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獣の空拳  作者: 藤田直巳
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4話

『格闘家狩り』という単語を耳にした瞬間、雄一の右眉がわずかに動いた。

おそらく、本人でさえ気づいていないであろう動きである。

脳が意識して放った信号によって、もたらされた動作ではない。過去の記憶と直結した、無意識の反応であった。


女は静かに、ゆっくりと、一歩を踏み出す。

まるで自分の庭を散策するかのように、その足取りは飄々として、軽やかである。

無駄な力が一切感じられない、あまりにも自然で澱みのない動き。


「それ以上近づくな。」


雄一の声を意に介さず、女は一歩、二歩と、さらに歩を進める。

流れる水のように、継ぎ目ひとつない動きは、重力さえもこの女には作用しないかのように思わせた。

地面に足が触れているはずなのに、まるで影が滑るように、するすると前へ出てくる。

それでいて、音すらも吸い込まれてしまいそうなほど、女の歩みは静かであった。


雄一は頭部をカバーするように、両腕を高く構える。

左足が前。

重心は後ろに引かれた右足に置かれており、足幅は狭く取られている。


後ろ重心のアップライトーー

ムエタイなどでよく用いられるこの構えは、蹴りの放ちやすさ、そして足による防御に優れている。


ムエタイの試合においては、拳よりも蹴りの攻防がポイントに直結しやすい。とりわけミドルキックは、有効打として評価されやすく、相手にクリーンヒットさせることができれば、判定で大きなアドバンテージを得られる。

そのため、ムエタイにおいては、蹴りへどう対処するかという点が、極めて重要となる。相手にポイントを与えないためには、単に腕で受けるのではなく、足を使って積極的に防御の意思を示さねばならない。

実際、腕で受けるだけでは防御と見なされず、ポイントを取られてしまうこともあり得る。

このため、ムエタイでは足を上げて脛や膝で受ける「チェック(カット)」が一般的とされている。


そして、足を上げて攻撃を受けやすいということは、同時に、蹴りを放ちやすいということでもある。

強い蹴りを放つためには、後ろの軸足にしっかりと重心が乗っている必要がある。

ボクシングでは、構えの多くが前重心であり、これはパンチを主体とする競技性ゆえのものである。

しかし、前重心の構えでは、蹴りを放つ前に一度、重心を後ろに移す動作が必要になる。それに対して、最初から後ろ重心で構えていれば、重心移動を挟むことなく、一拍で蹴りを繰り出すことができる。

無論、蹴りの認められていない競技であれば、この差は大きな問題にはならない。しかし、蹴りのある戦いにおいてはーーこの「一拍の差」が、時に勝敗を分かつこともあり得る。

また、アップライトの構えは首相撲や肘での攻防にも適しており、これら独自の間合いと技術が展開されるムエタイにおいて、このスタイルは攻防の両面で合理的な選択とされている。


