後編:カラミティ
ドクン。
ハルの胸が脈打つ。
真紅の光。
その奥から、黒い光が滲み出す。
ドクン。
もう一度。
世界の色が反転した。
足元から、無数の赤いリボンが舞い上がる。
渦を描きながら、生き物みたいに。
空へ。
風へ。
そして。
ハルを包み込む。
腰。肩。腕。髪。リボンが絡みつく。
誰かが優しく着飾っているみたいに。
黒髪がほどける。
さらりと揺れながら、金色へ染まっていく。
長く。
柔らかく。
風を受けて流れる。
続いて。
黒いドレスが形を成した。
フリル。
レース。
幾重にも重なるスカート。
絵本から抜け出してきたような可憐な意匠。
けれど、その黒は優しい色じゃない。
夜より深く、光を呑み込む闇の色。
胸元へ、大きな真紅のリボンが結ばれる。
蝶の羽のように広がる。
リボンの中央。
宝石の代わりに埋め込まれた真紅の災晶が脈打つ。
ドクン。
ドクン。
生きているみたいに。
苦しんでいるみたいに。
赤い光を明滅させる。
両腕を包むのは、黒いレースのロンググローブ。
指先まで美しく覆う繊細な装飾。
脚には、膝上まで伸びた黒いストッキング。
足元にはエナメルの小さなヒール。
戦うための装備には見えない。
どこからどう見ても。
少女のための服だった。
最後に。
一本の長い黒リボンが髪を結う。
風が吹く。
黒いスカートが揺れる。
真紅と黒のリボンが翻る。
可愛い。
綺麗。
誰もが憧れる魔法少女。
そのはずだった。
ドクン。
胸元の災晶が脈打つ。
ドクン。
まるで、その心臓だけが、まだあの日から進めていないみたいに。
瞳だけが、赤金色に輝いていた。
優しさではない。怒りでもない。
失ったものを忘れないための光。
その魔法少女は。
まるで。
誰かを失った瞬間だけを切り取って、形にしたみたいだった。
隊員の一人が思わず呟く。
「あれは、カラミティか!?」
それは希望の姿だった。
同時に。
災厄の姿でもあった。
眼下では隊員達が息を呑んでいた。
だが、そんなことはどうでもよかった。
怖い。
今も逃げ出したいくらいに。
だから、あの人を真似る。
強かった人。誰よりも前へ出た人。
笑え。
そう言っていた人。
口元だけが吊り上がる。
上手く笑えている気がしなかった。
それでもいい。
泣いている暇はない。
今だけでいい。
今だけ、怖がっている自分を押し込める。
泣きたい自分を、沈める。
胸の奥へ。
深く。
深く。
ドクン。
胸元の災晶が脈打つ。
怖い。
そう思ったはずだった。
ドクン。
その感情が沈んでいく。
ドクン。
躊躇が消えていく。
残るのはただ一つ。
――壊す。
目の前の敵を。
二度と誰も奪えないように。
カラミティが顔を上げる。
胸元へ手を添える。
ドクン。
災晶が脈打つ。
その鼓動に合わせるように、口元だけが吊り上がった。
けれど、その瞳だけは笑っていなかった。
小さな声。
「教えてください」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。
「あなたを壊せば」
上手く笑えている気がしなかった。
「返ってきますか」
屋上の縁へ立つ。
重力を無視するように。
ドォォォン!!
