ゼノヴィオルの手紙 ②
「おかえり、ゼノ。……また今日も酷い顔色だね」
王都グライアズロー。セブリーヌ通り14番地のアパルトマンの3階にゼノヴィオルはエミリオと暮らしている。部屋は2つあり、どっちが自分の部屋ということもなく2人は家の中を全て共有している。窓際のベッドでエミリオは桟に肘をつきながら入ってきたゼノヴィオルに声をかける。
青白い顔に陰気な影を落としたゼノヴィオルは頬をやつれさせている。目の下には濃いくまもできている。この家へ帰ったことでもう体力を使い果たしていたが、よろよろとエミリオがいるベッドまで向かってそこに倒れ込む。
「何をされたんだい、今日は?」
「……言いたくない」
「それもそうか。明日は?」
「……お昼から、行かなきゃ……」
「じゃあそれまで、ゆっくりとおやすみよ――と言っても無駄だったね。よく眠れる薬を調合しておいたよ。用意してあげるから」
ベッドを降りてからエミリオは部屋の隅に出している作業台の前に立った。濃厚な土と葉っぱのむせ返るような悪臭を放つ鍋がずっと、とろ火にかけられている。大きな匙で3杯分をゴブレットに移すと、その液体はどろりと揺れる。たっぷりの湯気とともに悪臭も広がった。匙に残った分をぺろっとエミリオは舐めてから、小さく頷いてゴブレットを手にゼノヴィオルのところへ戻った。
「飲めるね?」
「……飲みたくない……」
「そうかい。じゃあ飲まなくていい。悪夢のうなされながら、また明日も悪夢のような1日に苦しめられるといいよ。僕は先に眠らせてもらうから」
言ってエミリオはゴブレットの中身を飲み干す。それからもう1つの別のベッドへ入ってしまう。虚ろな目でゼノヴィオルは月明かりが照らす暗い部屋で起き上がった。空っぽの桶を出してそこに顔を突っ込むと口から胃の中身を吐き出していく。それから水瓶から取った水を飲んだ。
「……エミリオ、やっぱり飲む……」
「そこの匙で3杯分さ」
悪臭の香り立つ鍋から言われた分量をゴブレットに移す。この薬がよく効くのは知っていたが、今日はいつに増して疲労と嫌悪がたたっていたので、さらに2杯分をゴブレットに加えた。それに息を吹きかけてから鼻をつまんで飲み干す。激烈な悪臭が広がり、えずいて吐き出しかけたのをこらえて飲み込む。喉やら口やら、えずきかけた拍子に潜り込んだ鼻の奥やらに悪臭はこびりつくが、すぐに意識がとろけるように朦朧としてきてベッドに倒れ込む。
目を閉じるとおぞましい感触が皮膚に蘇るような気がしたが、エミリオの薬のお陰でふわりと意識が浮かび上がるような心地がしてそのまま眠りに落ちた。
薬を飲んだ翌朝は、ゼノヴィオルは習慣づいている時間に起きることができない。それにしても、今朝は遅い時間だった。もうすぐ昼だというのにゼノヴィオルはベッドで泥のように眠っている。少し薬が効きすぎただろうかと鍋を見る。
「……減りすぎてる」
火が自然に消えるまでかけておいたから、多少、煮えてかさが減るのは計算に入る。それにしても減っていた。そこでようやくエミリオは、ゼノヴィオルが分量を守らなかったのだと気がつく。よく効く薬だからこそ分量は大事であるし、それを超えれば毒にも変わる。まして近頃は、ほぼ毎晩のように常飲しているから少しずつ効き目が悪くなっているのだ。始めに飲ませたころは匙で1杯分程度だったのに、今やその3倍。さらに増やして飲んだ。
「これに溺れたらセオに何か嫌味を言われるのかな……。まったく、手がかかる子だね、きみ」
眠っているゼノヴィオルの前髪を分けるように撫でてやってからエミリオはため息を漏らした。昼には行くという予定を思い出して、エミリオはしかめた顔でベッドに腰かける。
「ゼノ、起きる時間だよ。行かなくてもいいのかい?」
声をかけてもゼノヴィオルは深い眠りの中に落ちている。
「きみは今日も、大好きなお兄様のために自分の身を捧げに行くんだろう? そうしてきみは、身も、心も、今や限界を超えている。それを薬で誤魔化して、今日もきみは自殺しにいくんだ。……きみほど可哀そうな子は、そういないね」
