段的な魔力爆発は、《邪竜》を傷付ける事はできなくとも、その飛翔を妨げる事はできる。
数の暴力によるエネルギーは、《邪竜》の質量を上回る事でその突進を寄せ付けない。
『ふむ…変化なしか。だが槍は消えた。転移先に出現しないという事は、止められたか…まあ想定内だ』
《影狼》はニヤリと笑い、繰り返し命ずる。
『やれ——全部だ』
暗き家守り栗鼠は再び「キュッ!」と一鳴きすると、展開されていた全ての暗黒槍が消失した。
家守り栗鼠——かつての《影狼》が探し求めていた“転移能力持ち”の魔物。
レイモンドの召喚獣——長距離転移の能力を有する上位精霊マニフィス。
長距離転移の術式を知らないローファスからすれば、それは喉から手が出る程に欲しい魔物であった。
しかしそもそも、転移能力を有する魔物自体が稀であり、そうそう見つける事はできない。
そしてレイモンドと協力して見つけたのが、この家守り栗鼠。
望んでいた長距離転移は扱えなかったものの、短距離ではあるがかなり自由度の高い転移を扱える。
その利便性、自由度の高さは転移距離を除けばマニフィス以上。
家守り栗鼠の強みは、転移の発動速度と、転移先の優先順位。
転移は術式によるマーキングか座標指定により転移先を設定するが、基本的に物質同士が重なり合わないように転移させる必要がある。
そうしなければ、転移自体がそもそも発動すらしない。
しかし家守り栗鼠の転移術式は少々特殊であり、転移させる物質を優先的に保護する性質がある。
つまり、もし転移先に弊害物があったとしても、その物質を押し退けて出現させる。
結局長距離転移持ちの魔物は捕まえられなかったが、ある種家守り栗鼠にはそれ以上の戦術的価値があった。
《影狼》がやったのは実に単純。
《邪竜》の体内に暗黒槍を転移させただけ。
しかし一本目は槍が消えただけで《邪竜》に変化無し。
転移自体は発動しているが、《時の鎧》による時間停止が転移そのものを止めているという事。
転移そのものが止められる以上、この戦法は無意味——とはならない。
何事にも限界というものがある。
この世に無尽蔵はあっても、無限なんてものはない。
なぜならばこの世界が有限であるから。
過度なエネルギー、たとえば魔人化したローファスの全力は世界に傷を負わせる事もできる。
有限なこの世界で生まれた《神》の《権能》にも、当然限界はある。
《時の鎧》に罅が入り、《邪竜》はその動きを一瞬止めた。
《権能》という世界のルールに反する新たなる法則に入った亀裂。
《影狼》はニヤリと笑う。
『ほう、たったの百足らずで歪みが出るか。最低でも万はいると想定していたんだが…《権能》とやらも案外脆いな。興醒めだ』
《時の鎧》、時間停止の範囲は《邪竜》の体表から約1cm程度、大気を含めて作用する。
《権能》とは世界の法則に反する新たなるルールであり、行使するだけでも明確な世界のルール違反。
故に行使するだけでも神力を消耗する。
神力の消耗度合いは、《権能》が作用する対象によって大きく異なる。
他者——特に人間のような生物相手であれば神力の消耗は膨大だが、《神》であり《権能》の力の根幹そのものである自分自身に作用させる場合は殆ど消耗しない。
神力の消耗は0ではないが、時間経過と共に得られる神力と相殺できる。
即ち自分自身への《権能》行使による神力の消費は実質的に0であり、つまり《邪竜》は《権能》そのものを引き剥がされない限りは半永久的に不死身を持続できるという事。
しかしそれは、一般的な運用に限った話。
如何なる攻撃も、停止した時間までは突破できない為、一方的に弾かれる。
そこで《影狼》は、外からの攻撃ではなく内から——《邪竜》の体内に直接転移させる戦法を取った。
時間が停止している為、当然転移自体が発動しない。
しかし暗黒槍は既に射出済み。
この世界から姿を消した。
転移先の時が止まっている為、謂わば出現する筈の暗黒槍はせき止められている状態にある。
この時点で転移して出現しようとする力と、《時の鎧》による出現を遮る力の押し合いになる。
《影狼》は使い魔の力を用いて暗黒槍を空間を超えて射出しただけ。
