森の悪意 ②
年を取った、とガラシモスは尿の切れの悪さで思い知らされる。
厠を出てアドリオン邸内にしつらえられた執事としての自室へ帰っていく。欠伸を噛み締め、燭台を持って廊下を静かに歩く。
その途中、ふと気になって幼い主人の部屋へ足を向けた。ノックをせずに部屋の中を覗き見たが、やはりベッドに姿はなかった。
「…………」
静かにドアを閉め、ガラシモスはその足で屋敷の玄関へ向かう。
かつて、アドリオンを出ていった若い男をガラシモスを思い出していた。ミナス・アドリオンの兄は突然、誰にも何も告げずに屋敷を出ていった。まだ彼は子どものころで、ガラシモスは屋敷で下働きをする身分だった。丁度、セオフィラスと同じ年頃でミナスの兄は失踪してしまったのだ。
「まさかとは思いますが……」
あの失踪の謎は、ついぞ明かされぬまま今に至っている。執事の胸には不穏な感情が渦巻こうとしていた。特別に有能な執事ではない。面倒な仕事は他人に投げ、楽をすることを率先して考える。しかしアドリオンの屋敷を守るという使命感が胸には根付いている。
じっと夜闇の向こうを見つめ、ガラシモスはセオフィラスが帰ってこないものかと待った。だがその中に現れた人影は違うものだった。
「おおっ、ガラシモス……。ぼ、坊ちゃん、まだ帰ってないのか……?」
「ヤコブ……。あなた、今まで何を?」
「何って、坊ちゃん探し! だって屋敷を飛び出したんだろっ?」
「……こんな時間まで?」
「それより坊ちゃんは!?」
「まだですが……」
「ああああああああ……。どこに行っちまったんだあ……。坊ちゃんが、坊ちゃんがぁ〜……」
その場にうずくまって嘆くヤコブを見かね、ガラシモスも膝を折ってしゃがんだ。
「坊ちゃんのことですから、ひょっこり明日になれば帰ってくるでしょう。……ちなみに、どこを探しました?」
「とりあえずアドリオンの街中は全部練り歩いて……裏の山の麓の方も捜しまわって、さっきまで森も捜しちゃみたが……どこにも姿がなくって……。ジョルディの小屋にもいねえし、屋敷の中はカタリナがとっくに捜してるだろうし……。ああああ、坊ちゃんが、俺の坊ちゃんがあああ〜……」
「あなたの坊ちゃんではないでしょう……。しかしてっきり、森にいるものかと思っていましたが」
「んん、俺もそう思ったし……実際、ちょっと足跡もあったんだ」
「足跡ですか?」
「気に食わねえけどアトスにちょっと教わって、そういうコツを教わってさ。で、調べてみたら……まあ、ちょっとはあった。絶対にあれは坊ちゃんとエクトルお嬢ちゃんだ。なんだけど、バックトラップされまして」
「バック、トラッ……?」
「悔しいことにこれもアトスに教わったことなんだが、自分の足跡をそっくりそのまま踏んで戻って、茂みかどっかにぴょんっとジャンプをして、即席を辿らせないっていう……。まあこれが、さすが坊ちゃん! て、具合に見事すぎて、まるでぱったり神隠しにでも遭ったような具合で」
ヤコブの言葉を聞く内にガラシモスは目を見開いていった。
「ほんっとにもう、どこへ坊ちゃんが行ったのやら――」
「ヤコブ、すぐにアトスさんをお呼びし、自警団も集めなさい。森狩りの準備を」
「は? 森狩りって……ガラシモス?」
「もし、坊ちゃんが森の奥深くへ入ってしまったとすれば大変な事態です」
「いや……でも坊ちゃんだって、森の奥に入っちゃダメだってえのは分かってるんじゃ……」
「早く呼び集めてきなさい。武器庫の鍵は開けておきいます」
「わ、分かった!」
いつになく真剣なガラシモスの表情を見てヤコブは駆けていく。
杞憂であってくれと願いつつ、ガラシモスは自室へ戻って武器庫の鍵を取る。形ばかりであった自警団を動かすことになる時がくるとはガラシモス自身思ってもみないことだった。
「仰々しいですね……」
「うっせ、坊ちゃんの監督不行届きの責任はお前だぞ」
「おや。難しい言葉をヤコブくんから聞くことになろうとは思っていませんでした。ベアトリスさんに聞かれたのでしょうか?」
「……うるせえよ」
森へ向けた自警団の先遣隊の、その先頭をアトスとヤコブが並び歩いている。まずは足跡がバックトラップで途絶えたのかどうかを調べるようにとガラシモスに指示をされていた。