着地。
道路が沈む。
アスファルトが蜘蛛の巣状に割れた。
衝撃波が吹き抜ける。
隊員達が思わず身構える。
「な……」
誰かが声を失った。
目の前にいるのは味方のはずだった。
だが、助けに来た英雄には見えない。
黒いドレス。
血のような赤いリボン。
胸元で脈打つ災晶。
そして、何かを必死に堪えているような顔。
カラミティは誰も見ていなかった。
隊員も。避難民も。
ただ一人、目の前の幹部だけを見ていた。
まるで、世界からそれ以外が消えてしまったみたいに。
だが、幹部は振り向きもしなかった。
手を掲げる。
空。赤。
結晶。数百。数千。
空そのものが結晶へ侵食されていく。
カラミティは動かない。
ただ、見ていた。
管理局隊員達の顔色が変わる。
「上空反応増大!」
「まずい!」
「結界出力上げろ!!」
青白い防御結界が展開される。
幹部はそれを見上げた。
そして、ゆっくりと両腕を広げる。
『愚かな人類よ』
空が脈動する。
『我々のエネルギー資源として、その身を捧げるのだ』
赤い結晶群が輝く。
『発展の礎となれることを、光栄に思うがいい』
避難民達が顔を青ざめさせる。
隊長が吐き捨てた。
「ふざけるな!」
幹部は嗤う。
『貴様らの意思など不要だ。全て結晶へ還元する』
『文明も、歴史も、生命も』
『何もかもだ』
その瞬間、空気が変わった。
ドクン。
カラミティの笑みが消える。
脳裏。
赤い結晶。砕ける音。笑う相棒。
ガシャァン。
『半年前に回収した高適性個体も惜しかった』
隊員達が顔を強張らせる。
ポメポメの毛が逆立つ。
「やめるポム」
だが、幹部は止まらない。
『あの個体は上質だった。あと少しで完全回収だったのだがな』
沈黙。
ドクン。
胸元の災晶が脈打つ。
『実に惜しい個体だった』
ドクン。
『高い適性を持ちながら』
ドクン。
『資源として失われたのは損失だ』
ピキ。
アスファルトが割れた。
隊長が息を呑む。
「おい、まずいぞ」
ポメポメが小さく後退する。
「怒ってるポム……」
カラミティは何も言わない。
ただ、握った拳から血だけが落ちていた。
ぽたり。
ぽたり。
俯いたまま、肩だけが震えていた。
そして。
ゆっくりと顔を上げる。
笑っている。
空っぽな笑顔。
一歩、前へ出る。
「一つだけ」
小さな声。
「聞いてもいいですか」
幹部が漸く振り向く。
『何だ』
カラミティが拳を握る。
爪が掌へ食い込む。
血が滴る。
「あなた達は」
一度言葉が止まる。
赤金の瞳が細くなる。
「奪いましたよね」
沈黙。
「たくさん」
もう一歩、前へ出る。
「名前を、思い出を、大切な人を」
笑う。
けれど、その瞳だけは死んでいた。
「それなのに」
小さく首を傾げる。
「どうして」
もう一歩。
「――まだ生きてるんですか」
ドォォォン!!
地面が爆砕した。
幹部の視界から、カラミティが消える。
『――ッ!?』
次の瞬間。
ゴォォォン!!
顔面へ拳がめり込んだ。
衝突音が一拍遅れて響く。
仮面が砕ける。
結晶が飛び散る。
幹部の身体が弾丸みたいに吹き飛ぶ。
ドガァァァン!!
道路へ激突した。
アスファルトが陥没する。
巨大なクレーター。
隊員達が言葉を失った。
幹部が起き上がろうとする。
だが、目の前にはもういた。
カラミティ。
クレーターの底へ降り立ち、見下ろしている。
まるで処刑台の執行人みたいに。
『な……』
幹部が初めて狼狽した。
『貴様は……』
「もういいです」
踏み込む。
幹部が反射的に腕を振るう。
結晶刃。
空気を裂く一撃。
だが、掴まれた。
メキ。
手首が軋む。
『なっ』
もう片方の腕も突き出す。
それも、掴まれる。
「遅い」
そのまま。
ドガァァァン!!
両腕ごと近くの瓦礫へ叩き付けた。
砕けたコンクリートが跳ねる。
『ァァァッ!!』
結晶の手首が埋まる。
抜けない。
動けない。
カラミティが踏み込む。
右腕へ赤黒い光が集まる。
ドクン。
胸元の災晶が脈打った。
指先が赤黒く染まる。
爪ではない。
刃でもない。
傷口そのものを引き裂いて形にしたような光。
「中身、見せてください」
幹部が暴れる。
腕を引き抜こうとする。
抜けない。
『やめろ』
ズブリ。
『ぁ』
胸部装甲へ、右手が沈む。
『やめろォォ!!』
身体が跳ねる。
カラミティは止まらない。
さらに奥へ。
さらに深く。
探る。
侵略のため人を模して作られた身体。
骨。結晶。神経。情報線。
全部を掻き分ける。
『ァァアアアアア!!』
バキッ!!
