不完全燃焼 ③
ヘクスブルグの港はいつもの賑やかな喧噪に包まれている。
波止場に積まれている木箱の上で、エミリオは仰向けになって寝転んでいた。組んだ足をたまに揺らしながら、眩しい日差しは帽子で遮ってリラックスしきっていた。
「エミリオー、エミリオ? どこー?」
そんな波止場に現れたゼノヴィオルの呼ぶ声を聞いて、エミリオは肘をつきながら少しだけ体を起こす。
「ここだよ、ゼノヴィオル」
「そんなところに……。落ちたら危ないよ、エミリオ」
「危険なんてないさ。だって僕だよ。で、何をしてきたんだい?」
木箱から足を下ろして座り、エミリオが尋ねた。帽子を目深に被りながらエミリオがゼノヴィオルを見下ろす。
「……先生の実家がこのヘクスブルグにあるから、そこに行ってきたよ」
「へえ。それで?」
「精教会の狙いを伝えてきた……けど」
「どうせ事情さえ知れば分かりきっていることだったんだろう? 精教会と白髭豚野郎の裏の繋がりなんて」
「っ……エミリオが、言ったんじゃないか」
「そりゃあね。きみがあそこでアルブスへ戻るなんて言ってたら色々なことが台なしになるところだったのだから。ああ、僕はなんてきみ想いでやさしいんだろう――なんちゃってね」
気持ちを逆撫でするような発言でゼノヴィオルの表情が歪むと、エミリオはさらにほくそ笑む。
「それじゃあ行こうか。あの船に乗るんだったね。無駄骨を折って疲れたろう? 早く船で行こう」
木箱から飛び降りたエミリオがゼノヴィオルの肩を組んで歩き出す。歩調をそろえながらゼノヴィオルは涼しい顔のエミリオに目をやった。
「ちょっとだけ、勘違いしてるみたいだね、エミリオ」
「何をだい?」
「僕は徒労なんてしてないよ」
「へえ?」
「精教会はボッシュリード貴族には脅威。それは、僕みたいな次男以下にはどうでもいいことだけど、心得のある当主や嫡男には常識なんだって」
「ふーん?」
「でも弱いものはある」
「弱いものだって?」
足を止めたエミリオに、今度はゼノヴィオルが得意そうな顔をする。
「トレーズアークの詩について、機会があれば深く調べてみたいなって思ったよ」
「もったいぶらなくていいじゃないか」
「精教会は第三者同士の争いごとに加勢してはいけない」
「……で?」
「それじゃあ、第三者同士の争いに巻き込まれてしまった場合はどうしなければならないのか、って知ってる?」
「いや?」
「自己防衛さえしてはいけない。つまり、成り行きに身を任せなければならないっていう決まりなんだ。だから精教会は基本的に巻き込まれないよう立ち回るけど、そうできなかったら……加勢してはならないという掟から、ただ殺されるか、逃げ惑うかしか許されない」
「へえ? それでどうするのさ?」
「きっとお兄様は、利害を考えずに精教会の人を庇護下に置くよ。命を救われたら、便宜をはからざるをえなくなる」
「……けどセオフィラスはそんなことを望むタイプじゃないじゃないか」
「そうだよ。お兄様は……僕を忘れて、ただ楽しくお金儲けにいそしむ性格じゃない。だから、大丈夫なんだよ」
船へ乗り込んだゼノヴィオルがエミリオの表情をうかがう。面白くなさそうな顔で、エミリオはぷいとそっぽを向いてしまった。
クラウゼン邸には常に50名近い使用人が仕え、各々の職務を全うしている。
そんな使用人の1人から母に呼ばれていると知らされて、サイモス・クラウゼンは憂うつな気分で書斎へ向かった。その廊下の曲がり角で、彼は妹に出会う。
「やあ、エクトル」
「お兄様っ、どうかしたのですか?」
「いきなり領主様にお呼ばれしてしまってね。きみは?」
「まあ、わたくしも同じですわ」
「エクトルもかい? ……僕ときみが、同時に呼び出されるような案件って何なんだろう……?」
疑問を口にしながらサイモスはエクトルと並んで書斎の前の扉へやって来た。咳ばらいをしてからドアをノックし、ドアノブを回す。
「お母様、エクトルと一緒に来ました。一体、何のご用ですか?」
ロロット・クラウゼンはサイモスとエクトルの入室に気づいて執務用の机から顔を上げた。
「つい先ほど、セオフィラスの弟のゼノヴィオルがわたしを訪ねてきましたの」