言葉とは裏腹にエミリオはやさしい声色だった。眠っている顔を眺めてから、腰を上げてゼノヴィオルの服へ着替える。服を整えてから魔術を使い、ゼノヴィオルに化けてエミリオはアパルトマンを出ていった。
グライアズローの貴族街でも一層、豪奢な館がある。
ゼノヴィオルは学園に通う傍ら、この大きな屋敷にも通う日々を送っている。もう2年である。ここに住まうのは前アドリオン領主――ミナス・アドリオンの命を奪ったユーグランドの邸宅だ。ゼノヴィオルはここでユーグランド卿の姪であるヴァイオレット嬢を名目上の家庭教師として教えを受けているのだが、実態としてはユーグランドに劣らぬ歪んだ性癖と欲望をこじらせた女に虐待を受けているようなものである。
屋敷を訪問して通されるのは地下の一室。そこでヴァイオレットはゼノヴィオルを――厳密には彼に化けたエミリオを待ち受けていた。容姿だけは伯父のユーグランドと似ておらず、スタイルも良く胸も大きな美人だが嗜虐心を映し出す冷たさを、艶やかな笑みに混ぜ込んでいる。
「いらっしゃい、ゼノヴィオル」
「……」
「今夜は晩餐会がありますの。だから早めに終わらせましょうね。どんな声を出してもよろしいのよ? 昨夜はあなたが泣いて懇願するから、その誠意を見せていただいてから終わりにしましたけど……今日は時間の短い分、たっぷりと詰め込みますからね」
黙ったままエミリオは荷物を床へ降ろす。ここで行われることは口外されれば誰もに非難されて然るべきことであるが、全ては王の信頼が厚いユーグランドの権力の下に秘されているし、仮に口外しようとて言いだした方が頭のおかしい人間だと決めつけられることとなる。
ゼノヴィオルの他にも、ここで心身を削りきられて廃人となった者や、挙句にはその行為の一環で命を落とした者とている。幸か不幸か、ゼノヴィオルはヴァイオレットに気に入られ、目立つ傷を与えられることはなかったが、それだけに酷く精神的に追い詰められてもいる。ギリギリの一線を保てているかさえも、今ではエミリオにだってよく分かってはいなかった。あるいはすでに壊れていて、それが表層に出ていないだけなのではないかという考えだ。
「さあ……ふふ、ゼノヴィオル? 始めますわよ?」
「悪いけどね、おばさん。僕はゼノじゃない――」
パチンとエミリオが指を鳴らした途端、ヴァイオレットの目が見開かれた。それから昏倒するように椅子へ座り込む。
「まったく、気色悪い……。年増がどんな欲情をしていたって、気味が悪くてたまらない。ゼノを気に入る気持ちが被るだなんて、心底、吐き気がする……。せめて今も楽しく過ごしてる夢だけ見ているといいよ」
本当は永遠の眠りにつかせてやりたいともエミリオは考えたが、そこまでしては余計な火種を抱え込みかねないと思ってやめておく。深々とため息を漏らし、見つからないように屋敷を後にした。
ゼノヴィオルをユーグランドから最大限に保護するという約束をエミリオは守っている。だが事実としてゼノヴィオルをユーグランドや、その狂った性癖を共有する醜悪な連中と接触させないわけにはいかない。
だからエミリオがしているのは心身のケアだった。
怪我をすれば怪しまれない程度に癒して傷の痛みを緩和させる。精神的な傷にも似たようなケアをしている。薬を飲ませてぐっすりと眠れるようにし、ついでに悪夢さえ見せていない。
だがそれも限界が近かろうとエミリオは考えている。
薬の効能にゼノヴィオルは依存しかけているところがあるし、薬では誤魔化せないほど疲労も溜まっている。すでにエミリオとしてはもうゼノヴィオルの限界に達していておかしくないとも考えているし、続けたところで時間とともに崩壊していくだけだとも推測している。
「この早さは想定していなかっただろうな……」
遠からぬ未来、ゼノヴィオルを巡って何かが起きるとエミリオは確信を持っている。ソニアの予言ではないが、その程度の予測は簡単に成り立つ。
その時に何が起きるか、他人事としてエミリオは楽しみにしている。
年を取らぬ少年の考えでは今ごろ、セオフィラスが少年の嫌う大人に随分と近づいているころに違いがなかったためだ。そして同時にゼノヴィオルが本当に壊れてしまうのはその時に決まっているとも考えている。