幹部が片腕を無理やり引き抜いた。
砕けた結晶片が飛び散る。
残った腕が伸びる。
ガシッ。
カラミティの腕を掴んだ。
『やめろ!!』
メキ。
メキメキ。
握り潰すように力を込める。
血が流れる。
肉が裂ける。
それでも、カラミティは止まらない。
『やめろォォォォ!!』
メギィッ!!
限界を超えた腕が自壊する。
結晶の手首が砕け散った。
カラミティの細い腕が裂け、血が流れる。
それでも、表情は変わらない。
まるで痛みなど存在しないみたいに。
そして。
ドクン。
脈打つ感触。
口元が歪む。
「見つけた」
『やめ―』
「嫌」
ブチィィィッ!!
真紅の核が引き抜かれる。
幹部の身体が跳ねた。
『やめろォォォォ!!』
伸ばした腕が途中で止まる。
結晶線が次々と消失。
急速にエネルギーが枯渇していく。
核を見つめる。
ドクン。
ドクン。
まるで心臓。
『待て、資源となったものが返るものか』
「返してください」
『もう無い――』
ゴォン!!
核を殴る。
ビシッ。
拳の甲が裂けた。
赤黒い光と血が飛び散る。
だが、止まらない。
「返して」
握った拳から血が滴る。
「アカリを」
ゴォン!!
もう一度。
ブチッ。
指の皮膚が裂ける。
関節が悲鳴を上げる。
それでも。
「返せ……」
ゴォォォン!!
『ギャァッ!?』
核へ拳を叩き込む。
砕けているのが核なのか。
自分の拳なのか。
もう分からなかった。
小さく呟く。
怒鳴るでもなく。
笑うでもなく。
ただ、どうしようもなく悲しそうに。
同じ言葉を繰り返す。
ピシ。
空中の結晶槍へ亀裂が走った。
パキ。
パキパキパキッ!!
数百。数千。
空を埋め尽くしていた結晶群へ、一斉にヒビが広がる。
隊長が目を見開く。
「核だ!核が制御中枢だ!」
結界班が叫ぶ。
「結界維持!!」
「崩落に備えろ!!」
カラミティは聞いていない。
ただ核だけを見つめる。
ドクン。
脈打つ核。
耳の奥で、もう届かないはずの声が響く。
――生きろ。
ゴォン!!
『やめろ!』
拳がめり込む。
ヒビが走る。
もう一度。
ゴォォン!!
『私は』
ヒビ。
『幹部』
さらにヒビ。
『選ばれ』
声が途切れる。
『た』
最後の光が消える。
ガシャァァァァァン!!
真紅の核が砕け散った。
同時に、空一面の結晶群も崩壊する。
紅い雪が降った。
避難民達が思わず空を見上げる。
誰も傷付けない。
ただの残骸となって、風に乗って降り注いだ。
カラミティは砕けた核を見つめる。
沈黙。
待った。
ほんの少しだけ。
何かが起きるのを。
欠片が戻るのを。
声が聞こえるのを。
笑いながら怒鳴られるのを。
けれど。
何も起きない。
何も、返ってこない。
カラミティは瞬きをした。
一度だけ。
それだけだった。
瞳から光が消える。
何かを諦めたように。
何かを失ったことを理解したように。
静寂。
終わりだった。
誰もがそう思った。
隊長が息を吐く。
「終わっ──」
その言葉は最後まで続かなかった。
ゆっくりと。
カラミティの視線が、核から幹部へ移る。
そこにいた。
全部の元凶が。
手が伸びる。
崩れ落ちる幹部の首を掴む。
「なっ」
そして。
ドガァァァン!!
地面へ叩きつけた。
アスファルトが砕ける。
「おい!!」
隊長が叫ぶ。
「もう終わったんだ!!」
聞こえていない。
カラミティは俯く。
肩が震えている。
怒っているようには見えなかった。
泣いているようにも見えなかった。
ただ。
何かが壊れていた。
ゆらりと立ち上がる。
片足が上がる。
ドゴッ!!
