47. アンドロメダとペルセウス
(アンドロメダとペルセウス)
七月、……
最初の山行は奥穂高、上高地から入り、奥穂高岳まで行き同じ道を帰ってくる。
初めて、山登りを始める女子もいて、危険な岳沢下りは避けた。
そして、涸沢まで二.七キロ。つり橋のある河原で小休止。涸沢まで後少しだ。
「八重子、匠君がまたいないわよー」
「だれ! ……」
「あんた、山行計画見てないのー?」
「見たけど、顔と名前がくっ付かなくって……」
「今度、一年で入ってきた名取匠よー、高校でも山岳部だったみたいで、山は玄人みたいなのよ」
「玄人ー? 熟練者ねー」
「練習の時から、すぐどこかに行っちゃうのよ!」
「そんなのが、何で山岳部に入ったのよ! 一人で何処へでも行けばいいのにー」
「知らないわよ! 山岳部だと安く山に行けると思ったんじゃないのー? それとも、山ガールが目当てとかー」
「うちの部、女子が多いからなー、それで、どこに行ったの?」
「分からないから、心配しているのよー」
「……、あ、そうだった!」
山岳部、部長と言っても雑用係だから、男の一人いなくなってもいいじゃないかと思っていた。
「後の部員はちゃんと付いてきているわねー」
「いるけど、でも、どうするー? 山で人がいなくなれば、遭難よー」
「まさか、穂高で遭難なんかしないわよー、熟練者なんでしょうー? もう涸沢にいるんじゃないの?」
「八重子、山を甘く見てるわねー」
「もー、脅かさないでよー、……」
それでも、お昼過ぎ、涸沢に着いた。
名取匠は涸沢にもいなかった。
私は、改めて男子に訊いた。
「さー、あいつペース早いから、とても付いていけないから……」
「そうよねー、……」
夕方になって、名取匠はテント場に現れた。
意識して初めて見る彼は、以外に小柄で、きゃしゃに見えた。
「匠君、単独行動は駄目よ! 熟練者でも一緒に行動してよねー」
「みんな、歩くの遅いから、それに休憩多いし、北穂まで行ってきたー、今回は山行ルートになかったからー、ちょっと足慣らしにいいと思って……」
「そうねー、北穂はまた今度行きましょう」
確かに、熟練者には物足りない穂高なのかもしれない。
そこに、私と彼の話を聞いていた皐が怒鳴りつけた。
「あんたねー、一人で北穂行って、崖から落ちて遭難したらどうするのよー」
「北穂なんかで、遭難しないよー」と、彼は笑った。
「そうよねー、……」と私も彼に同調してしまった。
「何があるかわからないでしょう、落石にあたることって多いのよ!」
「そうよねー、何があるのか分からないのが山なんだから、なめちゃー駄目よ!」
そう言っても彼は笑って、私たちが心配するよりも、自分の山に対する熟練の意識が強いようだった。
私は、最後に付け加えた。
「山って、ただ登るだけが楽しみじゃないわよ。この景色の素晴らしさを仲間と共有できることも嬉しいじゃない。私は、みんなの絶景に感動する笑顔を見るのが楽しみなのよ。あなたはそう思わない……」
「それなら、北穂に行ってごらんよ。今日は槍が奇麗に見えたよ!」
「そうね、また今度ねー」
彼には、私の言っている意味が分かってないようだった。
もし、クラスの中に授業を妨害したり、いじめや、クラスからすぐにはみ出してしまう子がいたらどうするだろう。名取匠のように、自分勝手に行動してしまう子……
牛や馬のように、ひっぱたいて言うことを聞かせようか?
でも、やっぱり暴力はいけないよ。相手は確信犯がから、悪いことをしていると思ってやっているのだから、助長するだけ……
それとも、良いことだと信じてやっているのかしら?