その後は、《邪竜》の《権能》の力と世界の法則の鬩ぎ合い、ルールの押し付け合い。
当然、槍一本程度では《神》の《権能》は破れない。
しかし追加で転移させた百近い暗黒槍で停止した時間に亀裂が入った。
数が増えれば当然、負荷も増える。
そして槍の転移自体はキャンセルされた訳ではなく、飽く迄もせき止められている以上、その負荷は蓄積される。
ならば《影狼》が次に取る手段は、この上ない数の暴力——追加で千本。
『さあ転移だ——やれ、イル』
《影狼》が続けて並列展開した千余りの暗黒槍は、家守り栗鼠の「キュウ」という一鳴きで全て消失した。
直後——《時の鎧》は過剰な負荷により砕け散り、《邪竜》は全身から無数の黒き槍を突き出した。
《邪竜》の異様な耐久は、転移による空間断絶の前では無意味。
《時の鎧》は破られ、《邪竜》の肉体は致命傷を負った。
生命維持すら困難、或いは即死していてもおかしくはない。
しかし、それでも《邪竜》は死なない。
それは元来の生命力の高さ故か、それとも《死の拒絶》により死に体でも魂が肉体に繋ぎ止められているからか。
そして肉体の損傷に伴い、第二の不死——《原点回帰》が発動する。
逆転する時間が《邪竜》の傷を瞬く間に再生させていく。
《影狼》の顔に絶望は——無い。
それどころか嗜虐的に笑い、家守り栗鼠の転移により《邪竜》の背に乗った。
そして手を《邪竜》に翳し、ある魔法を発動する。
『——《躰回帰》』
それは色々と騒動に巻き込まれていたローファスに代わり、それなりに時間があった《影狼》が解析を進めていた魔法。
見様見真似で術式を再現し、分かった事は魔力消費が非常に多い事と——人間では行使できない術式の魔法であるという事。
故に、人間であるローファスには扱えない。
しかし《影狼》は既に人の身ではなく、生物学的には精霊に使い存在。
元より暗黒の肉体であり、魔力で傷の再生ができる《影狼》には不要な魔法だったが、使い所はあった。
《原点回帰》に《躰回帰》を重ね掛ける。
マイナスにマイナスを掛ければプラスに転じるように、逆転する時間が更に逆転すれば——時間は進む。
凄まじい速度で。
『——!?』
ここに来て初めて、《邪竜》の口より苦悶の悲鳴が上がった。
再生により塞がり掛けていた傷が開き、《邪竜》は全身より血を吹き出した。
傷が開ききり、それでも尚時間は進む。
『おいおい、《原点回帰》を解かねば時間は進み続けるぞ? それとも自力では解けないのか?』
ニヤニヤと嗤う《影狼》。
《原点回帰》は、《邪竜》が傷を負った事をトリガーに発動する。
効力が解かれるのは、《邪竜》の傷が完治した時。
傷が完治しない限り、《原点回帰》は身体を元の状態に戻す為、時間を巻き戻し続ける。
『スロウスの《完全なる力の循環》に、貴様の《死の拒絶》と…己に作用させられるタイプの《権能》は良いな。《黒魔導》のは自身に使えるものではないからな。さぞ羨ましがっている事だろうよ。だがどれだけ優れた《権能》も、扱えるだけの知能がなければ宝の持ち腐れだ』
時間は凄まじい速度で進み続け、血は乾燥して砂となり、黒き鱗や甲殻は塵となって落ち、肉は削ぎ落ちて皮となる。
《邪竜》は風化し、ミイラのように変貌した。
それでも時は進み続ける。
《邪竜》が肉体に魂を縛り続けている限り、《権能》は解けない。
『動く死体——アンデッドの殺し方を知っているか? 存在を保てぬ程粉々に、媒体となる死体を破壊する事だ。だがまあ…どうやら俺が手を下す必要もないらしい』
不死の《邪竜》を殺すのは第三者ではなく、《邪竜》の《権能》そのもの。
果たしてどれだけの時間が進んだのか、《邪竜》の骨と化した肉体は遂に灰となって崩れ落ちる。
《邪竜》と呼べるものは、この世から消えた。
『フン…大した事ないな、《神》とやらも』
それは明確な勝利宣言。
不可能かに思われた不死の《権能》の完全攻略。
不死の《邪竜》とかつての四天王|《影狼》の戦いの勝敗は決した。
さらさらと舞い散る《邪竜》の黒き骨粉は月明かりに照らされながら——尚も、神力を宿していた。




