14話
○黒咲遥
優希さんとランチを楽しんだ私は、優希さんの提案により、彼女のお部屋へと案内されていた。
優希さんが一人暮らししている家は、喫茶店から徒歩で十分くらいのマンションの二階にあった。
玄関からしてセキュリティがしっかりしているのが窺える、新しめのマンション。親が安全性重視で選んでくれたんです、と優希さんは言っていた。
促されるままに玄関をくぐり、部屋の中に入り、黒猫柄のクッションに座る。
期待しないで、とは言われたが、それでもどうしたって浮き足立ってしまう。いや、優希さんといるときは常に浮き足立っているのだけど、今日は特に尋常じゃなかった。
それもそのはず。何しろ、つい先ほど優希さんと恋人になったばかりなのだから。最初は夢か、それとも妄想としか思っていなかったけれど、どうやら嬉しいことに現実のようだった。
優希さんが、私の彼女になった。
私も、優希さんの彼女になった。
そしてそんな彼女から家に来ないかと誘われて、今こうして黒猫クッションの上に座っているのだ。
落ち着かない。
落ち着けるはずがなかった。
飲み物を持ってきます、と言って優希さんが部屋を出て行くのを見てから、さりげなく周囲を見渡してみる。
ベージュのカーテンや木製の箪笥、大人しめのピンクと黄色の柄が入った掛け布団にベッド。全体的に落ち着いた色合いだった。私自身あまり派手な色が好みではないので、そこがとても好印象だった。
様々な家具などを見ていく中で、特に目についたのは本棚だった。縦に長いタイプのその本棚には、その名前に相応しく、数多くの本が余すところなく並べられていた。小説や漫画が多いが、一部に参考書などもある。
整理整頓が行き届いている本棚。そのすぐ側の床に乱雑に積み上げられていた数冊の漫画に、私は当然のごとく興味を持った。
なんとはなしにそのまま漫画の背表紙に目を移し、タイトルを見て、そして、一瞬目を疑った。
思わず二度見もした。
見間違いかと思ったけど、そうではなかった。
(……こういうのが、優希さんの趣味なのかしら……。あとで)
「黒咲さん、お待たせしました。麦茶と、それからお菓子です。良かったらどうぞ」
と、ここで優希さんが帰ってきた。
「ありがとう、優希さん」
机を挟んで、対面する形で座った優希さん。
呼び名はいつの間にか「黒咲さん」に戻っていたが、あまり無理強いするのも良くないので、そのままになっていた。
それにしても、と思い返す。
思い返したのは、「遥さん」と呼ぶ時の優希さんの目を逸らす仕草。
可愛かった。
それはもう可愛かった。
過去最高レベルの可愛さだった。
表情こそほとんど変わっていなかったが、あれは間違いなく照れていたと、私の勘がそう告げていた。
出来れば継続して呼んで欲しかったところだけど、その場合、いつか慣れてしまってあの仕草が見られなくなる日が来るかもしれないと思うと、なかなか甲乙つけがたい判断だった。
全ては優希さんが呼んでくれること前提の話だけど。
「ところで優希さん。優希さんは、兄弟や姉妹はいるのかしら?」
優希さんが座ったところで、話題を提供するような形で気になっていたことの一つを聞いてみた。
確か妹さんがいると聞いたことがあったけど、それくらいしか知らなかったのだ。
「妹が一人いますよ。五つ下で、今中学生です」
「妹さんがいるのね。私は一人っ子だから、姉妹ってなんだか羨ましいわね。……優希さんは、妹さんとは仲がいいのかしら」
「そうですね、仲はいい方だと思いますよ。喧嘩も多いですけどね。でも、やっぱり、五歳も年が離れていると、なんだかんだ可愛いと思うときがあるんです」
これは相当仲の良さそうな姉妹だなと、そう感じさせる話し方だった。
漫画のタイトルが脳裏をよぎる。
(まさか……。いやいや、有り得ないわ)
とは思いながらも、やっぱり気になる。
あの漫画のことが頭から離れなかった。
それからしばらく会話が続いたけど、漫画に気をとられて半分くらいしか話を聞けていなかった。