女との身長差は、目測で20センチ以上。

あの異様に長い腕の存在を差し引いても、雄一はまず、足での攻撃を警戒していた。


「ふふん。さっきの構えより、ずっとさまになっているよ。」


場に立ち込めている殺気には不釣り合いな笑みを浮かべながら、女がつぶやく。

"さっきの構え"とはおそらく、先ほどのシャドーで雄一が用いていたスタイルのことであろう。


ーーやはり、見られていた。


雄一の背を、奇妙な不快感が這い上がっていく。


女にどのような格闘技の心得があるのか。

現時点で、雄一にそれを知る術はない。

しかし、先ほどのシャドー見られていたのだとすればーー女の方は、雄一に格闘技の心得があることを、すでに理解しているはずである。


実際の格闘技の試合であっても、相手選手の戦い方やクセを事前に分析し、作戦を立ててゆくのが常である。

少しの時間であっても、相手の手の内を事前に見ているというのは、実戦の場においては決して小さくないアドバンテージとなる。


だが、雄一の身に染みついた技術は、単なる我流の喧嘩術や、付け焼き刃の護身術などではない。

実力のある指導者のもとで、体系的に、理論立てて学び鍛え上げられた現代格闘術である。

無論、それは一朝一夕で身につくようなものではない。本人の才能、そして何よりも努力があってこそ、ようやく到達しうる領域である。

事実、日本中を探しても、同年代で雄一に肩を並べうる人間は、数えるほどしかいないだろう。

技のひとつひとつがーー年月をかけ、血と汗によって磨き上げられた、強く鋭い牙である。


それでいてなお、女はどこまでも余裕の表情を崩すことなく、雄一と対峙していた。

まるで、雄一が身につけた技術など、なんの脅威にもならないといった態度でーー


女がどのような攻撃を仕掛けてくるのか、雄一は思索を巡らせていた。


長い腕を活かしたリーチのあるジャブ。

あるいは、同じくリーチの長さが活きるローキック。

どちらも可能性としては高い


さらに、組み技で仕掛けてくる可能性も排除できない。

その場合、対処を誤れば一瞬で致命的な展開に陥る。


組み技を体系的に学んでいない人間が、それを修めた相手にテイクダウンされるということはーーすなわち、敗北を意味する。


この局面において、雄一は、あえて先手を取らず、受けに回るという選択をした。

見に周り、相手の初手を引き出した上で、渾身のカウンターを叩き込む。

戦いが長引けば、手の内が知られている分こちらが不利になる。しかし、カウンターの一撃で決めてしまえば、それで勝負は終わりだ。

短期決戦になる。

雄一は、そう確信していた。


問題は、相手の初手を見極めることができるかどうか。

たった一瞬の判断ミスが、命取りになる。


相手の初手を瞬時に捌き、的確に反撃に転じなくてはならない。

雄一は、最初の動きを見逃すまいと、全神経を、目の前に立つ女に集中させていた。


女はまだ、どのような構えも取っていない。

両腕を下ろしたまま、ただその場に立っているだけにも見える。


間合いに入るにはあと一歩、足を踏み出す必要がある。

体重移動、重心の変化……そういったわずかな兆しが、動きの起こりを教えてくれる。

どれほど速い攻撃であっても、起こりを見切ることができれば、迎え打つことが可能となる。

初動を制することーー雄一が導き出した現状の最善手である。


遠くを走り過ぎる車のエンジン音、木々が風に揺すられ葉を鳴らす音、自分の心臓の鼓動さえもーー

世界から、音が消える。

呼吸をすることさえ、忘れていた。


永遠とも思える静寂の中、どれほどの時間が過ぎたのか。

だが、ふと気づいた時にはーー

女の右足はすでに地を離れ、大きく一歩、前へと踏み出されようとしていた。


攻撃の間合い。


雄一の精神は、間違いなく極度の集中状態にあった。

一瞬たりとも、気を抜いてはいない。

女が何かを仕掛けて、意識に隙を生じさせたというわけでもない。


それでもーー

読めなかった。

起こりを、捉えることができなかった。


まるで、静止した世界の中で自分だけが動くことができるかのように。

悠然と、女の体は動き出していた。


右足が踏み出され、女はすでに間合いに入っている。

前足への体重移動に合わせて、女の右半身が前へせり出す。

次の瞬間ーー先行する肩に引かれるように、垂れ下がっていた腕が、大きく弧を描いた。

女は、腕を最大限まで伸ばしたまま、下から掬い上げるように、雄一の顎をめがけて拳を放ったのだ。


初動を捉えることができず、反応がわずかに遅れる。しかし、考えるよりも先に、雄一の体は反応していた。

咄嗟に後ろ足を半歩引き、拳が当たる寸前、上体をわずかに後ろに反らせる。


軽く握られた女の拳が、顎のわずか数ミリ先を走り抜けた。

大気を切り裂く鋭い音が、鼓膜を揺らす。

雄一は確かに、空気の焼け焦げた匂いを嗅いだ。


ーーなんだ、今の攻撃は!?


普通のアッパーではない。

ボクシングなどで使用される一般的なアッパーは、肘を曲げることによりリーチが短くなるため、主に近間での攻防で使われる。

腰を捩り、放つ瞬間に解放することよって、爆発的な破壊力を生み出す。

しかし、女の放ったそれは、そのいずれにも当てはまらない。


腕の先端、握られた拳を重りに、遠心力を最大限に活かした形での打撃。

異様なほどのリーチと、見たこともない軌道。

雄一の知るどの格闘技にも、このような技はない。


しかし、驚く間もなく、雄一の体も反撃に動いていた。

右足で斜め前へ大きく踏み込むと、そのまま体重を乗せた左のローキックを、相手の右足に放つ。

それは、最短距離を突くような蹴りではない。大きく旋回しながら放たれた、力強く、破壊力のある蹴りであった。

鍛えていない人間がまともに貰えば、一撃で筋肉が断裂してもおかしくない威力である。


だが、女は軽やかに、半身ごと右足を引いてそれをかわす。

次の瞬間には、すでに女の左拳が放たれていた。

先ほどと同じく、遠心力を活かしたリーチの長い一撃。

横から薙ぐような軌道を描きながら、雄一の頭部めがけて伸びてゆく。


女の左肩から手首までは、無造作に投げ出されていた。軽く握られた拳にも、それほど力が入っているようには見えず、一見して、致命的な破壊力を持った一撃であるとは思えない。

