第一話 噛み跡のない牙
朝、目が覚めたとき、僕は自分が無傷であることに驚いた。
理由は簡単だ。
昨夜、確かに“噛まれた”はずだったから。
「……おはよう、僕の首」
鏡に映る自分は、いつも通り冴えない顔をしている。寝癖、隈、やる気のない目。首筋には、歯形も血も、ついでにロマンもない。
なのに、感覚だけが残っている。
じっとりとした冷たさと、甘ったるい痛み。噛まれたというより、存在を確かめられた感じ。
「気のせい、ってことにしておこう」
そう呟いて制服に袖を通す。
怪異は基本的に、信じた方が負けだ。
学校はいつも通りだった。
騒がしい教室、眠そうな教師、無意味に回る一日。世界は平和で、異常はどこにもない。
――彼女を見るまでは。
「ねえ」
昼休み、購買帰りの廊下で呼び止められた。
振り返ると、知らない女子が立っている。
いや、正確には“知っている”。
同じクラスの、影の薄い女子。名前は……思い出せない。
「首、噛まれた?」
初対面の挨拶としては、最低点だった。
「唐突すぎない? せめて天気の話とかしない?」
「天気は嘘つかないけど、あなたは嘘ついてるでしょ」
彼女は平然と言った。
目が、やけに澄んでいる。澄みすぎて、底が見えない。
「噛まれたくせに、無かったことにしてる」
「証拠は?」
「噛んだの、私だもん」
来た。
これだ。こういうのだ。
「安心して。吸血鬼とかじゃないから」
「じゃあ何?」
「ただの“歯”」
意味がわからない。
「人の心に噛みつく怪異。噛まれた人はね、自分が大事にしてる痛みを忘れようとするの」
「随分と迷惑な歯だね」
「でもあなた、忘れたがってたでしょ」
言葉が、喉に引っかかった。
図星だった。
忘れたかった。痛みも、後悔も、昨日の夜に起きた“何か”も。
「噛み跡が消えたら終わり、じゃないよ」
彼女は一歩近づいて、囁く。
「噛まれた事実が残る限り、また来る。次は、もっと深く」
「……どうすればいい?」
「簡単」
彼女は、にこりと笑った。
「忘れないこと。
それが一番、怪異に嫌われる方法だから」
その笑顔が、人間のものかどうか。
確かめる勇気は、僕にはまだなかった。
ただ一つだけ確かなのは――
この日から僕の日常は、やたらと歯切れが悪くなったということだ。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
この話は、少しずつ輪郭が変わっていくタイプの物語です。
合う/合わないは、もう少し先で分かれると思います。
よければ、もう何話か付き合ってもらえると嬉しいです。