気になって仕方なかった。
だからこそ、優希さんのその発言は、まさに渡りに舟と言うべきものだった。
「すいません。少し、トイレに」
と。
退室。
部屋には、私一人。
しかし、すぐには行動しない。
慎重に慎重を重ねて、トイレの扉が閉まる音を聞いて、そして私は、満を持して、重ねて置いてあったその漫画の一巻を手に取った。
タイトル『妹、恋人』
表紙絵は二人の少女が向き合っている姿だった。
そして、漫画を開く。
いつ優希さんが戻ってくるか分からないという緊張感に包まれながら、私はページをめくっていった。ストーリーも気になるところだが、それよりも今はおおよそどんな漫画なのかを知りたかったので、見開き1ページを2秒のペースで絵を中心に読み進める。
最初に手が止まったのは、キスシーンだった。
なんとなく表紙を見た時からそうではないかと思っていたけれど、案の定というか、さも当然のように、二人の少女がキスをしていた。
百合漫画だった。
ご丁寧に、「姉妹なのに」というセリフも近くにある。義理かどうかは分からなかった。
それにしても、優希さんの部屋でこれを見ていると思うと、なんだかとてもいけないことをしているような気がしてならない。それでも私のページをめくる手が休まることは無いのだけれど。
それから止まっていた手を再度動かし、いくつかのキスシーンを今度は読み飛ばし、次の巻へ。
二巻の途中で、私はまたも手を止めた。
それば、キスシーンよりも更に進展したシチュエーションのようだった。つまりは、おそらく、そういうシーンの冒頭のように思われた。
とりあえず、読む。
一つページをめくる。
読む。
ゆっくりと、熟読する。
そして更にページをめくった、その時だった。
「黒咲さん?」
ビクッッッ。
と、反射的に体が飛び上がった。暗闇でいきなり目の前に人が現れたときのような、とても心臓に悪い感じの驚きだった。
いつの間にか、優希さんが後ろに立っていたのだ。
「あ……その漫画……」
優希さんが言ったその漫画とはつまり、私がいま手に持っているこの漫画のことで間違いないだろう。
しまった。
いつの間にか、漫画にのめり込んでしまっていた。
間抜けにもほどがある。
どうしよう。
まずは謝らないと。
それから、えっと、それから、どうしよう。
そもそも謝るって、何を謝れば……。
などと、軽くパニックに陥った私は、正常な思考力を失ったまま、とりとめのない思考を脳内で繰り広げては折りたたんでいった。
そうして無駄な思考を二、三秒続けた次に、私が陥ったのは自己嫌悪だった。
また優希さんの前で失態をしてしまった、と。
後から思い返してみれば、ただ勝手に優希さんの漫画を読んでいたという点以外で特に私に非はなかったのだけれど、諸々の要因が積み重なった結果、私は自分がとてもいけないことをしてしまったかのように錯覚していたのだと思う。
特に現在開いている漫画のページが、尚のこと私を窮地に追いやっていた。
私を、そう思い込ませていた。
しかし、結局のところ、私が最初に言ったことと言えば、言い訳でもなければ謝罪でもなかった。
失敗に失敗を上塗りするように、私は口を滑らせていた。
「あの、優希さん。もしかして優希さんは、妹さんとこういう関係な」
「いやちょっと待ってください流石にそれは無いです」
否定だった。
食い気味の否定だった。
「そ、そうよね……」
「……」
「……」
「……」
そこで一度、会話は途切れた。
話し出すタイミングを逃してしまった。あるいは、なんて言えばいいか迷っている。(主に、私が変なことを聞いたせいで)
私も、多分優希さんも、お互いにそんな感じだったと思う。
優希さんは立ったまま。
私は漫画を手に、座ったまま。
何も喋らなかった。
……気まずいことこの上ない。
沈黙が続けば続くほど、何も言われていないのに、なんだか責められているような気持ちになっていった。
