【最終回】ただいま。
帰りの空を、赤龍フィオはゆるやかに飛ぶ。
空は深く、星だけが静かに瞬いている。
フィオは時折、目を上げて星の並びを確かめながら、できるだけゆっくり翼を上下させていた。
フィオの翼が夜空を撫でるたび、風の音が変わる。
シャルドルートはその音と、腕の中で恐怖に震えているニャルの鳴き声とを重ねてぼんやり聴きながら、地底湖でのことを思い出していた。
***
——夕日が沈む前、地底湖にて。
「最期は、俺がお前を食べるから」
この世界の誰よりも優しい目をした赤い龍は、白い湯気の中でそう言った。
「腐らさねぇよ。
皮も、骨も……俺が全部ちゃんと食べてやる」
そう言いながら、フィオは湯から上がった体をぶるりと震わせる。
飛び散った水滴は地底湖に小さな波紋をいくつも作り、その一瞬だけ、洞窟に雨が降ったように見えた。
フィオが降らせた雨は、シャルドルートの頭上にも降った。
水滴が頬を伝う。
「……やだな……」
小さくそう答えたシャルドルートの声は震えていて、フィオはギョッとして尻尾をピンと立たせた。
「いや!あの!!痛くはしねぇから!!
それに俺、食うのは上手だからさ!
ちゃんと最後まで綺麗に食うから!」
救いのようなその声は、丸い洞窟の中で反響して、頭上から、背中から、幾重にも重なり耳に届く。
「お前をずっと俺の中に残すから……!」
フィオのせいで、暖かな水滴が何度も何度も頬を伝い落ち、地底湖に波紋を残した。
フィオのせいで……
唇が震える。
「不味かったらどうしよう」
フィオの熱が作る暖かな湯の中から、そう言ったシャルドルートの顔は、
——笑っていた。
***
フィオは、夜空の星を頼りに翼を動かしていた。
背中に2人分の重さと、熱がある。
今夜はできるだけゆっくり飛ぶつもりだったけれど、眼下にぽっかりと開けた丸い空間が見えてきてしまった。
フィオは背中の二人を守るように翼を内側へたたみ、ゆっくりと滑空して小屋の前に降り立った。
足の裏に、夜露に濡れた草の冷たさが触れる。
続いてシャルドルートが背から降りた。
最後に、まだ鬣にしがみついているニャルを下ろそうと白い背へ手を伸ばすと、あれほど高い空を怖がっていたはずのニャルが、いつの間にかそこで気持ちよさそうに眠っていることに気がついた。
「……どうした?」
背中で聞こえた小さな笑い声に、フィオは振り向きながら尋ねる。
「ニャル、寝てる」
「……ああ。
途中からすげぇ背中があったかくてさ。
そうかなと思ってた」
「鬣、涎まみれだよ」
「はあ?!」
裏返ったフィオの声を聞き、シャルドルートは肩を揺らして笑った。
笑うなよ、と思うのに、フィオの口元は何故だか自然と緩む。
「よっ……と。
ああもう……最近寝てると余計重たくて……」
シャルドルートはそう言って、熟睡しているため向こうからはしがみついてきてくれないニャルをフィオの背中から剥がして、抱き上げる。
ぐっすり眠って力の抜けた体はグニャグニャで、重さも相まってうまく抱けなかったのか、シャルドルートは一度ニャルを草の上に落とした。
どしゃり、と痛そうな音がしたが、この2人には日常なのだろう。
「ああ…ニャルごめん」
シャルドルートはかるくそう言っただけで、ニャルは草の上で落とされた形のまま、お腹を出してまだ寝ている。
「…………」
フィオは、バサリと翼を揺らして龍の体を人型に変えた。
「……俺が連れてくよ」
そう言ってフィオは、眠るニャルを草の上から持ち上げた。
ニャルの体はまるでつきたての餅のようにぐんにゃりと伸び、フィオの痩せていながらもくっきりと筋肉のラインを浮かばせる腕の中に軽々と抱かれた。
シャルドルートは、そんなフィオとニャルの姿をじっと見る。
視線に気づいたフィオも、シャルドルートを見つめる。
シャルドルートは少しだけ踵をあげ、フィオはニャルを抱いたまま腰を屈めて、2人は遺跡の前の続きのように、唇を重ねた。
「……お腹すいたね」
「……なんか食うもんある?」
「マンドラゴラのステーキなら」
シャルドルートが、曲がった木の枝の取っ手を引いて小屋のドアを開ける。
そうして、3人は小さな小屋の中に入った。
やがて、森の闇の中、小屋の窓に暖かな光が灯る。
あたりには、フィオが変化の際に起こした暖かな風がまだ残り、ドアの横に掛けられた乾いた鈴の実をカラカラと揺らしていた。
一度閉まったドアが再び開き、シャルドルートが顔を出す。
シャルドルートは、玄関脇に吊るしていた鈴の実に手を伸ばし、それをそっと外した。
代わりに、遺跡でコカトリスの婆さんから貰ってきた新しい鈴の実を同じ場所へ結び直す。
シャルドルートはその場所をしばらく見つめて静かに微笑んでから、ふたたび小屋の中へと戻った。
鮮やかな赤い実が風を受け、西の森に明るい音を響かせていた。




