こんにちは、皆殺しに来ました
一月の終わり、節分の数日前。
空はまだ灰色に重く、園庭の木々は葉を落としきって、枝だけが細く空を刺していた。風が吹くたび、枯れ葉が地面をさらさらと這い、静かな音を立てる。幼稚園の門は閉じられ、子供達の声はもうどこにもなかった。放課後、園舎の明かりはまばらに灯り、先生たちが片付けを終えて帰る頃合いだ。
門の前に、一つの影が立っていた。
鬼だった。
角を冠し、赤黒い衣を纏った男。だがその瞳だけは、どこか人間の色を宿していた。仲間は連れていない。一人だ。
彼は門の鉄柵に指をかけ、静かに息を吐いた。吐息は白く、冷たい空気に溶けていく。
園舎の玄関から、一人の女が出てきた。
ユウコ先生。
三十人の子供達を預かる、二十代後半の幼稚園教諭。
白いエプロンを脱ぎ、薄手のコートを羽織った姿で、ゆっくりと門まで歩いてくる。髪は軽く束ねられ、頰にわずかな赤みが差していた。寒さのせいか、それとも別の理由か。
彼女は門の向こう側で立ち止まり、鬼を見上げた。
そして、柔らかく微笑んだ。
「ふふっ……鬼さん、こんにちは~」
「あっ、はい。こんにちは。まぁ、改めてですが、僕、二人の仲間を引き連れ、計三人で……節分の日に、貴方の幼稚園の生徒を皆殺しに行きたいと思います」
鬼の声は低く、しかしどこか抑揚を欠いていた。まるで、すでに決まった結末を読み上げるように。
本当は違うのかもしれない。この言葉を口にすることで、何かを試しているのかもしれない。
「うん。また来てくれてありがとうね」
ユウコ先生の声は、冬の空気に溶けるように優しかった。
しかし、その優しさの奥に、微かな揺るぎなさが潜んでいるのを、鬼は感じた。
彼女はコートのポケットに手を入れ、穏やかに言葉を続けた。
「今日も節分の打ち合わせに来てくれたんだね。ユウコ先生、ちゃんと準備してるよ~♪三十人のみんなを守るために、真剣に作戦を考えたから、聞いてね!」
鬼は、わずかに目を細めた。
準備。作戦。
この女は、本当にわかっているのだろうか。
自分は遊びの仮面をかぶった鬼ではない。血と闇の匂いを纏った存在だ。
それでも、彼女は続ける。
「先生の基本方針はこれだよ」
彼女は指を一本立て、まるで子供に絵本を読み聞かせるように、穏やかに言った。
「みんなで力を合わせて、楽しく・安全に・鬼さんを心からやっつける!本物の怖い鬼さんじゃなくて、遊びの鬼さんだから、みんな笑顔で勝っちゃおうね!」
その言葉に、鬼の胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
笑顔。
そんな言葉が、この状況で許されるはずがないのに、なぜか痛い。
彼は黙って、彼女を見つめ続けた。
ユウコ先生は、門の鉄柵に軽く手を置き、目を細めて微笑んだ。
その笑顔は、優しく、しかしどこか絶対的なものを湛えていた。
「作戦名はね……」
彼女は少し間を置いて、冬の風に髪を揺らしながら、静かに言った。
『30人豆まき防衛大作戦 ~鬼は外! 福は内! ハートブレイク作戦~』
言葉が落ちた瞬間、園庭の空気がわずかに震えた。
誰もいないはずの場所で、子供達の幻のような笑い声が、遠くから聞こえた気がした。
三十の小さな命が、これから節分の日に、鬼と対峙しようとしている。
鬼は、ゆっくりと拳を握った。
心のどこかで、わかっていた。
この女は、決して折れない。
どんな闇を突きつけても、彼女は子供達の笑顔だけを守るだろう。
「はい、ハートブレイク作戦、お聞かせ下さい」
それでも、鬼はユウコ先生の作戦を聞き始めた。




