第三夜
日が昇り始めて間もない時刻。沖田総司は朝早くから悠を道場に呼んでいた。
「総司さん、こんな時刻に……」
「こんな時刻でもないと、他の人たちにバレてしまいますからねぇ。ああ、大丈夫ですよ。土方さんには話してありますから、終わったら少し休んで構いませんよ」
「うー…」
昨夜も普段より遅くなり、少しばかりかわいそうな気もする。だがやはり、武術の心得があると分かれば何をおいても彼女の腕前が気になる。それが武士というものだ。
総司の言葉に悠は目を覚まそうと、体を動かし始めた。
同じく昨夜の居合わせた新八も、悠と手合わせすると聞きつけてか顔を見せた。やはり派手な着流しで、寝付いた時刻もさほど変わらないはずだが、寝不足も感じさせない。
新八は道場の上座、一段高くなったそこに腰を下ろせば、呆れたような声音で息をついた。
「本当にやってるのかい」
「当たり前ですよ。新八さんだって気になってるくせに」
「そりゃまぁな」
そうこう話しているうちに、悠が目を覚めてきたのか問いかけてくる。
「あ、そうだ。少し天然理心流について聞いてもいい? 体は覚えてても流派とか、ちゃんと知らないし」
生活に困るほど記憶を失ってはいないのは、傍で見ていればよく分かる。本当に知らないのか、記憶喪失のためか、知識としての流派の歴史やあれこれが抜けているのだろう。
悠の問いに、総司は頷き笑顔で説明を始める。
「ええ、いいですよ。貴女のような方にそう言っていただけるのは、嬉しいですね。
天然理心流は武蔵国の天領に住んでいた人たちの、自衛手段として広まったのが最初です」
戦国の剣豪、宮本武蔵の五輪書にこうある。
『世の中に、兵法の道をならひても、実の役にはたつまじきと思ふ心あるべし。其儀においては、いつにても、役にたつやうに稽古し、万事に至り、役にたつやうにおしゆる事。是兵法の実の道也』
世の歴史に兵法の道を習ったところで、実戦の役には立つと思ってはいけない。全てにおいて、役にたつよう稽古し、万事に至り役にたつよう物ごとを推し進めること。これが兵法の実の道である。
「まぁ、結局は役にたつように稽古をつむことが、本当の剣の道だってことですね。理心流はまさにこんな感じです。実戦に重きをおいた稽古のためか、とかく理心流は心の在り方や物ごとに堪える気力を養えと教えられました」
「……へぇ、ちゃんと覚えてたのか」
真面目に説明した総司に、新八は意外そうに目を丸くして呟いた。
それが聞こえた総司は、ぴしゃりと冷ややかに言い返す。
「聞こえてますよ、新八さん。今まで披露する機会がなかっただけです。実際頭使うより体動かしてるほうが性に合ってますから」
さすがにばつが悪いのか、新八も視線を明後日のほうへ向けた。
その様子に、悠は笑いながら問い返す。
「あはは、そういえば、理心流じゃない人も隊のなかにいるの?」
「ええ、いますよ。江戸の道場にいたころから、居候で既に何人かいましたし。新八さんや原田さん、平助も違いますね。順に神道無念流、種田宝蔵院流槍術、北辰一刀流です。詳しく知りたければ、直接聞いたほうがいいですよ」
「あんなことやこんなことがあったのに、まだ一年なんですよねぇ。随分前のような気もしますが」
「陰陽師だ妖だってんでいろいろあったのは確かだが、その誤解を招くような表現はやめねぇか、総司。手合わせするんじゃなかったのか?」
「ああ、いけない。つい話し込んでしまいました」
総司は茶化したような言い方をしたものの、秘密裏の任務のおかげであんなことやこんなことがあったが、決して隊規に反するようなことはしていない。
新八の言葉に総司は軽く息をつく。
悠が木刀を手に礼をし、それが合図のように手合わせが始まった。
「じゃあ総司さん、お願いします」
