第七十八話 弟
グウェンが資料室を出てから、妙に落ち着かなかった。
書類整理を続けながらも、紡の意識はどこかグウェンの言葉に引っ張られていた。
――“縁の様子を見たい”
あの時のグウェンの声は、やはりどこか急いでいるように聞こえた。
そんなことを考えていると、ふと鈴木に声をかけられた。
「天野君、そろそろ時間じゃない?」
その声に考え事から意識が引き戻され、
慌てて時計を確認すると、時計の針が約束の時間を指していた。
「ホントですね。じゃあ、すみませんが少し行ってきます」
紡が残った書類を見つつ、申し訳なさそうに席を立つと、
3人は気にしないでと手を振って見送った。
資料室を出ると、
紡は深呼吸をひとつしてから、執務室へ向かった。
廊下は静かで、足音だけが響く。
だが、執務室の前に近づくにつれ――
中から、押し殺したような怒鳴り声が聞こえてきた。
思わず部屋の前で立ち止まる。
ふぅ、と息を落ち着かせ。
ノックをしようと扉に手を近づけた時、
一段と大きな怒鳴り声が聞こえた。
「だから、平気だって言ってるだろ!」
グウェンの声だ。
紡はそっと手を下ろし、耳をすませた。
「僕にまで隠す必要がどこにあるんですか?
大体あの夜会は、叔父上が兄上のために用意したんですよ!」
扉の向こうから聞こえる声は、間違いなくグウェンと――
会話から察するに、弟のスヴェンだった。
入るタイミングを逃した紡は、
そっと扉を開け、隙間から中をのぞいた。
――
―
中では、グウェンが執務机の椅子に深く座り、腕を組んでいた。
その前には、グウェンとよく似た髪色の青年――スヴェンが立っていた。
(やっぱり……グウェンさん……雰囲気が全然違う……
酒場で見た時の状態になってる……?
それに……ネロもフィーロもいない?二人だけなのか?)
紡が状況を整理していると、
グウェンの深いため息が聞こえた。
「俺のためって……また婚約者を探せって言うんだろ。
……はぁ、余計なお世話だと何度言ったら……」
こめかみに手を当て、グウェンは続けた。
「叔父上には改めて言っておいてくれ。
俺は結婚して後継者を作る気はさらさらないって」
その言葉に、スヴェンはバンと机を叩き、叫んだ。
「何言ってるんですか?!
兄上は当主なんですよ?後継者は必要です!」
グウェンは何度目かのため息をつくと、
言い聞かせるように落ち着いた声で返した。
「いらないって。俺には必要ないんだ。
後継者なんかいなくてもお前がいるだろ。
何度言われようと、俺は結婚はしない。次期当主はお前にする」
スヴェンは怒りで震える声で迫る。
「だから! なんでですか! ちゃんと説明してください!」
グウェンは面倒くさそうに顔を背け、
冷たく言い放った。
「しつこいな。だから結婚するつもりはないからだと言っているだろう」
スヴェンは何か言い返そうとして――
ふと、言葉を飲み込み、深呼吸した。
そして、おずおずと口を開く。
「兄上……そこまで頑なになるのは……
まだルカのことを気にされているからですか」
ルカ――
聞き慣れない名前が出た瞬間、
グウェンの表情が激変した。
机を激しく叩き、勢いよく立ち上がる。
スヴェンの襟を乱暴につかみ、
怒りを隠す余裕もなく低く唸るように言った。
「黙れよ……スヴェン。
お前さぁ……しつこいんだよ……
次期当主にお前を指名してやるって言ってるのに、何の文句があるんだ?」
スヴェンも一歩も引かず、睨み返す。
「兄上こそ、しつこいですよ。
僕は当主になりたいわけじゃないって言ってるでしょうが」
二人の空気は、扉越しでもわかるほど危険なほど張りつめていた。
紡はどうしていいかわからず、
扉の前で立ち尽くすくしていると――
「おい、そこをどけ」
背後から低い声がした。
振り返ると、ネロがティーセットを乗せた銀のプレートを持って立っていた。
無表情だが、目だけがわずかに細められている。
その視線は紡ではなく、扉の向こうの二人に向けられていた。
すぐに紡に目線を戻したかと思うと、
ネロは顎で下がるよう促し、
紡が数歩離れると、静かに扉の前へ進んだ。
「グウェン様。お茶をお持ちしました。
それと、アマノが来ております」
その一言で、室内の怒声がぴたりと止まった。
数秒の沈黙のあと――
「……入ってくれ」
低く、押し殺したようなグウェンの声が返ってきた。
ネロが紡に小さく頷く。
紡は緊張で喉を鳴らしながら、
両手がふさがっているネロの代わりにゆっくりと扉を開けた。
執務室に入った瞬間、
空気が重く張りつめているのがわかった。
グウェンは席に座り、
スヴェンはソファに移動し、腕を組んで座っていた。
ネロに続いて入ると、
スヴェンの鋭い視線が紡を射抜いた。
「……誰です?」
その声音は冷たく、怒りの余韻がまだ残っていた。
