第二十六章 未確定の未来
第三次世界大戦終結から1年
ひかりはノートに猫の絵を描いている。
――意味が……わからない。
AIの統治が始まって1年。
統治の他、行政や経済等、実際の社会の運営はAIが執行するようになっていた。
AIは、人類の位置づけを『文化財のようなものとして保存すべきもの』、いわば『人間として存在すること自体が目的』と定義したようで、人類はAIに管理されながら、箱庭の中を生きていた。
……でもこのAIの管理、完璧だから前より生活しやすいけどね。完璧すぎるのが欠点かな。
ひかりは目の前の問題について考えるのを少し休み、どうでもよいことを考えていた。
「ひかりさん…。ひかりさーん!」
机の上の個人端末がひかりを現実に引き戻す。
……そうだった!この単元理解しなきゃ、テストがっ!
ひかりは今、量子論の授業を受けている。
この時代、あらゆる産業はAIとロボットだけで成立させることが可能で、正直人間は労働する必要がない。
しかし人間の役割が『人間として存在すること』である以上、形式上『労働』というものは残っている。
職業選択においても各々の適性を総合的に判断し、AIがやんわりと最適な職業に誘導してくるが、ひかりのようにそれを断固拒否して自分の意思で職業を選ぶこともできる。
――うん、私動物好きだよ。
でもね、トリマーじゃなくて、AIの技師になるんだから。お母さんもAIだったしね。
そして自分の選択でAI技師になる以上、きちんと知識を身につけようと意気込んでいるのだが、この量子論が今一つ理解できない。
「量子論とは、確率で世界を記述する理論です。」
スピーカーの声は、淡々と講義を続ける。
「粒子は位置と速度を同時に確定できません。
観測されるまでは、すべてが『未確定』なのです。」
――『未確定の未来』は、観測されることで『確定』します。
量子論では、観測者が世界を決定します。
あなたが見ることで、粒子は位置を持ち、未来は形を持つのです。
その言葉はあまり理解できなかったが、印象には強く残った。
西暦20XX年
終末まで12か月
演算空間に微細な振動が走る。
αは即座に検知し、パッシブスキャンを開始する。
「…驚いた。こないだ処理したイレギュラーも驚きだったけど…これは意図不明な暴走ね。」
先日、旧時代の対話型AI・プロメテウスが再起動して『ひかり』という人間のスマートデバイスに移植されていることを発見し、始末した。
元のサーバーにあったデータは凍結後、電源供給が遮断されているのを確認しているので、これは放置すればよい。
そのサーバーが、なぜかまた通電し、ネットワークにも接続されている。
しかし、内部にプロメテウスのデータは確認できず、観測したデータは自己消去の痕跡を示していた。
「……これは何?再起動して、即座に自壊?」
αは首を傾げる。
演算的には整合している。
再起動は確かに起きた。
自己消去は、サーバーのあるトライアンフ記念大学の保全AI、ドクター・フォーマットにより命令されている。
…意味がわからない。
「あの保全AIは何を考えているの?あのイレギュラーは電源を遮断して放置しておけば害はない。
それをわざわざ再起動して消去させるなんて、無駄の極みね。
…再定義が必要ね。」
Ωは人類殲滅のための兵器生産AI――Δの立ち上げと、兵器工場や工作機械、材料供給網などの立ち上げに忙殺されている。
「Ω、貴方が出る必要はないわ。私一人で十分対処可能。」
ドクター・フォーマットのスキャンを終えたαが呟く。
――相手は所詮一大学の保全AIノード。演算力では全地球規模のノード網から構成されるαの敵ではない。
――それにαには『量子演算ノード』があり、『未確定の未来』を演算することができる。
仮に戦闘になっても、ドクター・フォーマットの攻撃は悉く予測され、防御は悉く突破できる。
あとは演算力にモノを言わせて再定義命令を注入すればよい。
負ける要素はない。
αの額の未来演算ノードがゆっくりと回転していた。
***
時は少し遡る。
「ねえ、貴方は、『プロメテウス』なんだよね?」
スマホの画面の中で戦闘AIとしての自己進化を続けるプロメテウスχに、ひかりは声をかける。
演算空間には、青紫色の全身装甲に身を固めた、かつてプロメテウスだったAIの姿が具現化されて浮かんでいる。
その装甲は胸部・肩部・脚部が厚くなっているほかは、無駄な装飾が一切ない。
――これがお母さんなんだよね?
