序章・第一章
序章 〜予感〜
仄めく白い光。
湖は、闇の中でひたひたと沈んでいる。
夏草が、かさかさ薫った。
誰かに呼ばれた気がして、後ろを振り返る。
けれども、そこに人影はない。
空耳、だったのだろうか?
──いや、さっきのは、確かに私を呼んでいた。
名を呼ばれたのではない。心を呼ばれたのだ。
女の声を、歌を、聴いたのだ。
月は、尚も美しく輝いている。
足元は、波に濡れていた。
第一章 ~はた迷惑な案件~
「旦那様、アグナル公爵令息がお見えです。」
「公子が?」
書類を一掃し、ようやく紅茶を嗜んでいたフェレーズ侯は、その一言に目を見開いた。
「現在は、応接室にてお待ちいただいておりますが・・・・・・。」
「・・・・・・わかった。」
侯爵は残った茶をぐいと飲み干すと、黒い革張りの長椅子から立ち上がった。
(何故?何を目的に、あの小僧が?)
「ご無沙汰しております、フェレーズ侯。」
「おお、シリル公子。随分とご成長なされた。」
侯爵は、愛想笑いで返した。
「アカデミーでは優秀な成績だと聞き及んでおりますよ。」
「ご謙遜を。」
「・・・・・・。」
そう言って目を伏せた青年の名は、シリル・ド・アグナル。建国の功臣・アグナル公爵家の一人息子で、国王の甥でもある。彼は王立魔導アカデミーに通っており、その実力は王国でも五本の指に入るとさえ言われている。
応接間に、ひんやりとした空気が漂った。
執事が、こっそり様子を窺っている。
(うわぁ・・・・・・。)
胃もたれしそうになった。
王宮は今、二極化している。原因は、跡目争い。
国王は王宮内のごたごたを避けるべく、後継者の決定を先延ばしにしていた。
しかし、春先に床に伏してしまい、あれよあれよという間に第一王子派と、王弟派が形成され、王族と諸侯が真っ二つになってしまったのだった。
その第一王子派の筆頭がアグナル公で、王弟派内の主要な一貴族がフェレーズ侯だった。
「・・・・・・して、本日のご用件は?」
シリルは頬張っていたスコーンを飲み下すと、にこりと目を細めた。
「それは、貴方が一番よくご存じなのでは?」
「ほう?」
「ご子息の件ですよ。」
「!!」
(どういうことだ?それは内密な・・・・・・。)
「とっくに諸侯の間に広まっております。聞くところによると、行方不明、なのだとか。」
「!?」
(まさか、間者が・・・・・・!?)
動揺を隠すべく、公爵は紅茶を口に流し込んだ。
「げほ・・・げほっ・・・・・・。ごほっ・・・・・・。咽てしまったようだ・・・・・・。すまない。」
胸元をトントンと叩きながら、考えを巡らす。
「ごほっ・・・・・・。それで、何を知りたい?」
シリルは、窓の奥を眺めた。レースカーテン越しに、枯葉の影が降る。
「知りたい、などという興味本位の話をしているのではありません。その主旨は単純。私はとある条件と引き換えに、貴方への協力を申し出に来ただけなのです。」
「条件・・・・・・?」
「ええ。」
侯爵の前に、三本指が立った。シリルの口端がじわりと上がる。
「今から提示する三つの条件。これを呑んだなら、我が公爵家は全力を尽くし、必ずや事件を解明してみせましょう。なお、調査費用の請求は一切ありません。」
「!」
(・・・・・・恩を売りたいのか。)
「条件①、当然ながら、捜査へのご協力。条件➁、来月の貴族議会への出席。条件③、侯爵領南方に位置するテムルゲ村の譲渡。もしこの事件が迷宮入りした場合は、貴方は条件のうち➁と③は呑まなくてよろしい。・・・・・・いかがです?」
「・・・・・・。」
