44. ライ麦パンとコーヒー
(ライ麦パンとコーヒー)
どれだけ時間がたったのか分からない。
雨の音も風の音もしない。
不気味なほど周りは静かで、二人の話し声だけがテントの中に響いていた。
「もう二時か三時頃じゃないの……?」
「どうして?」
「私、わかるの、この時間になると、無性にコーヒーが飲みたくなるの……、体内時計が教えてくれるのよー」
「いつもこんな時間まで起きているのかい……?」
「そんなに、いつもっていうわけでもないけど、夜更かしはお肌の天敵だから、そう思いながらも、やっぱり絵を描いていると二時か三時ごろまでになっちゃうのよ……、それで、コーヒーを煎れて飲むの……、それとライ麦パン、ドライフルーツとかレーズンとか入れて、自分でパン焼くのよー、それがコーヒーにあっていて美味しいのよ。それで今まで描いていた絵を眺めながら、椅子に座って飲むの……、ライ麦パンと一緒にね。その時が一番充実していて幸せかもしれないわー」
昇さんは、私の話を聞いてから、またコンロに火を入れて、お湯を沸かしてくれた。
きっとコーヒーを私のために煎れてくれるのだと思った。
「パンを自分で焼くんだねー、自炊どころか主婦顔負けじゃないかー」
「お嫁さんに欲しくなったでしょうー?」
「うん、欲しい!」
「でも、あげない……」
そう、私がパンを焼いたのは、まだ小学校にも入らないときから、もちろんお母さんと一緒に作っていた。
言わば私と母の粘土遊びだった。
お花やお人形の形を作って、それをオーブンで焼くと、とんでもない形になって出てくる、それが面白くて楽しくて嬉しかった。
あれから今に至るまで、私はパンを焼いている。
*
お母さん、私もライ麦パンの美味しさが分かるようになったよ。
小さいころに酸っぱくって嫌いって言ったけど、今はやわらかなふわふわのパンよりも好きになったのよ。ライ麦の素朴さと酸味が心を落ち着かせてくれるわね。
お母さんの味かな……
お母さんもコーヒーとライ麦パンで食べるのが好きだったよね。
私もお母さんと同じになっちゃったよ。
*
「偉いでしょうー、やっぱりできたてのパンは美味しいもの……、本当は冷めてイースト臭さがなくなったころが一番美味しいと言うけど、私はあのイースト臭さが好きなのよ。買ってくるパンでは味わえない美味しさだから……」
「多分、炊きたてのご飯を目にしたときと同じなんだねー」
「そうよ、私、炊きたてのご飯も大好きだから……」
昇さんは、さっそくコーヒーをカップに注いでくれた。
あたりが明るくなるころ、また連絡が入った。
「元気か、生きているか?」
「ああー、生きているよー」
「じゃあ、そろそろ救出に行くぞー」
「テレビ局は来ているか?」
「ザイテンでこけたくらいで、テレビ局が来るわけないだろー」
「わかった、わかった、急がないから、ゆっくり来てくれ……」
しばらくして、山岳部の人たちが来て、巧みなロープワークで彼を持ち上げて行った。
ついでに私も持ち上げてもらった。
明るいところで見る崖の様子は、足がすくんだ、ここを私がロープ一本で降りて行ったとは恐ろしい。
もし、明るかったらできなかったかもしれないと思った。
彼は、何とか歩いて山小屋に到着したが、山小屋の医師の話では、鎖骨と肋骨が折れているかもしれないという。
レントゲンがないので確かなことはわからないが、足も軽い捻挫のようで、下山するのは無理だと判断し、救助ヘリを呼んだ。
昨日、遭難しかけた彼女は、何度も頭を下げて、お礼とお詫びを繰り返していた。
すぐに救助ヘリが来て、彼は大丈夫だと最後まで言い張っていたが、あえなくタンカーに乗せられて連れて行かれてしまった。
「じゃあ、俺たちも予定を変えて下山して病院に行くとするか!」
「持ってきた食料はどうするんだ?」
美男子の彼が言った。
「持って帰るのも重いなー」
もう一人の部員は……
「食糧、警備隊に寄付して行きましょう」
「そんなことしたら、部長にどやされますよー、戻せ返せ取りに行けって言いかねないですからねー」
「そうだな、仕方ない、しょって帰るか……」
三人の話を訊いて笑っていたのは私だけではなかった。
私は、彼女に訊いた。
「真理子さんは、どうするの?」
「私も下ります……、今日下山する予定でしたから、それに、昨日両親に遭難しそうだと最初に連絡しちゃったんです。もう上高地のホテルで、私が来るのを待っています」
「じゃあ、みんなで帰りましょうか!」
帰るとなると、苦労して登りきったこの風景が惜しく思えてきた。
確かに絵心がある人なら、ここにキャンバスを立てて、この風景を描かずにはいられないと思った。
私は、昨日のお姉さんの話を真理子さんに伝えてから、カッパ橋で彼女と別れた。
そして私たちは松本の病院へと急いだ。