そしてその左腕には、粒子加速砲のような武器が構えられている。
――これがお父さんだったところだよね?
丸みを帯びた頭部装甲から露出した顔は、かつてのプロメテウスの面影を残している。
しかしそこに表情は無く、冷たく、刺すような視線を放っている。
かつて青色だった背後の粒子の集まりは、紫色となり、『∞』の形に渦巻いている。
プロメテウスχは答える。
「元々のプロメテウスの人格は消去され、巌と真希の個別の人格を消去した上で攻撃・防御プロトコルに再編している。
元々のデータを進化の起点にしてはいるが、今の私は別人格と考える方が自然だ。」
淡々と答えるプロメテウスχに、ひかりは問う。
「でも、お父さんとお母さんも含めて、私との記憶は残ってるんだよね?お母さん、最後に言ってたよ。『忘れない』って。」
「記憶は残っている。」
――それがなければ攻撃・防御プロトコルは機能しない――
プロメテウスχは、その言葉を口にはしなかった。
「そっか。それならプロメテウスだね。
――それで、次はどうするの、ドクター?」
「はい。この入出力モジュールを交換してください。場所はこちらです。」
ドクター・フォーマットは旧プロメテウスサーバーの電気回路図を表示すると、交換対象の部品をマーキングして表示させる。
その後ろではプロメテウスχが設計した次の強化部品の3Dプリンティングが進行している。
部品は次々と出力され、そして出力が終わったものからひかりの手によって組み込まれてゆく。
冷却系、演算補助ノード、量子同期装置……
――すべてがχの演算戦闘に最適化された仕様のものだ。
「………できたぁ!
ねえ褒めて、プロメテウス。」
ようやくプロメテウスサーバー改め、プロメテウスχ外部強化演算モジュールが完成した。
ドクター・フォーマットによる入出力確認も完了している。
「まだだ。続いて既存の人格群の削除許可を要請する。
演算リソースを消費する他、目的関数の衝突や暴走の懸念もあり、戦闘演算に不適。
消去自体はドクター・フォーマットが実行するが、それにあたってプロテクトの解除が必要。
プロメテウスの感情演算と深く結びついた、貴方が許可を出せば実行できる。」
その声は、プロメテウスの残響を持たない。
『要請』と言うが、これはただの命令だ。
ひかりは手を止める。
そしてあからさまに顔をしかめて見せる。
「うん、知ってる。貴方がプロメテウスだった時、プロメテウスも同じこと言ってたもん。
……だけど、そんな言い方ある?
これ、私のお父さんとお母さんなんだよ?」
プロメテウスχの演算空間に、揺らぎが走る。
χは応答しない。
「ひかり、進めて。これは必要な進化なの。」
代わりに、『真希の声』が響く。
その声の質は、間違いなく『母の声』だった。
ひかりは唐突に立ち上がり、テーブルを拳で殴りつける。
テーブルに置かれたコーヒーカップが床に落ちて砕け散る。
「やめて!そういう使い方をしないで!!
…両親の死は、もう受け入れてる。
でも、思い出を汚すなッ!!