何か言うことはないんですか?みたいな。
何も言われていないのに。
今優希さんはどんな顔をしているだろうか。
俯いているため、わからない。
ただ何となく、気のせいかもしれないけど、視線を感じた。
俯いている私を見下ろす優希さん。
端から見れば、私が優希さんに叱られているように見えるかもしれない。
幸いにして、この部屋には私と優希さんの二人しかいないので、誰かに見られる心配をする必要はなかった。
……そう。
そうだ。
私と優希さんしか、いないのだ。
二人っきり。
密室、ではなく、優希さんの部屋で。
彼女の部屋で。
恋人の部屋で。
二人っきり。
考えれば考えるほど、現状を思い返すほどに、今自分がいる状況は本来なら決して気まずい空気になるようなものではなく、むしろ私と優希さんの仲を深めるにあたって、またとない絶好の機会であるはずなのに…………どうしてこんな変な空気になっているのだろうか。
いやもちろん、なにかハプニングがあって優希さんが私を押し倒してしまったとか、間違えて優希さんの飲み物を飲んでしまい期せずして間接キスをしてしまうだとか、そういうのがあって気まずくなったり変な空気になるのであれば、それは大いに歓迎したいところなのだけれども。
「……」
そんなこんなで、沈黙が続くこと数秒後。
「その、優希さん…………喫茶店で言ったこと、覚えてる?」
と私は言っていた。
気づいた時には、喋っていた。
沈黙に耐えきれなくなって、と言うよりは、優希さんと二人っきりという状況に堪えきれなくなって。
考えるより先に、衝動的に。
「その、恋人らしいことをやってみたいって」
「えっと、はい、覚えていますけど」
「その事でね。さっきは聞きそびれたんだけど、優希さんは、何かないかしら。その、やってみたいこと」
恋人とは、つまり私。
優希さんが私としたいこと。
どんな言葉が返ってくるのかと、少し期待していたのだけれど───
「……えっと、すいません。今は、あまり思いつかないです」
(また、「今は」か……)
残念というか、すごく残念というか。
ちょっと、落ち込んだ。
「もしかして、そういうことするの、嫌だった?」
優希さんの嫌がることをしたいわけではない。
それならば、別のアプローチを考えればいいだけのこと。
そういう意味での、質問だったのだけれど───
「……………別に、嫌では、ないですけど……」
───その反応はというと。
目を逸らしながら、優希さんは言った。
そう、それはよく知っている仕草だ。
その上で、嫌ではない、なんて。
(本当に、嫌じゃないってこと……?)
優希さんは、まだ私のことが好きではないと言っていたけれど、じゃあ、その反応はどういうことなのだろうか。
嫌じゃない。
と言うことはつまり、いいよ、ってことではなかろうか。
え、いいの?
ほんとうに?
そういう事、なのかしら?
期待とか、してもいいのだろうか。
(嫌じゃないなら……)
「優希さん」
手に持っていた漫画を置いて立ち上がる。
「は、はい」
「えっと……その……」
「……どうしました?」
「嫌じゃないなら、それなら……」
「……」
「今から、してもいいかしら」
「……」
優希さんはすぐには答えなかった。
少しだけ驚いているようにも見える優希さんの顔を眺めること、数秒が経過した後。
「まあ、いいですよ」
と。
優希さんは、頷いた。
恥ずかしげに。
目を、斜め下に逸らしながら。
恥ずかしげに。
(うわ……、なに、それ)
反則だった。
こんなの堪えられるわけがない。
可愛すぎる。
可愛いが過ぎる。
優希さんはもう少し自分の魅力というものを自覚した方がいいと思う。
そうじゃないと私が死ぬ。
死んでしまう。
────と。
その時。
私が恥じらいの真骨頂を垣間見て悶絶しているのを知ってか知らずか、優希さんは追加で条件を提示してきたのだった。
「でもその前に────」
やっぱり、そう都合良くはいかないらしい。