第3章・1話 新しい生活と変わらない態度
お嬢様の妊娠の一件は有耶無耶に葬られて、私は前と同じように手曳きを務めました。
鵙屋ご夫婦や奉公人は私らの関係を判然させようとしましたが、お嬢様は激しい気性を持って払い除け、私はお嬢様の手前、飽くまで否定することしかでできません
なので公然の秘密になりながら、相弟子とも恋仲ともつかぬ曖昧な状態が続きました。
そんな折り、お師匠様・春松検校が亡くなりました、お嬢様が20歳の時です。
生前、実力を認められていたお嬢様は、お師匠様から『春』の一字を頂き、『春琴』と名付けられ、晴れの舞台に合奏したり、高いところを唄わせと、常に引き立ててもらいました。
これを機に、お嬢様は独立して師匠の看板を掲げ、弟子を取るようになったのは当然の成り行きかも知れません。
鵙屋ご夫婦は、私ら二人をいつまで曖味な状態に置いては奉公人共の示しが付かないと、淀屋橋の一軒家に同棲させるという方法を取りました。
勿論私の扱いは変わらず手曳きを任せられ、再びお嬢様に師事することになります。
なので誰に憚ることもなく『お師匠様』と呼び、お嬢様からは『佐助どん』と呼ばれました。
お師匠様は私と夫婦らしく見られるのを甚だしく嫌い、師弟の礼儀・言葉遣いを徹底され、私は約束を違えることはありません。
故に事情を知らない新参入門者は、私ら二人の間を子弟と疑いませんでした。
お嬢様は、潔癖と言えるほど綺麗好きでした。
肌着を毎日洗濯させることは勿論、朝夕に部屋の掃除をさせ、畳や座布団に座るときは表面を撫でて、塵埃がないか確かめました。
道修町の実家では両親や兄弟への気兼ねがありましたが、淀屋橋で一戸の主になると、潔癖と我儘は募るばかりです。
盲目ではありましたが、周りの評判から自らの容姿が優れていることを知っており、衣類や髪飾りの選択には余念がありません。
糸瓜の水を珍重し顔や手足がつるつる滑るようでなければ、気持ち悪がりました。
全ての絃楽器奏者は弦を押える必要上、左手の指の爪の生え加減を気にするものですが、お師匠様は必ず3日ごとに爪を切らせ鑢をかけさせます。
それが左の手ばかりでなく両手両足に及び、ほとんど目に見えて伸びていない爪をいつも同じ恰好に正確に切るように命じ、切った痕を一つ一つ手で探り見て、少しでも狂いがあることを許しませんでした。
私以外に物を食べる様を見せないお師匠様は、客に招かれた時はほんの形式に箸を取るのみで、至って上品のように思われました。
内実は食べ物に贅を尽くす美食家でした。ご飯はお椀2杯も食べ、おかずも一と箸ずついろいろの皿へ手をつけるので品数が多くなり、給仕する私を困らせるのが目的のようでした。
お師匠様は頗る上気せ性なのに、頗る冷え性でした。、
夏の盛りといえども肌に汗をかかず、足は氷のように冷たい。
そのため四季を通じて厚い綿の入った羽二重、もしくは縮緬の小袖を寝間着にしておりました。
裾を長く伸ばしたまま着て、両足を十分に包んで寝入り、少しも寝姿を乱しません。寝るときは大層行儀が良かったのです。
上気せることを恐れるため、なるべく炬燵や湯たんぽをお使いになりません。
あまりに冷えると私が両足を懐に抱いて温めましたが、それでも容易に温もらず私の胸が却って冷え切ってしまうのです。
風呂に入ると私がお師匠様の体を洗い、厠に行くと私が始末するので、お師匠様は手を洗いませんでした。
入浴の時は浴室に湯気が籠らぬように、冬でも窓を開け放ち、ぬるま湯に1・2分間ずつ何回も潰かりました。長湯をすると直ぐに動悸がして上気せるので、できるだけ短時間に温まり大急ぎで体を洗わねばなりません。
私はこのような世話を一人で引き請け、合間に稽古をしてもらい、時にはお師匠様に代って後進の弟子達に教えもしました。
私はお師匠様の代稽古はしますけれど、特別の地位は認められず、門弟や女中たちからはを『佐助どん』と呼ぶように命ぜられ、出稽古の供をする時は玄関先で待たされました。
私ら奉公人の給料は時々しか貰えず、煙草を買うのにも窮することがありました。
衣類は盆暮れにお仕えするための服しか頂けません。
お師匠様はその日その日の米の減りを確かめて、多い少ないというので満足に食事もできませんでした。
独り(ひと)りの家なら奉公人が1・2人で済みますが、お師匠様の家には常に5・6人程おりました。
私はお師匠様につきっきりなのですが、他の者は小鳥道楽に回されたのです。
雲雀・駒鳥・鸚鵡目白・頬白と、飼っている小鳥の種類は多く、中でも鶯の世話が大変でした。
師匠の鶯に稽古をつけてもらうために連れて行ったり、自家製の擦り餌と自然にいる虫を捕まえて食べさせたりと、手間のかかります。
そして各々の小鳥を5・6羽ずつ飼っていました。
粗衣粗食を強いられた奉公仲間が、「私らよりも、小鳥のほうが大事にされている」と嘆くのも、無理ありません。
お師匠様は大阪第一流の三味線の名手だと自負しており、公平な者は皆認めていました。
三味線弾きの芸人は「音締めが冴えていて、音色も単に美しいのみではなくて変化に富み、時には沈痛な深みのある音」と称えてくださいました。
しかし名人意識が高いせいか、稽古は鞭撻の域を通り越して、意地の悪い折檻に発展します。
腕は華奢ですが、絃を扱うせいか指先に力があり、掌がよく撓るので、平手打ちで頬を撲たれると相当に痛い。
そのため、芸人志望が三味線で生計を立てる為に入門しますが、長く堪え忍んだ者は少なく、大抵は辛抱できずに一と月で辞めてしまうのです。
腕前が幅を利かせ、表向きはこのような暴虐に門弟は耐え抜き、世間にも許されていました。
ですが密かに、恨みを買っていたようです。