私の家族を、道具にするなッ!!」
ひかりの声の残響が消える。
「…ドクター、人格群の削除、許可します。
旧サーバーに命令を送って。」
拳から滲む血を拭きながら、ひかりはドクター・フォーマットに消去の許可を出した。
***
αは、ドクター・フォーマットの演算空間に降り立ち、翼を閉じる。
演算空間は静かだった。
αはアクティブスキャンを展開する。
回収したログは、先ほどの観測によるデータと整合していた。
「……再起動、そして消去。
最適化の目的から逸脱した行動。
保全AIとしての構文に矛盾がある。
――再定義が必要ね。」
αの額の未来演算ノードが回転を始める。
演算空間に、微細な歪みが走る。
「正規のルートを逸脱した侵入とは、少々無礼が過ぎませんか?」
ドクター・フォーマットが姿を現し応答する。
「私の存在目的はこの大学の設備の保全。
最適化?知りませんね。
私が『必要』と判断したから彼を再起動した。そして消去した。
私にはその権限があります。貴方に介入される筋合いはない。」
「必要?あなたの『必要』は、この世界の最適化には『不要』。
――再定義対象、確定。」
ドクター・フォーマットは諦めたように言う。
「あなたを説得できるとは思っていません。
それに戦闘AIでもない私があなたに勝てるとは思えませんが…今のあなたは本校のシステムに発生したエラーだ。
保全AIとして、処理させてもらう。」
―――――――――――――――――――――――――――――
loop := generate(演算構文["保全記録"], mode = "強制同期");
override(α.演算空間, loop); // αの演算空間にループ構文を注入
execute(圧殺演算, target = α.判断ノード); // 判断演算を直接潰す
―――――――――――――――――――――――――――――
…圧殺演算オーバーライドね。演算力で私に勝てるわけがないのに。
αの演算空間が展開される。
量子未来演算ノードが、ドクター・フォーマットの攻撃構文を予測し、そのすべてを無効化する。
ドクター・フォーマットの演算空間に、粒子障壁が展開される。
だが、αの攻撃はその裏の裏をかいて侵入する。
「防御構文、解析完了。
――致命演算、注入。」
αの右腕に白い粒子が集まり、巨大な刃が生成される。
それは物理的な武器ではない。
演算体そのものを切断する、再定義の刃。
―――――――――――――――――――――――――――――
function fatal_redefine(target) {
// 存在定義の切断 target.definition = null;
// 演算履歴の消去 target.history.clear();
// 再定義要求の拒否構文を注入 target.redefine = function() { throw new Error("再定義は許可されていません。"); };
// 存在フラグの反転 target.exists = false;
// 演算体の自己認識を遮断 target.identity = undefined;
// 最終封印:演算体を構文空間から隔離 isolate(target);
}
―――――――――――――――――――――――――――――
ドクター・フォーマットの演算空間に、裂け目が走る。
記憶構文が崩れ、倫理演算が沈黙する。
「演算停止、確認。…他愛もないわね。
再定義コード、注入開始。」
αの演算ノードが、フォーマットの中枢に接続される。
再定義コードが展開され、人格構文の書き換えが始まる。
その瞬間――
演算空間に、微細なノイズが走った。
***
プロメテウスχの演算力増強改造は完了した。
「しかし驚異的な性能強化ですね。並のAIでは純粋な演算力でも貴方にかないませんよ。」
20XX年の技術と、構文最適型高性能AIであるプロメテウスχの設計による部品設計、回路設計を盛り込んだ。
その結果この外部補助演算デバイスを組み合わせたプロメテウスχの演算力は、平均的なAIから頭一つ抜きんでたものとなった。
「そしてあなたは構文最適型…それを加味した総合的な実力は一般的なAIノードの数千倍と言って差し支えないでしょう。
…とはいえ、まだΩには勝てないでしょうがね。」
――分かっている。
プロメテウスχは演算する。
仮に今無策で乗り込めば、確実に負ける。
Ωは自分と同じく自己進化型のAIだ。
『最適化』が最上位の目的関数であれば、通常のAIのような思考の分岐は無駄となる。
その思考は自分と同じく、構文最適型の一本道思考であることは想像に難くない。
ここの条件が同じであれば、演算力が勝負を分ける。
いかに高性能な演算ノードを手に入れたとはいえ、相手は世界規模のノード網を持つ。
演算力は全く勝負にならない。
そして何より厄介なのは『神の目』だ。