仮に、そのまま雄一の頭部に直撃したとしても、それだけで勝負を決する一手とはなりそうもない。


だが、雄一は感じていた。

経験が。

本能が。

女の繰り出す一手一手のどれもが、確実に危険なものであると告げている。


闘う上で最も恐ろしいのは、相手の手の内がわからないこと。

技の性質を理解していれば、捌き方や避け方を導き出すことができる。

しかし、初見の技に対してそれはできない。

経験と推測をもとに動くことになる。

己の判断を頼りに、一瞬一瞬に命を預けて動くしかない。


空を切った左足を戻しながら、雄一は状況を冷静に分析していた。


ーー避けられない。


瞬時にそう判断すると、右腕を素早く持ち上げ、肩と腕で頭部をカバーする。

ブロッキング。

相手の攻撃に対して、腕などを間に挟むことで、衝撃を大幅に軽減する防御技術である。

ただ単に腕で受けるだけではなく、腕と肩で頭を固定し、脳が揺れることを防ぐ狙いもある。


さらに雄一は、拳が腕に触れるその瞬間、力に逆らわず、そのまま上体を拳の進行方向へと流した。

打撃系格闘技に見られる、スリッピングアウェイと呼ばれる高度なテクニックである。


しかし、その破壊力はーー想像を遥かに超えていた。

ブロッキングとスリッピングアウェイによって威力を殺したにも関わらず、拳に打たれた雄一の体を、強い衝撃が襲う。

全身の骨が一瞬で軋むような感覚。

まるで、真横から大鉈を叩きつけられたかのような痛み。

堪えきれず、力を逃した方向へよろめいた。

これほどまでの威力が、何気なく放たれた拳に秘められているとは、誰が想像できるというのか。

肩で頭を固定していなければ、そのまま脳震盪で意識を失っていたかもしれない。


次の攻撃が来るーー


女の体は、すでに動き出していた。

最初の一撃と同様に右足が踏み出され、再び、下からの拳が迫る。


先ほど受けた衝撃は、まだ抜けていない。

しかし、この攻撃は見ている。

すでに、一度経験した技だ。

ならば、同じことをすればいい。


雄一の体は、ほとんど反射的に動いていた。

先ほどと同じように、軽く上体を後ろに反らせる。


戦いが始まってから、後手に回り続けている。だが、この攻撃を避け、反撃に転じることができればーーコンマ数秒の世界で、雄一は、冷静に次の一手を組み立てていた。


しかし、拳が顔の前を通過する、その瞬間であった。

電撃のような衝撃が、脳を直撃する。


何が起きたのか。

雄一の脳は、まだその理解に追いついていない。

だが、その目は、格闘家として鍛え上げられた動体視力をもって、すべてを克明に捉えていた。


女の右拳が顎先をかすめる寸前ーー

軽く握られていたはずの拳が、開かれていた。

攻撃がすり抜ける直前、拳は掌底の形へと変化していたのだ。

その変化により、伸ばされた指の分だけ、リーチがわずかに伸びる。

その結果として、女の中指の腹が、雄一の顎先を撫でたのだ。


刹那、雄一の頭が、大きく後方へ跳ね上がる。

上下の歯がぶつかり合い、口の中でかちりという無感情な音を立てる。

状況を理解できないまま、雄一は膝をついていた。


立て続けに、女の左足が地を蹴る。

その足が、雄一の側頭部めがけて迫る。


混濁した意識の中で、雄一は、最後の抵抗を試みた。

この状況で、まともにこの女の技をガードすることはできない。

しかし、それと同等の、あるいはそれ以上の力をぶつけて相殺することができればーー


迫りくる蹴り足に向けて、残されたすべての力を振り絞り、雄一は肘を水平に振るった。

残された力はわずか。

仮にこの蹴りを凌ぐことができたとして、その先も耐えられるという保証はない。

しかし、眼前に迫っている攻撃に対し、黙して受け入れるわけにはいかない。

この刹那、雄一の中には一片の迷いもなかった。


瞬間、女の蹴りが軌道を変えた。

膝から先が一瞬で引かれ、雄一の肘を見切ったように迂回すると、そのまま下から跳ね上がる。

突き上げるような蹴りが、雄一の顔面に、正確に突き刺さっていた。


意識が、その体から弾き出される。

肉体が、静かに崩れ落ちた。

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