第二話 落ちない影
人は、失うことを怖がる生き物だ。
失ったあとより、失う「かもしれない」時間のほうが、ずっと長い。
だから彼女は、影を落とさなかった。
「……本当に、影ないね」
放課後の校舎裏。夕方の斜めの光が、僕と彼女を照らしている。
僕の足元には、ちゃんと影がある。
彼女の足元には、何もない。
「見ないでって言ったのに」
「ごめん。つい」
彼女――三年生の先輩。名前は知っているけど、呼ぶほどの関係じゃない。
ただ、同じ時間帯に、同じ場所で、同じように夕焼けを見ていただけの人。
「影がないの、怖くない?」
「怖いよ」
即答だった。
「でも、落ちたら終わりでしょ」
意味がわからなくて、聞き返そうとした。
けれど彼女は、先に言葉を続ける。
「影ってさ、本体があるからできるんだよね」
「……そうだね」
「じゃあ、影が消えたら、本体も消えるんじゃない?」
笑いながら言うには、少し重い話だった。
「私はね、失うのが怖いの。
友だちも、時間も、期待も」
彼女は校舎の壁に背を預ける。
夕日が、彼女の輪郭を曖昧にする。
「だから、影が私から逃げた。
落ちる前に、いなくなった」
「影って、逃げるものだっけ」
「逃げるよ。
危ないところからは」
沈黙が落ちる。
その沈黙すら、今にも失われそうだった。
「どうしたら、影は戻るんだろう」
「さあ」
正解なんて、知らない。
「でも」
僕は、言葉を選びながら続ける。
「影が落ちないなら、
影に頼らなくてもいいんじゃない?」
彼女は、きょとんとした顔をした。
「本体が消えない限り、影はなくならない。
……多分」
多分、が付くのが、僕の限界だった。
彼女はしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「あなた、変だね」
「よく言われる」
「影がなくても平気な顔してる」
その瞬間、足元に、薄い影が滲んだ。
はっきりしない、頼りない影。
「……戻った?」
「完全じゃないけどね」
彼女はそれを見て、少しだけ安心した顔をする。
「失うのが怖いままでも、生きてていいのかな」
「いいんじゃない」
失うのが怖いから、抱えるものもある。
彼女は礼を言って、校舎の中へ戻っていった。
夕日が沈む。影が伸びる。
その中で、僕の影だけが、
彼女のいた場所に、いつまでも留まっていた。
――落ちるのを、待つみたいに。




