ローレンス・アドリオン ②
「エクトルは初めてだったね。ここが隣国グラッドストーンとボッシュリードの国境地帯だ。この天然の岩山をくり抜いた要塞が、グラッドストーンから国を守っている国防の要。ここから広がる荒野こそが、国境地帯ということになる。あっち側には大河を背にした要塞があって、そこがオーバエルだ」
「ではこの荒野で、大勢の人が戦い、命を落としたのですね……」
「そういうことになるね」
連れられてきたゾット要害にエクトルとサイモスはやって来ている。クラウゼン領主である母の命令に従った形だ。念のためにとクラウゼンの屋敷で食客として暮らしている剣士も同行をしていた。
「ドーグさん、いいですか?」
「何だね?」
剣士のドーグは50台という壮年の男だ。体が大きく、黒い髭を蓄えている。腰に3本の剣を吊っている。無骨ものや、無法者崩れといった人間が多いという世間の認識と異なり、ドーグはある程度の礼儀を弁えている男だった。
「これから僕らは、わざとあの国境地帯へ向かいます。きっと敵もこの荒野を監視していますから、何かの動きがあるでしょう。僕らは逃げます。ただし、逃げるのはこのゾットではなく、あちら」
「ふむ……」
「死の山道と呼ばれるところを通り、そのままアドリオン領のアルブスまで。ドーグさんには僕らの護衛をお願いします。最悪の場合、僕とエクトルの双方を守れないのであれば……エクトルだけは必ず、守り通してください」
「お兄様……」
「これは優先順位の問題なんだ、エクトル。だって僕は長男であってもクラウゼンを継ぐことはない。きっとふらふら、ずっと姉様に小間使いみたいなことをさせられて終わるだけさ。でもね、エクトルは違うだろう? セオフィラスと結ばれ、アドリオンに嫁がなきゃならない。だったら僕ときみでならば、きみが生き残るべき、守られるべきなんだ。いいね?」
「サイモスお兄様もいなくてはならない人のはずですわ。だからドーグさん、わたくしを優先するにしても最大限、サイモスお兄様のこともお守りください。こんなお願い、してもいいのか分かりませんけれど……聞いてくださる?」
「麗しい兄妹愛には弱くてな。なあに、俺も長くクラウゼンで食わせてもらってきているんだ。たまの仕事くらいは完璧以上に成し遂げる腹積もりだ、大船に乗ったつもりでいろ」
ドーグの言葉にエクトルは満面の笑みを浮かべて鈴のような声でお礼を言った。
「それでは行きましょう。……行きたくないけど」
「お兄様……」
「はああ……。気が重くて仕方がないや。嫌だなあ、本当に嫌だ……」
この場へ来てからまた、がっくりと肩を落とす兄の手を取り、エクトルはぎゅっと握りしめてから見上げた。
「アルブスは良いところでしたわ。そこへ行けると考えれば、少しはマシになるはずですわよ」
「……そうかい。でも僕にとっちゃ、姉様がいるし、死地みたいなもんさ」
「まあ……」
サイモス・クラウゼンの言葉でエクトルは今度こそ、何と声をかければ良いか分からなくなった。だがそれでこそいつも通りの兄という感じもするのだった。
アドリオン大武闘大会、3日目。
セオフィラスはすでに250人抜きを達成していた。3回戦の後半が始まり、セオフィラスは浮かない顔をしながら貴賓室に戻ってくる。
挑戦者の賞金が1万ローツを超えると武闘大会で順調に勝ち進めているような面々が何度か挑んできたりし、始めのころのような一方的な展開はなくなりつつある。だがセオフィラスは多少の手傷を負いながらも勝利だけをもぎ取り続けていた。
「坊ちゃん、どうかなされたので?」
「ううん、何でも」
「怪我の手当てをいたしましょう」
迎え入れたガラシモスはあらかじめ淹れておいたお茶を出してから手当ての準備を始める。ベアトリスもタルモらも貴賓室にはいなかった。レクサも観戦に夢中で貴賓室にはあまり来なくなっている。今は貴賓室にセオフィラスとガラシモスの2人だけだった。
「ガラシモス、カートはどう?」
「とてもやる気に満ち溢れていて、がんばろうという気持ちが伝わってきます。ですが今はこの武闘大会のことで忙しくしていますし、今日も3回戦に出るつもりだとかで夜中に稽古をしては帰ってきまして。そのせいか朝に起きられない始末でございます。見習いの身分で朝寝坊など褒められることではありませんが、説教しようにも仕事があると……。やれやれというところでしょうか」
「今だけちょっと多めに見てあげてよ?」
「坊ちゃんがそう仰るのでしたら」
「ありがとう、ガラシモス」
「その言葉はカートから坊ちゃんへ言わせましょう」
「いいって、恥ずかしいから」
丁寧にガラシモスはセオフィラスの腕に包帯を巻きつけていく。
「ねえ、ガラシモス」
「はい?」
「背中、乗ってあげようか?」
「はい?」
「いや……たまには」
「ふふ、そんなこと、坊ちゃんには申し訳がございませんから。けっこうでございますよ」
「そう? それなら別にいいんだけど。……あとさ」
「はい」
「……先生がこの前、ちょっと心配してたから俺も気になったんだけど、カタリナってさ?」
「ええ。彼女が何か?」
「結婚しないのかな……?」
