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花の影を慕いて  作者: 深森
終章
92/92

夕映のエピローグ

これは過去の情景である。


全てを秘めた、あの雪闇から、過去へ過去へとさかのぼり……


――26年前、九月某日。


夕陽に照らされた緑の丘陵地帯。



あの日、夕暮れの緑の丘の――道の辻に立つ木の下。


かつては夫だった人との離婚手続きを済ませたアイリスは、正統な手続きにのっとって結婚指輪を外したのであったが、指輪を持って立ち尽くすばかりであった。


『本来ならば結婚指輪をお返しするところですが……もう少しだけ、持っていても良いですか?』


そのアイリスの呟きに応えたのは……仲立ちを務めた、第三の人物。


『お気持ちは分かります。かような内容を即日ご承知頂き、感謝するばかりでございます』


辻に止まっていた馬車は、二人の紳士を乗せると、暮れなずむ道を急ぎ足で駆け出して行った。


かつては夫だった人は、馬車の窓から、辻の木の下に佇むアイリスの姿を振り返った。


しかし、アイリスは固く背を向けているばかりで、彼には、先刻までは妻だった人の最後の表情は、遂に分からないままだった。



――これで最後だからと、馬車の窓から幾度も彼は振り返ったが、彼女は、もう二度と振り返らなかった。



緑の丘の上に落ちた夕陽の影が、地形に沿ってくっきりと分かれ、まるで永遠の別れを告げる底知れない裂け目のように、また黒い海のように見えた……


*****


――数年後の、ゴールドベリ邸の庭園の一角。


いつしか、物心つき始めたルシールが、やはり自然に、見ず知らずの父親について質問した時の事。


『パパって、いけない人だったの? アンジェラのパパの……ように』


アイリスは暫し考えた後、首を振った。


『ちゃんとした紳士だったわ。遠くへ行ってしまったの……それだけなの』


そう言って、遥か彼方の空を眺めるアイリスの表情は、何処と無く寂しそうだ。


しかし、ハッキリとした憂いの影が差したのは一瞬だけの事だった。アイリスは顔を伏せて、思い切るかのように、フッと息をつく。アイリスはすぐにニッコリと微笑み、生真面目な顔をしたルシールを、振り返って来た。


アイリスは、幼いルシールを抱きしめながら、ささやいた。


『ルシールを産んだ事は、私の人生で最高の出来事だったのよ。ルシールも、大人になれば分かるわ……20歳になったら、お話してあげる』


ルシールは、少しの間キョトンとした後、母親の胸の中でご機嫌になった。


その当時、『運命』という物を思い知るには、ルシールは幼過ぎたのだった……


*****


――母親アイリスとの、謎めいた約束。


ルシールは、もう20年ほども前になろうか――と言う、そのささやかなエピソードを、万感の思いと共に回想していた。



窓枠にもたれて、ボンヤリと回想にふけっている間に、相当の時間が過ぎたらしい。


不意に、背中にショールが掛けられた事に気付き、ルシールはギョッとして息を呑んだ。


誰か居るのかと、慌てて振り返ると――


そこには、キアランが立っていた。


どうやら『事件の報告』云々と言う用件が済んで、タウンハウスに戻って来ていたらしいのである。


「い……いつ、お戻りに、なっていたんですか……」


ルシールは動転の余り口ごもっていた。キアランは呆れたような眼差しを返して来る。


「……驚かせるつもりはありませんでした。余りにも静かなので、眠っているのかと……」


キアランは暫くの間、ルシールを眺め回すと、いつものようにムッツリとした様子で付け加えた。


「日が落ちたら、あっと言う間に冷えますから」


確かに、此処の窓まで吹き渡って来る夕風は、昼間に比べると随分と涼しくなっている。初夏とは言え、昼夜の気温差は大きいのだ。


――薄手のワンピースのままだった。


ルシールは頬を染めつつ、ギクシャクと一礼し、ライラック色のショールを、シッカリとまとった。


キアランが、ルシールの隣に寄り添うように立つ。


開け放たれた窓から、暫しの間、暮れなずむ夕空と首都の街並みを眺める。夕陽に照らされた地上のストリートでは、賑やかさが続いていた。



やがてキアランが、口を開く。


「都のシーズンの後、地元に戻ったら……トワイライト・グリーン・ヒルに旅行すると言うのは、如何ですか?」


ルシールがその問い掛けの意味を考え始めていると、キアランは不意にルシールを振り返って来た。


「……二人で」


ルシールは、一瞬キョトンとして、キアランを振り返った。


キアランは何かに気付いたように、そのままルシールをしげしげと注目し始めた。ルシールは戸惑い、だんだん真っ赤になって行ったが、キアランは視線を外さない。


「浅い角度で光が入って……紫色ですね」


そして、キアランの手が自然に、ルシールの頬に触れて来たのであった。


*****


――畢竟 謎は花之影アマランタイン

雲間より洩る光の如く――

『花の影を慕いて』―《完》―


最終章までお読み頂きまして、誠に有難うございました。

ご縁のありました全ての方々に、深く感謝申し上げます。


*****


「コリント人への手紙(一)」より


アガペーは寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。無礼をせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不義を喜ばず、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。愛は決して滅びません。

……

いつまでも残るのは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。

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