「ありがとうございました!」
互いに礼をし、手合わせを終えれば悠は再び着替えのため道場を後にした。
思ったとおり、彼女の剣腕はたいしたものだ。
(いいとこまで行ったんですけどねぇ)
「てぇしたモンだなァ……あれなら平隊士たちの相手くれェなら出来るだろ」
無論、総司に勝つことは出来なかったが、それでも互角へ持ち込んだだけでも見所は充分ある。ずっと稽古を見ていた新八も同様の感想を告げた。
そこへすぱんと道場の戸を開け、盛大に怒鳴ったのは土方だ。
「総司! いつまでやってんだ!」
「何ですか、土方さん。今から行くところだったんですから。女性の支度はちゃんと待つのが礼儀ってものでしょう」
「それとこれとは別だろうが! 時と場合と状況を見て言いやがれ!」
「えー…怒られるって分かってて正直に行く人なんていないと思うんですけど」
「……いいから来い! 新八! 悠が出てきたら俺の部屋まで連れてこい」
「承知」
土方は総司の首根っこを捕まえた
観念しろとばかりに新八は総司を見送ろうと手を振る。
土方がふと足を止め、新八を見やった。
「ああ、そうだ。新八、桝屋捕縛が決まりそうだ」
「お、そうか。じゃあ、左之や平助にも伝えとくぜ」
新八のその言葉を聞くやいなや、土方は総司を引きずって道場を後にした。
当の総司は引きずられたまま、土方に問いかける。
「というと、昨日とっ捕まえた連中が何か白状したんですか?」
「昨夜、お前たちとは別で、南禅寺の肥後宿舎に入るところを捕まえた忠蔵って奴が大当たりだ」
彼が白状した内容はこうだ。
大量の武器、火薬を薪炭商、桝屋にて保管してある、と。
桝屋主人、喜右衛門。隊内では前々から妙な男だと、張りついていたが正解だったらしい。三十代半ばになろうというのに、今だ独り身で近所との付き合いもないと監察方から報告があった。
更に総司は一度客を装って店へ行ったこともあるため、顔も知っている。
「あぁ、あの人、なんか変でしたもんねぇ」
「今は確証を得るため、聞き込みだなんだってさせてるがまず間違いねぇだろ。確定次第、おまえも桝屋の捕縛に来い」
総司の緊迫感のない口調とは正反対に土方はぴしゃりと言い切った。
起き始めた平隊士たち幾人かに引きずられているところを見られたが、たいして気にする風もなく。また隊士たちもそれほど気にするでもなく。
朝の陽射しに小鳥の鳴き声も聞こえ始めていた。
「あれ? 総司さんは?」
悠は着替えを終え、いつもの青墨色の袴と薄藍の小袖姿だ。道場に戻ればもう一人いるはずの姿がなく、新八へと歩み寄る。
「先、土方さんの部屋行った。悠も来いってさ」
「分かった。新八さんはどうするの?」
「ん? あぁ俺も行く。けど、多分土方さんの部屋の手前くれぇまでかな」
「何で部屋の手前?」
「行きゃァ分かる」
そう言って新八も立ち上がると、行こうと悠の背に手を添えた。
行けば分かるという新八に、悠は首を傾げながらも道場を出る。
さすがに平隊士たちも起き始めている時刻で、あちこちから声が聞こえた。
「ここでの生活には慣れたかい?」
「うん、皆いろいろ教えてくれるし」
「そりゃ良かった、ま、根は皆いい奴ばっかだったしな。記憶喪失って分かった時ゃどうするかと思ったが」
「落ち込んでても仕方ないし、やることあると意外と気にならない……って言うと、ちょっと違うか。気が紛れるっていうのかな」
新八の隣を歩きながら、悠はに心配ないと言わんばかりに微笑む。ほとんど雑用だがなんだかんだで走り回っていれば、考え込んで
その様を見て何度か瞬きした新八はひとつ息をつくと、悠の頭をぽんぽんと撫でた。
「こっちの都合で男ばっかのところに放り込んだも同然だったから、これでも皆気にしてんだぜ」
