森の悪意 ①
「やはり帰ってはきませんか……」
「アトスさん……」
玄関の前に立っていたカタリナは声をかけられて、不安そうな顔を少しだけ隠した。
「レクサさんはもうお休みになりましたよ」
「申し訳ありません。あなたにレクサお嬢様のお世話をお願いしてしまって」
「いえ、お気になさらず。森の手前ほどのところならば、夜を過ごしても今のセオくんにはそう危険はないでしょうから。夜風を浴びすぎては体に毒ですから、屋敷へ入るなり、お家へ戻るなりされては?」
「ええ……」
促されてカタリナは屋敷に戻りかけ、ふとアトスを見た。目が合うと彼は小首を傾げる。
「どうかされましたか?」
「あなたは、あの森を抜けてデュガン方面から来たと聞いていましたが……」
「ええ」
「ミナス様が存命だったころ、あの森があるからアドリオンの平穏は保たれてきたと仰っていました。しかし、いくら広い森とは言え戦はここではない土地で起きています。地理的に行軍しにくいとしても、この森から攻めてこようとはしないものなのでしょうか?」
問いかけに対してアトスはしばし考え込み、それからカタリナの肩を掴んで屋敷へ誘う。
「あの森は特別ですからね」
「特別……ですか? 何度かセオ坊ちゃんをお迎えに行っていますが、とてもそうは……」
「手前のところならば何も問題はないでしょう。しかし少し奥へ踏み込めば、たちまち、あの森の恐怖を思い知ることになります。どれだけ歩こうとも同じところへ戻され、どんな方法を用いても迷い続けてしまいます。お陰様でわたしも随分と苦労させられてしまいました」
「……どれだけ歩き通したのですか?」
「今となっては精確な日数を思い出すこともできませんが……1年はいなかったはずです」
「えっ……? 1年未満、ということは……」
「かなり長くさまよっていたことは確かです。食料も大量に持ち込んでいたのですが、全て尽きました。それからは獣を見つけては狩ったりして飢えを凌ぎましたが、それもやがて……出会わなくなってしまったのですよ。日中から夜にかけては飲まず食わず、そして朝になる度、夜露を求めて葉っぱを舐めて……それでどうにか過ごしました」
遠くを見るような目でアトスは語り、カタリナは言葉を失う。
「ただ迷わせるだけの森ならば特別に珍しいものではありません。しかし、あの森は侵入者に対して何か、悪意のようなものを向けているのではないかとわたしには思えました。だから道に迷わせ、飢えさせ、死に至らしめようとする。わたしは森との根比べにかろうじて——そして、運に恵まれてどうにか勝てたというところでしょう。あの時、セオくんに出会えなければもうこの世にいなかったでしょうから」
「……そんなに危険な森だったなんて……」
「とは言え、理由もなしにそんなことをするなんて森だからとは言え、少し納得し難いとも思っているのです。我々には理解しえない理由があるのでは……なんて」
「理由?」
「ええ。例えば大切な宝物が森の中に眠っていて、それを守るために森が人を遠ざけようとしているとか。……と言うのは、少しわたしにはロマンが過ぎますかね」
「同じところ、ぐるぐる歩いてない……?」
「そう言えばあの変な形の木、見覚えがありますわね」
「誰が迷子の原因? セオ?」
「何で俺なんだよ……」
口を尖らせつつ、セオフィラスはずっと繋いでいるエクトルの手を握り直した。森の深くへ足を踏み入れると、見慣れない景色が広がった。木々の緑も密度も一層濃くなった。暗い夜だけあって、不気味さもまた際立った。
「……何だかちょっと、気味が悪いですわ」
「大丈夫だよ、俺がいるから」
「大丈夫だよ俺がいるからー」
「そんな言い方してない」
「ふふっ、お2人はとっても仲良しですわね」
「嫉妬していいよ」
「そういうんじゃなーいー」
からかわれて少しむくれながらセオフィラスはソニアを振り切るように少し早足になった。だがすぐ、セオフィラスはペースを落とし、また見つけてしまった――先ほども見たような景色に足を止める。
「やっぱり……同じところ歩いてる? あそこの木、ツタが絡まってるの、見た気がする」
「そうですわね……。言われてみると見覚えがある気がしますわ」
「それならちょっとマークをつけておく」
「ソニア……?」
歩み出たソニアが見覚えのある木にそっと手を触れると、幹から不自然に新芽が吹いて幹に対して垂直に枝が伸びた。
「これで次に見かければ、同じものと分かる。似たような景色なのか、同じ景色なのかが分かる」
「まあ……とっても分かりやすいですわね」
「別に、そんなの魔術使わなくても傷とかつけとけばいいだけだし」
「えー、セオ、植物にかわいそう。冷血ぅー、鬼畜ぅー」
「植物にかわいそうとかないだろっ! 行こう」
それから何となく見覚えのあるような場所へ通りかかる度、ソニアが植物にマークをつけていった。そうしてずっと歩き続け、疲れが足腰にこびりつくようになってきたころ、最初にマークしたツタの絡まった木に出くわす。
「やっぱり……同じところだ」
「そうですわね。けれどまっすぐ歩いているつもりなのに、どうしてこうも……?」
「だから言った。この森には、特別な力がある。……多分、悪質な、良くない力」
「悪質……」
「良くない力、ですか……?」
「ところで……このまま漫然と歩いていたら、死ぬまで出られないと思うけれどどうする? 方針」
表情の固い2人にソニアが問いかける。エクトルは周囲をちらとうかがい見てから、セオフィラスの手を握る。
「ど、どうするも何も、出なきゃ。帰らないと……」
「どうやって?」
「……どうにか、して」
「どうにかって?」
「……そ、そんなこと言うなよ」
「ごめんなさい……」
「え、エクトル?」
「わたくしが、夜の森を探検したいなんて言い出してしまったから、こんな……。このまま、出られなくなってしまったらどうお詫びすれば……ごめんなさい、ごめんなさい……」
声を震わせながらエクトルが謝り始め、セオフィラスは困惑して呆気に取られる。だがすぐ、セオフィラスは彼女の手を取った。
「エクトルのせいじゃない。それにどうにかするから安心して」
「けれどっ……」
「この森は俺の遊び場だから、どっしり安心してて。……ね?」
泣き顔で歪んでいたエクトルの頭を撫でて、セオフィラスが柔らかくほほえむ。
エクトルの胸で栓をするように詰まっていた責任感と、軽卒すぎた発言への後悔があった。クラウゼンの淑女として悪感情をあらわにしながら泣くなど許されざる行為でしかなかった。だから余計に恥ずかしく、悔しさが込み上げてきた。
それなのに――セオフィラスの声が、頭を撫でる手が、それらをやさしく受け止めるようだった。鼻をすすりながらセオフィラスの胸へ顔をうずめ、エクトルは声を上げて泣いてしまった。
「大丈夫だから。大丈夫、大丈夫……」
慰めながらセオフィラスはソニアへ目を向けた。
言葉でどれだけ勇気づけようとしても、具体的な打開策はない。だがその相談をエクトルの前でしてしまえば不安を煽ることになる。だから静かなアイコンタクトをセオフィラスは試みた――のだが。
「泣いていても始まらない。どうする?」
ちっとも空気を読まないソニアにセオフィラスは奥歯を噛んで、苦い言葉を飲み込んだ。




