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七章 魂の因果律 四

    ◆ ◆ ◆


 満天の星を、月子――朔は杉の根本に背を預けて見上げていた。

 今はもう人ならざるこの身。兄を想い、兄を慕い、いびつな感情と知りながら、千を越える年を数えてきた。

 既にどうしていいのか分からない。なのに、心は落ち着く所を求めてまない。心安らかでいられる場所は、ただ一つ、実の兄である湊の腕の中だけ。それ以外の男には、心を動かされる事などない。

 いや、動かされるどころか、吐き気すら覚えてしまう。これほどまで血を吸ってきたこの身が、真っ当な幸せなど得られる筈もない。それも自覚している。だが、兄と一緒ならば、例え劫火ごうかに焼かれようとも幸せでいられる。

 そもそも、どうしてこんな歪な心になってしまったのだろう。

 それを思い返すたびに、あの凄惨な光景を思い出し、朔の身は震えに包まれるのだった。


    ◆ ◆ ◆


 湊と朔の母は、蝦夷えみしの姫だった。父・枚雄ひらおが陰陽師として東国に赴任する際、その地で見初めたのだ。だが、それが間違いの元だった。赴任期間が過ぎた父は、やがて妻子を置いて都へと帰った。

 生まれたばかりの朔は、父の顔を見た事もない。

 そして、その日はやってきたのだ。表で花を摘み、家に帰った朔が見たもの。それは、銀髪の蝦夷になぶられる母の姿だった。蝦夷の中でも特別な力を持った幾つかの部族。その長の一人。銀髪の狂狼と渾名あだなされるその者。家の中には既に火が回り始めていた。

 渾名の如く、狂狼の獣染みた荒い息が煙と共に立ち込める。だが母の声は聞こえず、ただ狂狼のみが、母の上でしきりに腰を振っていた。母の乳房を食い破り、口元を真紅に染め上げながら咀嚼する狂狼。狂喜と悦楽に身を委ね、狂狼は母の肉体を蹂躙じゅうりんし続ける。

 狂狼にしてみれば、裏切り者を屠った、ただそれだけの事だったかもしれない。しかし、幼い朔にそんな事など分かるはずもなく、血溜まりの中で虚ろな眼差しを向ける母の顔だけが、色濃く脳裏に焼き付いた。

 だが、それを怖いと思う前に、真の恐怖が苦痛を伴って朔を襲った。

 狂狼の眼がこちらを向く。見つかった、と思う間もなく、狂狼の身は一瞬で朔の傍に立っていた。

「大和の血、滅ぼす。お前、もまた、生皮を、剥いでくれる」

 狂狼はたどたどしくそれだけを言うと、朔の衣を引き裂いた。

 最初はもてあそぶかのように、それから次第に痛みを加えながら、狂狼の手が朔の身を這いずり回る。

 と、不意に、

「きっ! きゃああああぁぁぁっ?」

 刹那、今度は朔の背中、首元近くに鋭い痛みが走った。

 嫌悪に総毛立ち、肌が粟立つ。そんな朔の耳元で、狂狼はぽつりと一言を呟いた。

「巾着……に、して、やろう……」

 膝で頭を固定され、朔は動きを封じられたままで、ただ叫び声を上げる事しかできなかった。

 自らの背中から、めりめりと不快な音が耳に届く。背中から垂れた何かが、頬を伝って土床に溜まっていく。

 焼けただれるような背中の痛み。その最中に、嬌声きょうせいにも似た、けたたましい奇怪な笑声が室内に轟きわたる。

 遠のく意識の中、そんな狂った様にわらう声だけが、朔の耳には届いていた。

 幼い朔には訳が分からない出来事。どうして母は助けてくれないのか。どうして自分がこんな目にわなければならないのか。弱々しくなる自身の心音。その最後の音が聞こえたと思ったとき。

――朔! 待っていろ、今助ける!――

 身体を包む、暖かなものがあった。

 そう、それがきっと、この歪な心の始まりだ。

 あの惨劇の中で、心に刷り込まれたもの。それは、男という生き物への恐怖と、自分の兄がくれた安らぎ。朔にとって、兄・湊は男というけがれた生き物ではなく、もっと神聖で、崇高で、この世でただ一つの、朔の安らぎ。


――なのに――


 朔は自らの腹に手を当てた。もうすでに人ではないこの身。だが、あの多賀城での記憶が、この作り物の朔を熱くさせる。兄と過ごした最後の思い出と、そして、セハヤをこの手に掛けた、最初の記憶が。


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