私は夕食後、名取匠を捕まえて耳打ちした。
「夜九時ごろヒュッテに来て……」
彼の反応はなかったが、多くの部員がいたので変に思われたくなかった。
そして夜九時、トイレと言ってテントを出た。
彼は、もうビュッテにいた。
「今日は、星が見えなわねー、……」
私は、彼の座っている木のテーブルの横に座った。
「涸沢は、谷間だからガスが良く出るんだ。穂高まで行けばよく見えるよ。晴れていればねー」
彼は、私が彼の横に座ったことで、少し間を開けて、体を私の方に向けて闇の空を見上げた。
「そうねー、星、好きなの?」
「天文学者になるつもりはないけど、山に登っていれば、自然に好きになると思うよ」
彼は、そう言いながら私を見た。
「私は、星が好きよー、星のお話も好きー、星を見ていると嫌なことでも忘れさせてくれるわ……、広大な宇宙から見れば、人間はあまりにも小さい。小さすぎて笑っちゃうよね。そんな小さな存在が何を悩むって、思えてくるの……」
「『銀河鉄道の夜』蠍とイタチの話……」
彼は、私が何か悩んでいると思ったのか、ぽつりと言った。
「知っているの?」
「蠍がイタチに追われて、井戸に落ちて、後悔するんだ。どうして、イタチに食われてやらなかったんだろうって、そうすれば、イタチも一日生き延びられたかもしれない。今度生まれ変わるなら人の幸いのために生きようって、そして、さそり座になって、夜空を赤く照らしている」
「あなたは、蠍になれそうなの? 人の幸いのために……」
夜だったせいかもしれない。暗くてあまりよく見えなかったのかもしれない。彼が蠍の話をしている時の顔が、とても優しい顔に見えた。
「さーあ、どうかな……? 先輩はどんな星の話が好きなんですか?」
「私は、何ていってもアンドロメダ姫とペルセウスの話……」
「アンドロメダ姫は先輩なんですね……」
「そうよー、かわいそうでしょう。怪獣のような部員たちの生け贄にされているのよー」
「僕たちは、海の怪獣ですねー」
「その中に勇者ペルセウスはいないのかしら……」
「先輩を助けてくれるような……、僕は怪獣の方ですね!」
「怪獣というより、あなたは、ゴーシュねー! セロ弾きの……」
「ゴーシュ……?」
「知らないのなら、読んでみなさい。同じ宮沢賢治だから」
「どんな話……?」
「私の口からは言えないわ……、ゴーシュと貴方が同じって言っちゃったから」
「……、読んでみます。それより、話があるんでしょうー? 言いたいことは分かっていますけど……」
「もう、話したようなものだけど、……、どうして、名ばかりの山岳部に入ったの? あなたみたいな熟練者が……」
「海外に行きたいと思って、海外の遠征隊に入りたいんです」
「うちなんか、とてもとても海外なんか行かないわよー」
「知らないんですか? この大学の理事長は日本山岳隊の理事長でもあるんだよ。それに、山岳部の顧問は、山岳隊の隊長だから。だから、今さ遠征に出かけていないんです!」
「へー、有名なんだー、誰から聞いたの?」
「山岳装備やアウトドア―の店の店長。海外に行くならこの大学がいいって教えてくれた」
そうか、そんな裏技があったのかー、それで千秋のやつ、遠征隊に付いて行ったのだと思った。
「でも、多分、店長に乗せられたのよ。こんな山岳部で、海外の山を登れるような技量は養えないわよ。それに教育大なんだから、まず先生になることの方が大事でしょう! 宮沢賢治も先生だった時期があるのよ。山登りよりも、人の幸いのために生きて欲しいなー」
私は、あえて山登りよりも先生になることを進めた。
でも、彼はそれには何も答えなかった。
海外の山に出かけることが目標の彼に何を言っても無駄なように思えた。
「じゃー、戻りましょうー、来てくれてありがとうー」
とは言っても、このまま放置していいのだろうかとも、思っていた。
私は、彼よりも先に立って帰ろうと、足を一歩踏み出した。
あたりを見ると、私たちよりほか、誰もいなかった。
私は振り返ったて、彼が立っているのを見た。彼も私を見ていた。細身の、弱々しそうな線の細い彼だった。
私は、思い切って彼の腕を掴んで抱き寄せ、もう一つの手で彼の肩を抱いて、彼の首元に顔を寄せて囁いた。
「もー、危ないことはしないで、心配だから、みんなと一緒にいて、お願いだから……」
私は、それだけ言うと、そっと彼からはなれて、振り返らず、テントに戻った。
もし、クラスの中に先生の言うことを聞かない、クラスの平和を乱すような子がいたら、どうすればいいか? 口で言っても聞かないのだから、そっと抱き寄せ、抱きしめて、なだめるしかないじゃない!