第4章・3話 災難のその後・二人の死
さてあの光を見てから、私の生活が変わったかというと、そんなこともありません。
彼女に仕え、まめまめしく身の回りの世話をしました。
夫婦の契りなど、とんでも御座いません。
気位の高い彼女が口にしなかったからですが、それよりも私が望まなかったからです。
私がお慕いしたのは災いの遭う前のお顔。
主従関係を壊せば、あのお姿を胸の内に留めておくことができません。
増してや憐れみを買って契りを交わすなど、彼女の誇りを踏み躙るだけ。
弟子としての礼儀を守り奉公の誠意を尽くし、お師匠様が少しでも自信を取り戻せるように努めなければなりません。
彼女の幸せは私の幸せですから。
それに目に見える形だけが、幸せとは限りません。
私どもは目が見えぬからこそ、手での触れ合いに重きを置きます。
着物の着付けや入浴・按摩、そうした世話を通した細かな愛。
彼女が生きていたら燃え盛る炎のように否定するでしょうが、口にしたら霞のように消えてしまうような、儚くて愛おしい、そんなやり取りがあったのです。
長年のことですから、眼が見えずとも世話役は務まりますし、お師匠様の趣味を知り尽くしていた私以外には譲りたくありません。
ですが自分の世話は眼に頼っていたものですからままならず、火を使う料理は危なくてできませんでした。
そこで鴫沢てるという12歳の少女を迎えました。1874年のことです。
その頃からお師匠様は頭巾で首を包み、端が眼蓋の上へまで垂れ下がるようにし頬や口なども隠していました。
家の者にも見せなかったので、てるは火傷の痕を見ていません。
私がお師匠様の生涯を纏めた『鵙屋春琴伝』で、初めて知ったいいます。
私はお師匠様と入れ替わるように師匠の仕事を譲り受け、痩せ腕ながら一家の生計を支えました。
『琴台』という号を頂き、門弟の稽古を全部引き継ぎ、音曲指南の看板にも『鵙屋春琴』の名の傍へ小さく「温井琴台」の名を掲げることを許されました。
私が弟子に教えている間、お師匠様は独り奥の間に引き篭もり、鸞の鳴く音などに聞き惚れていらっしゃいました。
ですが私の手を借りなければ用の足りない場合が起こると、時々呼び出されます。
私はお師匠様に使えるために弟子を取っているわけですから、稽古など放ってお師匠様の元へ駆けつけました。
なのでお師匠様と離れ離れになる出稽古は受け付けません。
弟子たちには『お師匠さん』と呼ぶことを禁じ、『佐助さん』『佐助』と呼べと命じました。
家の者には『佐助どん』です。
結婚を控え主従関係を保っているのに、周りから呼ばれたら形だけになってしまうでしょう。
皆なるべく私の名前を呼ばずに話しかけますが、てるだけは私とお師匠様二人に接するので、名前で呼んでくれました。
お師匠様の亡くなった後は『検校の位を賜りましたので、名前で呼んでくれるものが減って落ち込みましたが、てるは名前で呼んでくれたので、あの甘くも清らかな気持ちを胸に抱き続けることができたのです。
彼女は脚気に罹り、心臓麻痺で永い眠りにつきました。
脚気とは炭水化物を体に取り入れやすくする栄養―ビタミンB1が足りなくなって起こる病。
手足が痺れ、筋肉が衰えて歩くのが難しくなり、心臓を動かす筋肉も弛むので死に結びつきます。
ビタミンB1は玄米の胚芽に含まれ、白米ばかり食べているとなりやすくなる。
私ら奉公人のように玄米を食べず、贅沢な白米を食べていたお師匠様らしい最期でした。
1886年、あの災難から21年後、58歳のことです。
ついでに私はというと1907年、83歳で天寿を全うしました。
子は三男一女がおりましたが、女の子は生まれた後すぐ死に、男の子は河内の農家へ貰われました。
盲目の父親に会いに来ることもなく、妻も妾もおらず、奉公人に見守れながら旅立ちました。
あちらでもお師匠様にお仕えできると信じて。
原作: 『春琴抄』
原作者:谷川潤一郎
発表年:1933年
青空文庫『春琴抄』
https://www.aozora.gr.jp/cards/001383/files/56866_58169.html