「ありがとう。私も最初どうなるのかなって思ってたけど、今のところどうにかなってるし、大丈夫!」
悠は笑みを浮かべぐっと片手を自分のほうへ引き寄せ握り締める。
悠の様子にくすりと新八は笑った。
日が差し始め、暖かな風がさわさわと木々の葉を揺らしている。時折すれ違う隊士におはようございますと挨拶を交わす。
廊下の角を曲がり、土方の部屋が近づけば怒鳴り声が聞こえた。
「――ら、普段から言ってるだろうが!!」
「おー……やってるやってる。つーわけで、俺はここまで」
目を丸くしたまま、悠は何度か瞬きをし土方の部屋と新八を交互に見やる。
その新八は行けと悠の肩をぽんぽんと叩いた。
時々、土方の怒鳴り声が聞こえるのは、知っていた。そんな時はだれも近寄りたがらないのも、知っていたがいざとなればやはり自分だって近寄りたくはない。
「え……新八さん……」
「大丈夫だって、いっくら土方さんでも悠にまであの調子で怒りゃしねぇから」
(でも、やっぱ行きにくいよ~~)
本当の隊士ではない分、新八の言い分もそうだと思うがだれかが怒られているところにはやはり行きづらい。
再び何度か土方の部屋と新八を交互に見やるが、新八は目で先を促す。
困ったような表情をして、眉を寄せるも悠は意を決して声をかけた。
そして、しばしの沈黙に見舞われる。
居心地悪くあちこち視線をさ迷わせていた悠が、どうにか火蓋を切った。
「……土方さん、えーっと……私も悪かったし……」
「それもそれなら、ちゃんと部屋まで送らず早いところで気づかなかった総司も総司だ」
そして怒られているはずの総司は、畳のうえに正座をさせられ、緊張感の欠片も感じない調子であっさりと言った。
「怒られるかなーとは思いましたけど」
「当たり前だ! おまえ一人ならいざ知らず、新八が間に合わなかったらどうする気だ!!!」
「そこはそれ、土方さんの機転でちょいちょいっと」
「なるかっっ!!!」
総司の正面に土方が座り、両腕を組んで鬼の形相だ。
壁を背に座っている悠だが、目が点になったまま総司と土方の様子を眺めている。
こうなると時が解決してくれるのを待つしかない。先ほど別の隊務で出かけた、新八がそう耳打ちしてくれた。
表立っての任務ではなかったため、昨夜のことはごく一部の者しか知らないらしい。捕まえた浪士を連れ帰ったのは新八だ。幾人か見逃したことは本来なら隊規違反になる。だが悠がその場におり、隊士たちに話が広がる前だったので、説教程度ですんでいる。
「そういえば総司さんは、何であんな時間にひとりで出かけたの?」
悠のその問いに土方の説教も止まった。
何か隊務であれば羽織を着ているだろう。総司は飲んで騒ぐのが好きなほうにも見えない。遊びまわっている噂は悠も聞くが、酒が好きではないのは確かなようで、飲んでいるところを見たことがない。
そもそもあれは花街がある方向ではなかった。では、何をしにいこうとしてたのか。
「話してしまってもいいんじゃないですか? 今更隠したって余計変なだけでしょう」
「だれのせいだ、だれの」
土方は睨み返すもそれをさらりと流し、総司は気にした風もなくけろりと続ける。
「それはすみません。けどどうせいつかばれるなら、今話しておくのも同じじゃありませんか? 勘はいいみたいですしねぇ」
土方がぴくりと眉をあげたが、悠はそれに気づかなかった。
ニ人の顔を順に見やれば、悠は自分が聞いていいことなのかと不安になる。
「……悠は妖ってのを信じるか?」
「妖?」
「異形とか化け物とか、平たく言えば幽霊ってやつですね」
悠が聞き返したそれに答えたのは総司だ。
信じるかと訊かれると正直よく分からない。そもそも見たことあるはずもない。
(――あれ、何か引っかか……る?)
