暗靑…?
俺は金塊の入ったバッグの紐を限界まで締め直し、ボートの縁を蹴った。 湖の底には、さっき暗青色の女が沈んだばかりだ。だが、今の俺たちには、底の見えない暗い水の中に逃げ込む以外に、生き残る道は残されていなかった。
よく考えたら、俺の持っている金塊1億円分なんて、たかだか4キログラム程度だ。 缶コーヒー1本のサイズ。
だが、神堂の背負っている一万円札で1億円分は違う。その重さ、およそ10キロ。さらに水を吸って重くなる。そんな紙の塊を背負って水面下を潜水するなんて、自殺行為以外の何物でもない。
「神堂、万札はボートに置いていけ! さっき切った重りのロープを持ってろ。後で岸から手繰り寄せりゃいい! とにかく今は潜れ!」
神堂は血相を変えて一瞬躊躇したが、迫り来る『橙色の口紅』の恐怖には勝てず、慌てて万札の入ったリュックをボートの金具に縛り付けた。 そして俺たちは、這い寄る恐怖から逃れるように、暗い湖の底へと身を投じた。
ドボン、という音すら立てないよう、滑り込むように水に入る。 水温は恐ろしく低く、一瞬で体温が奪われていくのがわかった。
そこは真っ暗な、絶対の静寂の世界だった。 俺たちは水面上の『風下』のラインから外れるように斜めの軌道を描きながら、対岸の岸辺を目指して泥のような水を掻いた。
肺が酸素を求め、悲鳴を上げる。だが、息継ぎなんて論外だ。水面から顔を出して空気を吸い込んだ瞬間、あの女に匂いを嗅ぎつけられる。限界まで我慢を繰り返し、視界がチカチカと明滅し始めた頃、ようやく手に泥と草の感触が触れた。
「ぷはっ……!」
俺たちは茂みの影で音を殺して水面から顔を出し、気管が裂けそうなほど荒い息を、限界まで押し殺しながら吐き出した。 震える身体で岸に這い上がり、振り返る。
湖面では、赤い女がまだ俺たちの匂いの残滓を探して、鼻をヒクつかせながらウロウロと水の上を徘徊しているようだった。俺たちが風のラインから外れたことで、完全に見失っている。
「……助かっ、た……のか」
「おい、忌部……見ろよ、あれ」
神堂が絶望に染まった声で、湖に浮かぶボートを指差した。
放置されたボートの上に、あの『暗青色の女』がいた。 さっき重りと共に水底へ沈んだはずの彼女が、再びボートに這い上がっていたのだ。そして、彼女のふやけた青白い手は、神堂が必死に括り付けた『10キロの一万円札』に向かって真っ直ぐに伸ばされていた。
女が一万円札を抱え込む。質量のない彼女にとって、それは水底へ帰るための、最高に重い『新しい下半身』だったのだろう。
「あ……俺の……!」
神堂が思わず立ち上がりそうになるのを、俺は慌ててその肩を掴んで地面に引きずり倒した。 俺は首を横に振り、身振り手振りで必死に神堂に伝えた。
『仕方ない、くれてやれ。取りに行ったら確実に赤い女に殺されるぞ』
神堂は血の涙を流さんばかりの悔しそうな顔で、ボートの上で一万円札を抱く暗青色の女を睨みつけた。 やがて、10キロの重みに耐えかねたのか、それとも女が強引に水底へ引きずり込んだのか。ボートが大きく傾き、女と一万円札は静かに、暗い湖の底へと姿を消した。ロープをたぐり寄せる隙など、微塵もなかった。
「……クソッ、俺の1億が……!!」
「命があっただけマシだ。行くぞ」
俺は背中の4キログラムの金塊の感触を確かめながら、濡れて重くなった衣服を引きずり、立ち上がった。 神堂の背中は軽くなったが、その足取りは絶望的に重い。
休んでいる暇はない。赤い女がいつ、再び風に乗って俺たちの匂いを捉えるかわからないのだ。 足音を立てないこと。 そして何より、肌を撫でる『風の方向』を常に意識すること。
風下に入れば、終わりだ。 俺たちは夜の森の微風に極限まで神経を尖らせながら、再び見えない出口を探して、暗闇の中を歩き始めた。
風の向きに細心の注意を払いながら、泥濘む森を歩き続ける。 極限の疲労の中で、俺の脳内では一つの仮説がパズルのように組み上がっていた。
「……なぁ、神堂」
俺は足音を殺したまま、隣を歩く神堂にポツリとこぼした。
「今までの怪異の色を思い出してみろ。音を追う『赤』い女、匂いを嗅ぎつけた『橙』色の口紅、足跡を追う『黄』色い靴、衝撃音に突進する『青』い火の玉、重りを求める『暗青』色の女だ。この暗青色が『藍』色だったとしたら」
赤、橙、黄、青、藍。 偶然にしては、あまりにも出来すぎている。
「……虹の色、か」
「そうだ。光のスペクトルだ。残る色は『緑』と『紫』。この森にはまだその二色の怪異が潜んでいるのか、それとも……あの赤い女がまた誰かを取り込んで、新たな能力としてその色を発現させるのか」
俺の推測に、神堂は重々しく頷いた。 もしあの女がさらに二つの感覚を手に入れたら、それこそ逃げ切る術は完全になくなる。これ以上、誰もアイツに殺されてはいけない。