「それよか、もし、坊ちゃんが森の奥に入っちゃってたら……どうすりゃいいんだろうな……。森に入ったら出られないって俺はミナス様に教わったし……。そんなとこに大勢で入っても、意味がないだろ? むしろ助けなきゃいけない人間が増える」
「ええ、まったくもって。意外ときみは回るところでは頭がよく働きますね」
「あんだとぉ?」
「ソニアさんがいれば……彼女の魔術で何かできるかも知れません」
「つっても、ソニアはどこにいるのかいっつもよく分からねえし……」
「それに彼女も一緒に森へ入ってしまっていたら、外部から何かするというのも難しいものです」
「……じゃ、じゃあどうすんだ? 何か、手は打てるのか……?」
「さてさて……どこまで何をやれるものかは、やってみないと分かりませんね」
ヤコブが見つけたと言う足跡が残された場所まで一行はやって来た。篝火で照らしながらアトスがその足跡を調べ始めたが、すぐに腰を上げてヤコブへ目を向ける。
「どうだ?」
「バックトラップとは違うでしょう。これがバックトラップであるならば、鮮やかすぎて、わたしの知るセオくんではないはずです。しかしこの足跡はセオくんに他ならない。つまり、ここから先……丁度、この足跡から先へ踏み入れた瞬間に、囚われたのでしょうね。この森に」
「森に、囚われた……?」
「しかし、この森は厄介ですからね……。一体、どうすればいいものやら悩んでしまいますね」
持ってきていた長い棒状の包みをアトスはほどく。
「何を呑気なこと言ってんだよ!? 坊ちゃんが森の中から出てこられなかったら、一体……!」
「男の子なんですから、自己責任の範疇ですよ。もちろん、この件であとで誰に叱られてしまおうとも。とは言えまだまだ大人ではないですからね、大人としてきちんと手を差し伸べてあげなければ」
「お前、それ……何だよ? それって、前に――」
「ええ。わたしになら使えるはずと言われてもらったのですよ。メリソスの悪魔より」
包みの中から現れたのは禍々しい長剣だった。魔剣アウレア・ウィス・グラディウス。エミリオが持つドルイドとしての力を最大限に発揮するために魔術で形成された剣である。
「森の性質から考えて、恐らくは地の一式によるものでしょう。で、あるならば……同じ、地の一式・魔力の性質を持つ、この魔剣で何か切り裂けるかも知れません」
「本当かよ? おおい、皆、下がれ」
さて、とアトスが魔剣を構えたのでヤコブが自警団を下がらせる。
何かと雑用を押しつけられるヤコブであるが、生前のミナスに目をつけられて有事の際に自警団を指揮するよう言いつけられている。その役割を解く者は現れていない。
誰もが剣を構えるアトスに注視する。篝火に照らされて揺らめく影。しかしアトスは微動だにせず、剣を振り上げたままに動かなかった。目をつむったまま、何かを感じ取ろうとしているようでもある。
タイミングをはかるかのように張りつめた、緊張感があった。そしてアトスがゆっくりと剣を下ろしていく。何かを切っているようには見えない動きに自警団の面々は、また何か特別な技でも使ったものかと凝視した。
「ど、どうしたっ……?」
「いえ……手応えを感じられそうにないのでこれはやめにしましょう」
「はあ?」
「これはわたしの経験からくる理念なのですがね。素振りを100回するより、1度、実戦で敵を切り刻んだ方が得られるものは多いのです。だからわたしは素振りを必要としません。そういう意味で、やめておきました」
「……その剣なら何か切れるかもって言ったのはお前だろうが! かっこつけんな!」
「ははは、バレましたか。しかし何かきっかけさえあれば、こちらから干渉できるという可能性はあります。辛抱強く待ってみましょう。もし、お暇であれば……わたしが皆さんに稽古でもつけましょうか? セオくんとやっているよりも、ずぅーっと易しめの」
食えない微笑みを浮かべるアトスに苛立ちながら、ヤコブは自警団の1人に伝令を頼んだ。これ以上の頭数は不要だから、集めてしまった人員は家へ帰してやってくれ――と。