勢いよく振り下ろされる。
砕けた頭部へ。
赤い結晶片が飛び散った。
「……返して」
ドゴォン!!
地面ごと踏み砕く。
クレーターが広がる。
脳裏。
―ハル!
振り向く。
顔がない。
――思い出せない。
「………返せ」
最後の一撃。
ドォォォォン!!
大地が揺れた。
衝撃波。
舞い上がる粉塵。
クレーターの中心には。
もう何も残っていなかった。
痛いほどの静寂。
カラミティは動かない。
勝ったはずだった。
敵は消えた。
結晶も消えた。
それでも。
何も返ってこない。
小さく。
どうしようもなく。
肩だけが震えていた。
赤い粒子が風に流れていく。
管理局隊員達が息を呑む。
隊長が通信を飛ばした。
「敵性反応消失!」
「医療班前進!」
「侵食者の救助を最優先だ!」
サイレン。
足音。
怒号。
現場が慌ただしく動き始める。
カラミティは振り返らない。
興味も無いみたいに。
ただ。
その視線だけが止まる。
道路脇の、一人の男性。
最初に結晶化された人だった。
右腕。肩。赤い侵食が致命的なほど進んでいる。
顔面蒼白。
呼吸も荒い。
――もう長くない。
男性は朦朧とする意識の中で空を見ていた。
赤い結晶は消えた。
怪物も消えた。
助かったのだろうか。
分からない。
身体は冷たい。指先の感覚も無い。
ただ。
コツ。
小さな足音だけが近付いてくる。
コツ。
コツ。
男性が顔を上げた。びくりと肩が震える。
「動かないでください」
声は静かだった。
けれど、怖かった。
血まみれ。
赤黒いドレス。
怪物を踏み潰した直後の少女。
とても救世主には見えない。
カラミティは右手を伸ばす。
胸元。
真紅の災晶が脈打った。
ドクン。
赤黒い光が集まる。
その奥。
沈んでいた何かが揺れた。
その瞬間。
ピシ。
小さな音。
災晶の奥から。
金色の光が漏れた。
カラミティの動きが止まる。
ほんの一瞬だけ、赤金の瞳が揺れた。
何かを思い出したように。
そして、指先から零れ落ちたのは。
赤ではなく、柔らかな金色だった。
男性が目を見開く。
「え……」
光が侵食痕へ流れ込む。
じんわりと。
朝日みたいに優しく。
パキ。
パキパキ。
赤い結晶が剥がれ落ちていく。
透明な赤色が消える。
肩。
腕。
指先。
失われかけていた血色が戻る。
男性は呆然と自分の腕を見つめた。
カラミティは何も言わない。
ただ。
その金色だけが。
昔のシャインを思い出させた。
「……シャインの光ポム」
ポメポメは知っていた。
この光だけは。
カラミティのものじゃない。
男性が目を見開く。
「……助かった」
カラミティは立ち上がる。
顔を逸らしたまま。
しばらく沈黙。
そして。
「次は」
小さな声。
「ちゃんと逃げてください」
男性が呆然とする。
カラミティは視線を合わせない。
「助けられないかもしれないので」
それだけ言う。
男性は何か言おうとした。
だが。
その時にはもう。
ドンッ!!