「年頃ですし、その心配はごもっともなのでしょうが……カタリナは仕事と言うべきか、坊ちゃん方がお好きですからね。ご自分の幸せよりも、坊ちゃんやレクサお嬢様や、ゼノヴィオル坊ちゃんの幸せを優先してついつい働きすぎてしまうのでしょう」
「ふうん……。俺のせい?」
「そういうわけではありませんが……」
口ごもってしまったガラシモスにセオフィラスは苦笑し、ごめんと謝った。それから舞台に目を向けて試合をぼんやり眺める。
「……カタリナも年頃ではありますが、ヤコブはどうなのでしょうね」
「ヤコブくん? あー、確かに……」
「最近は屋敷の雑務ばかりで畑仕事をしないとカタリナも愚痴をこぼしていましたし。親の耕してきた畑をどうするつもりなのやら……」
「なるほど……。そう言えばガラシモスって、いつから執事やってるんだっけ? 何で執事になったの?」
「わたしですか? ……実はわたしも、カートと同じように大した爵位もない貴族の倅だったのですが、少年時代に断絶という憂き目に遭いまして。アドリオン家とは少々、縁があったものですから身を寄せさせていただいたのです。それから先代が領主となって、わたしの前の執事が隠居いたしまして、わたしがその立場を継がせていただきました」
「へえ、知らなかった……。何かガラシモスと仕事とか関係なしにお喋りするの、久しぶりかもね」
「小さいころの坊ちゃんは外で遊んでばかりでしたからね」
「たまに雨とか降ってても師匠が来てからは関係なかったし、師匠がいなかったころは……あんまり覚えてないけど、ヤコブくんとかカタリナに遊んでもらってばっかだしね」
「ええ、そうでした。あの坊ちゃんが、今はこうも立派になって……。先代も、オルガ様も、喜んでおられることでしょう」
「師匠には色気より先に血の気が出たのかとか言われたけど……」
「ふふふ……けれど坊ちゃんは坊ちゃんのままでございますよ」
他愛のない会話が続く。やっと雑談が打ち止めになったのは舞台にヤコブが登場したタイミングだった。アルブスのみならず、アドリオン領内で顔の広いヤコブは登場すると観客から冷やかされたりして盛り上がるので分かるのだ。
「ヤコブくんだ。俺、ここまで全然見られてなかったんだよね、ヤコブくんの試合」
「そうでしたか。わたしも……ちゃんとは見ていませんでしたが」
「でも相手の人、雰囲気あるね。ぼろぼろの格好だけど。獲物は……ん? 剣なしで、盾だけ? でも盾っていうか、あれじゃあ篭手……?」
「不思議な形状をしていますね……」
ヤコブの対戦相手の男はボロボロのマントを纏っていた。遠目にでもセオフィラスはしっかり細部まで観察できるだけの視力がある。篭手と一体化するようにして盾がくっついているようなものだった。そのため盾の一部分から拳が突き出ているようにも見える。
「盾としての機能を持ちながら、実質あれは上腕にくっついてるようなものだからつけてる左手の自由が利くっていうことかな。面白いかも……」
「ええ。さて、ヤコブはどこまで通用するのでしょう? 坊ちゃんはどう見られます?」
「うーん……ヤコブくんは弱いわけじゃないけど、俺よりは弱いしなあ」
「ハッキリと申されますね……」
「まあね」
苦笑したガラシモスにセオフィラスもくすりと笑っている間に試合が始まった。ヤコブが持つのは剣だけだ。駆けながらそれを切り上げたが、左腕の篭手と一体化している盾が防ぐ。剣を弾いた手を引いて拳を打ち出し、ヤコブは体を反転させるようにして回避したが裏拳がその顔面へ炸裂して吹き飛ばす。
「強い……」
ぼそりとセオフィラスが漏らす。無駄のない攻防一体の動き。ヤコブは早くも追い詰められ始め、果敢に反撃へ出て活路を見出そうとするが見透かされたように、もてあそばれるようにしてまだ軽い攻撃をバシバシとぶつけられていく。
じっとセオフィラスはその試合を見つめるが、ヤコブの応援などは頭の中になかった。ただただ、ヤコブの対戦相手の動きをじっと観察する。そうして分かったのは彼が明らかに手加減をしていることだ。それに口元が動いていて、ヤコブも何か言い返すようにしている。喋りながら、しかし一方的に、大きな差を見せつけずに戦いを制してしまっている。
「ヤコブ……!」
見ていた内に熱が入ったのか、ガラシモスが不意に声を発した。次の瞬間、大きく姿勢の崩れていたヤコブに7度目の拳が突き刺さって舞台から吹き飛ばす。舞台の下でヤコブはピクピクと動いていたが、ぱたりと上がりかかっていた腕が落ちて失神した。
「負けちゃった、ヤコブくん……」
ぽつりと呟いてセオフィラスは舞台上に残った参加者を見つめる。不意に風が吹き、彼が顔を隠していたフードが外れた。
「っ……あの方、もしかして……」
「知ってるの、ガラシモス?」
「いえ、ですが……その、坊ちゃん、あのお顔に、覚えは?」
「え?」
促されてセオフィラスが顔を見ようとすると、サッとまた彼はフードを被ってしまう。だがその寸前に見えた顔に、言われた通りにどことなく見覚えがあった。
「……お、父さん?」
信じられないものを目撃したセオフィラスはぽかんとした。




