第2話 両親の温情と窮状
私は「おほほ」と、子猫のように笑って誤魔化した。
「お父っさん私で御座んす」
悪太郎から一転、花香る可愛ゆい声。
父は障子を引き開け、納得の溜息。
「ほうお関か、どうして又、こんなおそくに出かけて来た、人力車もなし、女中も連れず、やれ/\、ま、早く中へ這入れ、さあ這入れ」
門を潜れば解れる口の端。
勝手知ったる実家の間取り、いつもの処へ腰を下ろそうとするが、掛かるは父の待った。
「さ、蒲團へ乗れ、蒲團へ」
訝しんで見渡せば、月明かりが照らす、屑散る畳。
色褪せた藺草、踏まれれば痛むのも道理。
すぐに取り換えればいいものを、此れ如何に。
「何うも畳が汚ないので大家に言ったが、職人の都合があると言うてな。着物がたまらぬから夫れを敷いて呉れ」
「そうでしたか」と合点がいったものの、次に来る畳表は、狐色か飴色か。
「やれ/\何うして此んな遅くに出て来た。先方の宅では皆お変わり無しか」
父は私を、いつもと変わらず奥様扱い、座った蒲団は針の筵。
私は、情け無く流れそうに涙を、じっと呑み込んで答える。
「はい誰れも身体の障りも御座りませぬ。お父っさんもおっ母さんも御機嫌よくいらっしゃりますか」
「いや最う私は嚏一つせぬ位、お袋は時偶頭痛を始めるがの」
「頭痛だって大変なのよ、お父さん。よく来たね、お関」
小言零すは私の母。幾度も目にした他愛の無いやりとり。見過ごしてきたはずなのに、今は羨ましくてたまらない。
奥から茶椀を持ってきてくれた母は、屈託のない笑顔でほた/\と茶を進めてくれる。
「亥之さんが見えませぬが、今晩は何処へか参りましたか」
私には弟がいる。部屋なんていくつもない家なのに、姿が見えぬとは珍しい。
「亥之は今しがた、夜間学校に出て行ましたよ。あれもお前のお蔭で此の間は昇給させて頂いたし、課長樣が可愛がって下さるので心強い」
「是れも矢張り、原田さんの縁が有るからだと、お袋がいつも言っている」
「だってそうじゃありませんか。お父さんもそう思うでしょ。だからお関、お前が原田さんのご機嫌がいいように取り計らってお呉れ。あの子は口の重い質だし、お目に懸かっても呆気ないご挨拶しか出来ないと思われるから」
弟の亥之助は、良人の口添えで下級役人の働き口に就いた。父も働けぬ年ならば、頼みは弟の稼ぎ。彼の出世に実家・斎藤家の命運がかかっている。
「季節の変わり目で陽気が悪いけど太郎は何時もお悪戯をして居ますか? 何故、今夜は連れてこなかったのだ?」
「連れて来ようとも思いましたけれど、彼の子は疾うに寝てましたから、其のまま置いて参りました」
澄ました顔で答えたけれど、胸の内は流れ渦巻く滝壺のよう。
思い切って置いては来たれど、今頃目を覚まし「母さん母さん」と泣いておろう。女中たちを煩わらせ、「鬼に喰わす」と脅かされているのでは。
「嗚呼、可哀そうなことを」と泣きたいの山々なれど、両親の機嫌がいいから言えず仕舞い。
「お父さんも恋しがっていましたものを」
と母に言われ、又今更に心悲しい。
煙草の煙に噎せたように装って、涙を着物の袖に隠してやり過ごす。
「さあさ、お団子を拵えたから召し上がれ」
今日は旧暦の長月(九月)十三日。葉月(八月)十五日が十五夜なので、今宵は十三夜。
十五夜の次に美しいとされる月が昇る十三夜だが、今は下火。十五夜に団子を供えても、古めかしい十三夜をやらない家が増えたとか。
瓶に挿さった薄があるので、母が亥之助に頼んで、後ろの土手からが折って来て貰ったのだろう。
「お団子を差し入れようにも、麻の着物では恥ずかしくて、其方の家に出入りで出来る筈もなく、お重箱からして見窄らしい」
私は着ていた木綿の着物を見下ろす。いつもより煌びやかさに劣るが、木綿は高級品。
平安の頃、貴族の娘の着ていた十二単がお蚕様の紡ぐ絹で出来ていたように、絹は一握りの者だけが手に入れられる代物。それが叶わぬ民は、植物の麻の繊維を使った着物を着ていた。江戸時代より綿の花が栽培されると、木綿は温かく、麻のようにチクチクとしないので重宝されはする。とはいえ、まだ産地が限られ数が少なく、貧しい人は麻を着る他ない。
こちらから尋ねることは出来ても、両親は手紙を出すことも憚れる。
「今夜来て呉れるとは夢の樣な、ほんに心が届いたのであろう。肩肘の張る奧様を取り捨て今は昔のお関に戻り、見栄を構わず豆なり栗なり気に入ったものを食べて見せてお呉れ」
優しい気遣い、草臥れた心に染み入る。幾つに成っても親には敵わぬ。
「私は親不孝だと思いまする、それは成る程ど柔らかい着物を着て、人力車で乗り歩く時は立派らしくも見えましょう。けれど、お父さんやお母さんに楽させてあげる事も出来ず、いわば自分一人だけの贅沢。いっそ内職でもしてもお傍で暮した方が余っ程ど良いでしょう」
私は萎らしく言って、憐れみを誘う。
そのまま離縁を切り出さんとするが、父が血相を変える。
「馬鹿々々、其の様な事を仮にも言うてはならぬ。嫁に行った身が実家の親に仕送りをするなどと思いも寄らぬこと。家に居る時は斎藤の娘、嫁に入っては原田の奧方ではないか」
怒られるかと身構えまするが、父はふっと頬を緩ませた。
「気負うからいけないのだ。勇さんの気に入る様に、家の内を収めてさえおけば何の差し支えない。今は息抜きだと思って食えばいい。お袋が熱心に拵えた団子だ。十分に食べて安心させて遣って呉れ、とんでもなく旨いぞ」
父がお道化て言うので胸を撫でおろす。
しかし、言いそびれてしまった離縁の話。
和やかな雰囲気を壊すことも出来ず、御馳走の栗や枝豆を有り難く頂戴した。
それから暫くおしゃべりをしていると、父が机の上の置時計を眺めて声を上げる。
「こりゃ程なく十時になるがお関は泊って行っていいのかの。帰るならば最う帰らねば成るまいぞ」
このまま帰れば、太郎を置いて何処に行っていたと責められるのは避けられぬ。
最早、手を拱いている暇はない。
私は腹を括って、父を見上げる。
「御父樣、私はお願いがあつて出て来たので御座ります、何卒お聞遊ばして」
畳に手を突く時、真剣な眼差しで父を見据えるが、一と雫のの憂いが零れ落ちた。