紡は思わず背筋を伸ばした。
グウェンが慌てて間に入る。
「スヴェン、彼がアマノ君。
例の“縁”を持っている異世界人だよ。
前に話しただろう?」
「……あぁ、あの」
スヴェンは紡を上から下までじろりと見た。
その視線は、まるで品定めをするように冷たかった。
「……ふん」
短く鼻を鳴らすと、スヴェンは視線をそらし、
ソファに深く座り直した。
その態度には、まだ怒りの余韻が残っているようだった。
グウェンは苦笑しながら紡に向き直る。
「ごめんね、アマノ君。ちょっと……いろいろあってね気にしないでくれ」
「い、いえ……」
紡は緊張で手のひらが汗ばんでいるのを感じた。
グウェンは深呼吸をひとつして、
紡の前に手を差し出した。
「じゃあ、さっそく始めようか」
その声は穏やかだったが、
どこか無理に落ち着こうとしているようにも聞こえた。
紡はそっと手を差し出す。
グウェンの指先が触れた瞬間――
空気が、わずかに震えた。
グウェンの表情が、ふっと変わる。
眉がわずかに寄り、目の奥に鋭い光が宿った。
「……これは……」
低く、押し殺した声。
紡は息を呑んだ。
スヴェンも、興味を引かれたのか顔を上げる。
「兄上、どうかされたんですか?」
グウェンは紡の手を離さず、
じっと“縁”の気配を探るように目を閉じた。
その横顔は、先ほどまでの怒りも苛立ちも消え、
ただひたすらに“何か”を確かめようとする真剣さだけがあった。
数秒――
いや、紡にはもっと長く感じられた。
やがて、グウェンはゆっくりと目を開けた。
その瞳には、驚きと……わずかな恐れが混じっていた。
「……アマノ君」
「は、はい」
「君……いつ……どこで”エルド”と会った?」
その名を口にした瞬間、
グウェンの声は震えていた。
紡は思わず目を瞬かせた。
「え……? エルド……さん、ですか?
い、いえ……会ったことなんて……」
身に覚えのない名前に戸惑いながら答えると、
グウェンの指が、紡の手をさらに強く握りしめた。
「っ……!」
痛みに紡が顔をしかめると、
横からスヴェンが素早く手を伸ばし、
グウェンの手首を掴んで制した。
「兄上、落ち着いてください!」
グウェンはハッとしたように紡の手を離し、
深く息を吐いた。
「あっ……すまない。痛かっただろう」
「い、いえ……」
紡が手を引き寄せると、
グウェンはその手を見つめたまま、
何かを必死に考えているようだった。
そして――
震える声で、もう一度問いかけた。
「アマノ君……“本当に”エルドという男に会っていないんだね?」
「はい……知らないです。
その……誰なんですか? エルドって……」
紡が恐る恐る尋ねると、
グウェンは口元を押さえ、ほんの一瞬だけ視線をそらした。
その横顔は、怯えているようにも、
どこか嬉しそうにも見えた。
「まだ……会っていないのであれば……
そうか……やっと……アイツを――」
言いかけたところで、
グウェンは自分の言葉に気づいたように口をつぐんだ。
スヴェンが苛立ちを隠せず声を上げる。
「兄上! はっきり言ってください。
エルドがどうしたっていうんです?」
グウェンはスヴェンを見た。
その瞳には、怒りでも苛立ちでもない――
もっと深く、もっと重い感情が宿っていた。
「スヴェン……
やっとエルドを見つけられるかもしれない」
そう告げたグウェンの表情は、
喜びとも、悲しみとも、狂気とも取れる――
不気味な笑みだった。
スヴェンは息を呑む。
「兄上……?……まさか……」
グウェンは答えなかった。
ただ、紡の“縁”を見つめ続けていた。
その視線は、まるで――
紡の背後に“何か”を見ているかのようだった。
紡の背筋に、ぞくりと冷たいものが走る。
その瞬間。
コン、コン。
控えめなノックが扉を叩いた。
ネロが振り返る。
「……誰だ?」
扉の向こうから、震えるような声が返ってきた。
「し、失礼します……
至急、グウェン様にお伝えしたいことが……!」
事務職員の声だ。
ただならぬ緊張が滲んでいる。
グウェンは眉をひそめ、
紡とスヴェンを交互に見た。
「……続きは後だ。入ってくれ」
扉が開く。
そして――
職員の口から告げられた言葉は、
この場の空気を一変させた。
「“無輝の徒”の拠点らしき場所が……
見つかったとの報告が……!」
執務室の空気が、凍りついた。
グウェンの瞳が、鋭く細められる。
スヴェンは立ち上がり、拳を握りしめた。
紡は――
胸の奥がざわつくのを止められなかった。
まるで、
“何か大きなもの”が動き出したような――
そんな予感がした。
閲覧いただきありがとうございます。
この章では物語が大きく動くような内容にしていく予定です。
よろしければ引き続きお付き合いいただければ幸いです