(?・・・・・・真意が、見えない。なぜあの村を必要とする?汚染区域を欲する意図など、どこにも無いはず。・・・・・・普通であれば。そもそも、この条件は公爵家に得が無さすぎる。)
「なぜ、テムルゲ村なのでしょう?」
「あの辺りは、魔物が巣食う荒廃した土地だと耳にしましてね。そこをノール学院生の練習場として活用したいのです。魔物退治は、魔法使いの仕事の一つでもありますから。」
(・・・・・・確かに、筋は通っている。)
ノール学院とは、アグナル公爵家が私的に運営する、未来の魔導士、精霊士、錬金術師、騎士、そして学者たちのための教育施設である。
このうち、魔導士の主な業務は、辺境での魔物退治、魔道具作り、占いなどだ。
そのため、魔導士を養成する学校で魔物退治の術を教えることは、特段珍しいことではなかった。
「・・・・・・いいでしょう。」
侯爵は静かに頷いた。
「ご提示くださった条件を呑みます。」
「よろしいのですね・・・・・・?」
「ええ。・・・・・・拒む理由はありませんので。」
シリルは双眸を眇めた。契約書には、さらさらと署名が浮かぶ。
(見間違い・・・・・・?)
フェレーズ侯は、ほんの一瞬、シリルの眼に濁水のような暗い光を見たように思えた。が、瞬きの後には全てが元通りだった。
──この時、侯爵は気づく由もなかった。これが自身にとって最幸の選択になるとは。
【アグナル公爵邸】
「・・・・・・。」
(はあ・・・・・・アルフィアスのやつめ・・・・・・。あいつが、「ベルモンドが心配なんだよぉ!お願いっ!」とか言うから、仕方なく手伝うことにしたってのに・・・・・・。・・・・・・はあ・・・・・・。)
ため息混じりに額を押さえる。
(侯爵・・・馬鹿だよな。利用されたことに気づきもしないなんて。・・・・・・さて、明日から忙しくなりそうだ・・・・・・。)
後日──。公爵邸に、一人の来客が訪れた。
「やあ、シリル♪」
「・・・・・・アルフィアス。」
その来客の名は、アルフィアス・ルオ・テスニック。この国の第一王子であり、跡目争いに巻き込まれている張本人だ。
「ねえねえ、そんなに迷惑そうな顔で見つめないでよ~。」
「“迷惑そう”じゃなくて、迷惑なんですけどね・・・・・・。」
「まーまー、そんなこと言わず!!」
シリルの口から、気怠げな吐息が漏れ出る。
傍から見ればどちらが公子か分からなくなるほど、アルフィアスは公爵邸に馴染み、寛いでいた。
「で?聞いたよ。ベルモンドの件、調べてくれるとかなんとか。」
「ええ、まあ・・・・・・。」
「あー、良かった。助かるよ!」
「・・・・・・。」
背中をバシバシ叩かれながら、シリルは今にも噴き出しそうな文句の羅列を必死に抑え込んだ。
「よかった、よかった♪ んじゃ、あとはお前に任せて、俺は公務に〜・・・・・・。」
「ダメです。みっちりとお手伝いいただきますから。」
「へ?」
そそくさと帰ろうとしたアルフィアスが振り向くと、そこには満面の笑みで額に青筋を立てるシリルの顔があった。
ついに、シリルは爆発した。
「私だって暇じゃないんですよ・・・・・・。他人に押し付けるのは結構なことですが、限度ってものを考えていただきたい。」
「で、でもさぁー、ほら、俺だっていろいろ事情があるワケだしー・・・・・・。」
「・・・大概にしろっ!!」
「ぎゃーーーーーーっ!!!!!(※アルフィアスの身に何が起きたかは、ご想像にお任せします)」
──ということで、シリルの手伝いと称して第一王子も渋々参戦し、(元来、言い出した第一王子が率先してすべき)大調査が始まったのだった。