心の中を通り過ぎるものがある。けれど捕まえることが出来ず、するりと抜け落ちた。
「皆は……信じてるの?」
「信心深いように見える?」
どこか茶化したような総司の口調に、悠は首を横に振った。
「そりゃそうですよねぇ、俺たちも目にするまで馬鹿らしいって思ってましたし。でも実際に化け物退治しろって命令が下って、目にしちゃったら信じるほかないっていうか」
総司のあまりにも軽い説明に悠は何度か瞬きをした。
「お前な、それじゃ訳が分からないだろうが」
「えー、でも本当のことじゃないですか」
「物には順序ってもんが……ああ、もう、また話が逸れる」
土方は総司へと向けていた視線を、悠へと移すと総司の言葉を補足するように説明を始めた。
昨年の長月、京都守護職預かりとなり“新選組”という隊名を賜ったと同じ日。秘密裏に妖退治の命も下されたそうだ。
そうはいっても妖が視えるでもなく、祓う術を知っているわけでもない。そこで紹介されたのが、現在では陰陽師の総家ともなった土御門家だ。妖が視えるようになる禁厭や霊力を宿した武器など、後方支援をしてくれているそうだ。
「去年……でも、何でわざわざ妖退治なんて命じたの? 上の人たちもそんなの信じてるの?」
「信じてねぇ奴も信じてる奴もいるさ。自分の目で見なきゃ信じねぇ、あるいは見てしまったばっかりに信じ始めた奴もいる。土御門と幕府の間にどんなやりとりがあったかは知らねぇが、実際に化け物がいるのは事実だ」
「神隠しとか、人間業じゃない人殺しとか、訳の分からない事件もあるし……俺たちも見るまでは信じてなかったんですけどね。ああ、ほら、昨日も悠と新八さんには先帰ってもらったでしょ」
「うん、何か用があるんだとは思ってたけど」
聞いていいのかも分からなかったし、こんな夜中に出かけるのだから秘密裏の隊務かと思いその場では何も言わなかったのだ。
「あれは雑鬼たちを探しに行ってたんですよ」
「ざっき?」
「雑鬼、一番弱ぇ妖のことだ。妖っていっても、せいぜい物隠したり程度のな。弱いからだろうが、あれで京に起きたこといろいろ知ってるからな」
土方の説明に悠は首を傾げた。やはり今ひとつ信じられない。けれど、どこか引っかかる。それが何かは分からず、掴み損ねては心の奥に流れてしまう。信じられないと思う反面、頭から妖や幽霊の存在を笑う気にはなれないと思うのも本音だ。それがどうしてなのかと言われると、はっきりとは分からない。
「気味悪がったりはしないんですね?」
「……うん、そうは思わない。何でかな、そういう感情はないと思う」
「それは安心しました。これでここに居たくないと言われたらどうしようかと」
冗談めかした口調で告げる総司に、土方が睨み返せば総司は黙り込む。
その様子を見た悠はくすりと笑って続ける。
「でも、屯所は大丈夫なの?」
「ここは土御門の数少ない陰陽師が結界を張ってる。もっとも俺たちには分からないが……簡単に妖や化け物が近づけねぇようにはなってるから、大丈夫だ」
土方の説明に悠は庭を見やった。
来た時から思っていたが、ここは外より空気が綺麗だ。その結界があるからだろうか。
(妖、陰陽師、神隠し、土御門……)
説明されたそれを心の内で繰り返す。何かがすり抜けていくような感覚を覚えるが、やはり掴めずに零れ落ちた。
「もー、こんな話あとにしましょうよ。どのみち目にしないと中々実感なんか湧かないんですから」
「……そりゃまぁ、そうだな」
「というわけで、悠、甘味屋行きませんか?」
これまた唐突な総司の申し出に悠は、目を丸くした。