「ゼノが?」
「まあっ、セオフィラス様の弟さん? もう行ってしまいましたの?」
「ええ。船の時間があると言って、すぐに行ってしまいましたわ。
それでここからが本題なのですが……前々から、オーバエルがまた我がクラウゼンへ侵攻しようとしている動きがあると掴んでいましたの。それでゼノヴィオルが、何て言ったと思います?」
「何て言ったんです、お母様?」
「『今、アルブスには精教会の聖名がいます。恩を大安売りする絶好の機会です』って」
渋い表情でサイモスは額を押さえる。嫌な予感がひしひしとしている。
「それで、わたくし達にどのようなご用件なのでしょう?」
「……きっと今、オーバエルは次にどうやって我がクラウゼンに侵攻をするか考え、機会を伺っていることでしょう」
「嫌だ、嫌だ、嫌だ、お母様の考えが見透かせてしまいそうになってる自分が何より嫌だ……。エクトル、エクトル、悪いことは言わないから呼ばれなかったことにしてさっさと行こう、行ってしまおう?」
「何を焦っていらっしゃいますの、お兄様……?」
「サイモス、エクトル?」
「はい?」
「嫌だ嫌だ嫌だ……」
「ちょっと国境付近まで、どんな名目でもいいから視察へ行って、アドリオンまで逃げてくださるかしら?」
「ほらきたぁー!!」
「お母様、それではセオフィラス様や、アルブスの皆さん、それにお姉様まで危険にさらされてしまいますわ。それにオーバエルとの国境からと言うと、岩山が立ち塞がってしまってそう簡単に逃げることもできなくなってしまいますわ」
「そ、そうさ! エクトルの言う通り! エクトルの大事な大事な、許嫁のセオが危なくなってもいいって言うんですか!? 僕はさほど長い時間をともに過ごしたわけじゃありませんが、彼はいい若者です、将来有望! だというのに、クラウゼンの身代わりのようにしてアドリオンを差し出して、一時の脅威から逃れようだなんて――」
「サイモス、早計がすぎますわよ? ちょっとお口をつぐみなさい?」
「あ、はい……」
畳みかけようとしたサイモスはやんわりと母に遮られてしゅんと萎れるように黙った。
「ユーグランド卿が、アルブスからオーバエルとの国境付近までの山道を切り開いています。そこを通れば道の問題は解決することができますのよ」
「そんな道が、ございますの……?」
「……死の山道か」
「あら、サイモスは知っていましたのね」
「僕の耳は飾りじゃありませんからね」
「何ですか、サイモス兄様? その、死の山道というのは?」
エクトルに尋ねられたサイモスは痛々しそうな表情をしてから、ゆっくり口を開いた。
「……6年前、先代アドリオン卿が約1200人の領民という兵を連れて、ユーグランド卿に命じられて必死で切り開いた山道だよ。進軍を早くするために、ユーグランド卿は昼も夜もなく、働かせ続けたんだ。急ごしらえの道がちゃんと進めるかどうか10人ずつ先に歩かせて、崖から落ちればその屍さえも橋に見立てて踏み越えていった、って僕は聞いた。どこまで本当かは分からないけれど、そのせいで戦場にたどり着いた先代アドリオン興の兵は半数以下に減っていたらしいよ」
「そんな……」
「成り立ちについてはどうでもよろしいのよ、2人とも。とにかく道はあります」
「け、けれどお母様、その道は、セオフィラス様のお父様が切り開いたという……そんな場所を通って、敵の兵を誘導しろと仰るのですか?」
母の瞳を見つめて訴えたエクトルだったが、答えを発さず見つめ返してくる視線にやがてうなだれるように肩の力を抜いた。
「……話は以上です。2日以内に視察へ行きなさい。よろしくって、サイモス、エクトル?」
「心情的には嫌です」
「……サイモス兄様」
「けど、その一手でオーバエルとの関係をどうにかできるんですね? また、勝ちも負けもない大戦で無駄な人死にが出ないように。……それなら、僕だってクラウゼン家の人間です。この土地と領民を守るためなら、従いますよ」
嫌そうな顔を隠さずにサイモスは言って部屋を出ていく。エクトルは気持ちを揺らしながら閉ざされたドアと、母とを交互に見比べた。




