第十五話 「タダ働き」
事務所に着くと、エドナはブレザーを脱ぎ、シャツのボタンを外した。でもシャツを脱ぎはしない。これがエドナの習慣だった。ミゲルは理由を尋ねたことがある。エドナは「服は服なんだよ」と訳の分からない答えを返した。
「私、眠るから。私のこと見てて」
これもエドナの習慣だった。
「いつも思うんだが、なぜだ?」
「迷惑?」
「見てるだけだから、迷惑ではないさ。単に理由に興味がある」
「ミゲルと私のためだよ。私は安心して眠れる。ミゲルも安心しない? 目を離した隙に私が消えるなんてこと、嫌なんでしょ」
エドナはミゲルの核心をついた。エドナが頼まなくても、ミゲルは寝ているエドナから目を離したりはしないのだ。過去の経験から。
エドナは寝椅子に横になった。すぐに胸が滑らかな上下運動を始める。ミゲルは毛布をかけてやった。
ミゲルは料理ができない。したがって、エドナを預かるときの夕食は外食となる。最初の頃は苦労した。連れて行った店はたいてい不評だった。もっと大人のお店に連れていけと言うのだ。しかし、落ち着いた雰囲気の料理店に行っても、「店員のあごひげが嫌」とか「椅子がきれいすぎる」とか「何か嫌」とか言って、エドナは満足しなかった。中に一軒だけエドナの好みに合う店があった。店名は「メトロチカ」。古びたバーで、ミゲルとエドナは他の客を見たことがなかった。
その日も、「メトロチカ」で夕食を摂った。バーの店主は老婦人で、ノンスティー・ミルという名だった。二人はノンばあと呼んでいた。
「注文は何だい?」
ノンばあは椅子から立ち上がりもしない。料理するときだけ立つのだ。あとは座って、店内に流れるクラリネットを聞いている。
「白身魚のフライ定食。それから白ワイン」
エドナがカウンターに前のめりになって言った。
「未成年に酒は出せないよ」
「俺も同じのを頼むよ。あ、ワインじゃなくてビールにしてくれ」
「だから、あんたも未成年だろう。それとももう二十歳になったのかい?」
「次の春まで酒はお預けか」
「そりゃ遠い未来の話だね」
店のメニューには本来、酒とつまみしかない。ノンばあは二人のためだけに定食を作るのだ。エドナの注文は日によって違ったが、ノンばあは完璧に対応した。魔法みたいだった。
「ノンばあ、ノンばあ。私、今日ね、校長にお叱りを受けたんだよ。屋上からお札を降らせたんだ。きれいだったなあ」
「きれいなもんかい」
「お金は汚いの?」
「誰が触ったか分かりゃしないじゃないか。それに、紙切れが食べ物と交換できるなんて馬鹿げてる。同じ価値があるわけないじゃないか」
「でも、ノンばあはミゲルからお金取るじゃん」
ノンばあがミゲルを睨む。しわがれた手を突き出した。
「お代。忘れんうちに出しとき。最近、私もボケが進行してるんだ」
「はいよ」
ミゲルは札の枚数をろくに数えもせず、掴めるだけ掴んで渡す。ミゲルはお金に困っていなかった。警部の給料は毎月入るし、探偵業も金になる。加えて、臨時収入が時々あるのだ。
「私がしたことって、やっぱりいけないことだったのかな?」
食事が始まると、エドナが訊いた。校長の説教が後になって効いてきたらしい。
「金をまくのはかまわん。人様に迷惑かけるのもかまわん。でも、父さんと母さんは大事にしな」
「どうして?」
エドナは魚のフライを大口開けて食べる。口元に黄金色のころもがついた。
「理由なんかあるかい」
「そうだよね」
そう言ってエドナはうつむいた。手を忍ばせ、ミゲルのフライを取る。
「あ、こら」
「いただき」
「真面目に説教した私が馬鹿だったよ」
意味はあったようにミゲルは思った。ミゲルでは、親を大事になんて説教はできないのだ。もう何年も親の顔を見ていないから。
食後、ミゲルは訊いてみた。
「娘や息子はいないか?」
「一人息子がおる。どこで生きとるか、分からんがな。私の中では死んだことになっとるよ」
「私が息子さんを探してあげるよ」
「いらん世話じゃ」
「ノンばあの寿命が来るまでに、絶対再会させてあげるんだ。よーし。やるぞー」
エドナはもう決めてしまったようだ。ミゲルもノンばあも折れるしかない。ノンばあは手がかりとして、一年前まで届いていた手紙を渡した。差出人の名が書いてあった。ワルン・ミル。
ノンばあにワルンの顔の特徴を教えてもらう。
「すみません。依頼料はいりませんから」
「当然じゃ。私は頼んどらん」
外はネオンがきらめいていた。通りを秋の夜風が抜けていく。紙くずや野菜の切れ端が落ちている路地を二人は進む。
「エドナ。お前のおかげでタダ働きだぞ。家族の問題はデリケートなんだ。なぜ自分から首をつっこむ?」
「きっと私が優しい天使だから」
「黙っていればな」
「ひどい」