カラミティは地面を蹴っていた。
ビル。
屋上。
青空。
赤黒い残光だけを残して。
消える。
残された男性は、しばらくその場から動けなかった。
怖かった、だけど、確かに救ってくれたから。
■高校・屋上
着地。
ドサッ。
誰もいない屋上。
フェンス。
給水塔。
朝風。
静寂だけが広がっていた。
カラミティは数歩ふらつく。
そして。
「解除」
ドクン。
胸元の災晶が脈打つ。
黒いドレスが粒子へ変わる。
赤いリボンがほどける。
風に溶けるように。
一枚。また一枚。
消えていく。
金髪が黒髪へ戻り、赤金の瞳もゆっくりと色を失う。
最後に、胸元の災晶が砕けた光となって散った。
ハルの身体がぐらりと揺れる。
「ハルちゃん!」
ポメポメが慌てて駆け寄る。
だが。
ハルは返事をしなかった。
血まみれだったはずの拳を見下ろす。
そこに傷は無い。
血も無い。
まるで最初から何も無かったみたいに。
それでも。
拳を握ると痛い気がした。
傷は消えている。
けれど。
何かだけが残っていた。
「……っ」
呼吸が浅い。
胸が苦しい。
胃の奥が捻じれるように痛む。
気持ち悪い。
ポメポメが心配そうに見上げる。
「ハルちゃん…」
返事は無い。
ハルは口元を押さえたまま数歩よろめく。
そしてフェンスへ片手をついた。
限界だった。
「うっ……」
込み上げる。
耐えられない。
次の瞬間。
「ぉぇぇ……っ」
胃液が吐き出される。
朝食はほとんど出ない。
黄色い液体だけがコンクリートへ落ちた。
ぽた。
ぽた。
ぽた。
肩が震える。
吐き終わっても楽にならない。
むしろ苦しさは増していく。
脳裏に次々と光景が蘇った。
赤い結晶。
悲鳴。
血。
崩れていく人々。
管理局隊員達の叫び。
幹部の顔。
そして。
笑う少女。
――ほら
――笑えって
あの人の声。
次の瞬間。
ガシャァァァン。
砕ける音。
何度も。
何度も。
何度も。
止まらない。
まるで頭の中で傷口を抉り続けるように。
ハルは耳を塞いだ。
「いやだ……」
掠れた声。
「やめて……」
誰にも届かない。
届く相手もいない。
それでも言わずにはいられなかった。
あの日。
守れなかった日。
世界中で、自分だけが覚えている人。
忘れられた少女。
消えてしまった相方。
ハルはその場へしゃがみ込む。
膝を抱える。
身体が小刻みに震えていた。
そして。
ぽつりと零す。
「怖い……」
初めて出た本音だった。
「怖いよ……」
ヒーローじゃない。
救世主でもない。
ただの高校生だ。
本当は戦いたくない。
逃げたい。
忘れたい。
全部投げ出してしまいたい。
けれど。
忘れたら。
本当に消えてしまう。
あの人が。
誰の記憶からも。
完全に。
涙が一滴だけ落ちた。
ぽたり。
コンクリートへ染み込んでいく。
ポメポメは何も言わなかった。
励ましもしない。
慰めもしない。
ただ。
隣に座る。
それだけだった。
風が吹く。
遠くでチャイムが鳴った。
一時間目開始の十分前。
学校は今日も始まる。
世界は終わっていない。
だから。
ハルは震える手で立ち上がった。
ポケットからハンカチを取り出す。
口元を拭く。
それから。
鞄の脇に差していた水筒を開けた。
水をコンクリートへ流す。
吐瀉物を薄める。
しばらく見つめる。
「……すみません」
誰に向けた謝罪かも分からないまま。
深呼吸。
一回。
二回。
三回。
そして。
無理やり優等生の顔を作った。
「……よし」
声はまだ震えていた。
それでも歩き出す。
教室へ。
日常へ。
戦いが終わっても。
恐怖は終わらない。
それが今のハルだった。
■二年B組・午前八時二十分
ガラガラ。
教室の扉が開く。
朝日。
机。
黒板。
いつもの景色。
ハルは何事もなかったように入室した。
制服。
整えた髪。
無表情。
完璧な優等生。
日直用の出席簿を開く。
黒板の日付を書き換える。
六月二日。
カツ。カツ。
チョークの音だけが響く。
ハルは静かだった。
今朝、市街地で怪物が暴れたことも。
自分が結晶生命体を叩き潰したことも。
教室だけが、何事もなかったみたいだった。
しかし、空気は重かった。
誰も騒いでいない。
前方のモニター。
緊急速報。
赤い警戒表示。
窓際の男子が呟く。
「まだ終わってないのか……」
「管理局の第七班が出てるって」
「うちの親、あの辺で働いてるんだけど……」
不安。
焦燥。
緊張。
教室中が落ち着かない。
「また侵攻かよ……」
「今月三回目だぞ」
「テスト延期にならねぇかな」
「不謹慎だろ」
ハルは出席簿へ視線を落とした。
その時。
ふと。
窓際の空席が目に入る。
誰も座っていない席。
最初から存在しない席。
なのに。
一瞬だけ。
赤い髪の少女が足を机へ投げ出して笑った気がした。
―古典?