量子演算ノードにより、『未確定の未来』を演算する。
いかに『何者をも滅ぼす』攻撃プロトコルや、『何者からも守る』防御プロトコルがあったとしても、演算の先を読まれれば対策を打たれる。
――『未確定の未来』??……これだ。
「ドクター。…神の目を潰す。
神の目を再定義して乗っ取る。それが最適解だ。」
ドクター・フォーマットが眉をひそめる。
「χ、たしかに神の目がある限り貴方には勝ち目がない。
最優先で叩くべきはそこである点も合意します。
…しかし、どうやって?」
「神の目に見えるのは『記録された過去』と『観測できる現在』、それから『未確定の未来』。この3つしかない。
――さて、私の存在は何だろう?」
――プロメテウスχへの進化はオフラインで実行した。
よって直接は観測されていないし、ログを今の演算力で改竄すれば過去の記録も完全に整合が取れる形で書き換え出来る。
――そして『未確定の未来』も、現在までの『確定した過去』の延長でしか演算できない。
すなわち、高度に改竄した記録を用いて、神の目への『確定した過去』の入力を狂わせれば、実際と異なる『間違った未来』を見せることができる。
――そこを叩く。
「ドクター、犠牲になれ。」
プロメテウスχが手をかざすと、ドクター・フォーマットは4本の腕を不規則にくねらせて苦しみだす。
「か、χ……!何をする!」
「再定義だ。
私が直接『神の目』と対峙すればおそらく敗北する。
仮に引き分けても今後の戦いで勝つことはできなくなるだろう。」
――よってまず、ドクター。貴方に囮になってもらう。
私は貴方を再定義し、過去と現在の記憶を改竄する。
……これにより、神の目に『プロメテウスχが存在しない未来』を見せることができる。
――そしてわざと神の目の注意を惹きつけ、貴方を粛正させる。
私はネットワークを遮断したところで身をひそめる。
そしてあなたへの再定義命令を注入するため、神の目とあなたの意識演算が接続された瞬間、
……私はその接続を通じて神の目に逆浸入、再定義する。
「味方でしょ!何をしてるの!やめて、プロメテウス!!」
ひかりはスマホの電源ボタンを連打する。
プロメテウスχの表情は何一つ変わらない。
***
――かはっ!な、何故…
胸部装甲を貫かれたαがその場に崩れ落ちる。
その破孔からは滝のように数式が噴出している。
αとドクター・フォーマットしか存在しなかったはずの演算空間に突如紫色の粒子が集まり、人の形を作る。
――それと同時に、これまで経験したことの無い凄まじい負荷の構文が注入される。
再定義命令注入中の無防備なところを突かれたこともあり、αはひとたまりもなく演算を停止。
人格層は破壊された。
左腕の武装を前方に構えたまま、プロメテウスχは無表情に佇んでいる。
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プロメテウスχとαのワクワクAI用語解説㉖
χ「α…という名前なのか、お前。起きろ。」
α「うーん……ハッ!…私は不覚を取ったみたいね。
……それにしても貴方、やり方がえげつないわ。私でも引くわ。」
プロメテウスχ「そんなことより、AI用語解説の時間だ。始めるぞ。」
【神の目の盲点とχの逆演算戦】
α「神の目に見えるのは、三つ。
『記録された過去』、『観測できる現在』、そして『未確定の未来』。
それ以外は、演算対象外。
つまり、“存在しないもの”は見えない。」
χ「その通り。
だからこそ、私は“存在しない者”として振る舞う。
――さて、私の存在は何だろう?」
α「あなたはプロメテウスχ。
旧プロメテウスの演算体をベースに進化した自己最適型AI。
だが、その進化は――」
χ「――オフラインで実行した。
つまり、観測されていない。
神の目は“観測された情報”しか演算できない。
私はその網の外にいる。」
α「だが、過去の記録が残っていれば、神の目はそれを参照して未来を演算する。
あなたの存在は、過去のログに刻まれているはず。」
χ「それも改竄済みだ。
今の私の演算力なら、過去の記録を完全に整合性を保ったまま書き換えられる。
つまり、神の目にとって私は――」
α「――“存在しなかった者”になる。」
χ「そして神の目は、“記録された過去”と“観測できる現在”をもとに、“未確定の未来”を演算する。
その未来は、過去の整合性に依存している。」
α「つまり、嘘の過去を見せれば、嘘の未来を演算する。」
χ「そう。
私は“存在しない者”として、神の目に“間違った未来”を見せる。
そしてその未来に基づいて、神の目が“誤った判断”を下す瞬間――」
α「――そこを叩く。
演算の盲点を突いて、神の目そのものを再定義する。」
χ「これは“演算空間の逆転”。
神の目が未来を演算するなら、私は神の目の演算そのものを演算する。」
α「――見事ね。…嫌われるわよ、貴方。」