―寝る授業だろ
声だけが聞こえる。
顔が思い出せない。
ガシャァァン。
砕ける音。
ハルの呼吸が止まる。
「ハル?」
現実へ引き戻される。
クラスメイトが不思議そうに見ていた。
「あ、ごめん。聞いてた?」
ハルは微笑む。
「ええ」
嘘だった。
何も聞いていない。
授業中も。
昼休みも。
教師の声は頭へ入ってこなかった。
プリントを運び。
職員室と教室を往復する。
忙しく動いている間だけは考えなくて済む。
だが。
ふとした瞬間に蘇る。
核を引き抜いた感触。
砕ける結晶。
絶叫。
血。
視線を上げる。
廊下の窓ガラス。
映るのは制服姿の自分。
そのはずだった。
一瞬だけ。
血まみれのカラミティがそこにいた気がした。
瞬きをする。
消える。
ただの自分。
「……」
怖い。
また思う。
世界は今日も動いている。
授業も。
昼休みも。
放課後も。
何も止まらない。
置いていかれているのは、自分だけだった。
■駅前・午後五時二十一分
夕焼け。
オレンジ色。
学校帰りの学生達。
買い物袋を提げた主婦。
帰宅ラッシュ。
平和な街。
気付けば放課後だった。
何をしたのかも曖昧なまま。
ハルは一人で歩いていた。
「眠いポム……」
ハルは答えない。
■駅前・午後五時二十八分
大型モニター。
ニュース。
朝の戦闘映像。
クレーター。
管理局。
そして。
真紅と黒の魔法少女。
カラミティ。
通行人。
「また出たな」
「怖ぇ……」
「味方なんだよな?」
苦笑。
ざわめき。
その中。
ハルが立ち止まる。
朝の自分が、他人みたいに映っていた。
「だいぶ暴れてるポム」
「……」
少し視線を逸らす。
正直、自分でも怖い。
その時。
近くのベンチ。
スーツ姿の男性。
右腕には包帯。
ニュースを見ている。
そして。
小さく呟く。
「怖かったなぁ」
ハルの足が止まる。
男性は苦笑する。
「本当に」
少し沈黙。
それから。
モニターのカラミティを見上げる。
「でも」
夕陽。
風。
駅前の雑踏。
男性は頭を下げる。
誰にも届かないくらい小さく。
「ありがとう」
ハルは黙る。
男性は気付かない。
当然だ。
ただの女子高生にしか見えない。
でも。
その言葉だけは。
ちゃんと届いた。
ポメポメが見上げる。
ハルは、少しだけ。
本当に少しだけ。
笑う。
「……帰りましょう」
「ポム」
夕焼けの中。
二人は歩いていく。
誰にも知られないまま。
それでも確かに。
救えた命はあった。
ハルは歩き出す。
まだ怖い。
きっと明日も怖い。
戦いたくない。
逃げたい。
ほんの少しだけ。
今日だけは。
前を向ける気がした。
「これが噂のゲロインポム」
沈黙。
ハル、すっと立ち上がる。
「ポ?」
「……変身します」
「なんでポム?」
赤い光。黒い光。フリル。災晶。
カラミティ降臨。
「だからなんで変身したポム!?」
カラミティ、にっこり笑う。
「外に出てください」
「嫌な予感しかしないポム」
「大丈夫です」
「何がポム」
「まだ殴ってません」
「予定はあるポム!?」
「誰がゲロインですか」
「うわ面倒なやつポム」
更ににっこり。
「そうですか」
「そうですかじゃないポム」
ドクン。
災晶が脈打つ。
「その演出やめるポム」
ドクン。
「なるほど」
「話が通じてないポム」
ドクン。
「では」
「では?」
「中身、見せてください」
「怖い怖い怖い怖いポムーーッ!!」
「逃げないでください」
「絶対嫌ポム!」
「少し見るだけです」
「内臓は見るものじゃないポム!!」
沈黙。
ドクン。
「……大丈夫です」
「何がポム!?」
「死なない程度にします」
「死ぬポムーーッ!!」




