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花の影を慕いて  作者: 深森
第五章 仮面舞踏会
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レスター邸…巫女と運命の影(後)

アシュコート伯爵は気を取り直すと、真面目な顔になり、目下の懸念を話題にした。


「しかし、奇妙だ……その透視能力をもってしても、ロックウェル事件が依然として謎ばかり、という状況とは。勿論オリヴィアの能力無しには、此処まで追及する事も、また出来なかったが」


「占いの類の言葉になってしまいますが。『深淵の迷宮』が広がっていて、透視しようにも難しい状態ですから……」


オリヴィアも頬に手を当てて、思案顔になる。


オリヴィアの透視能力は、現在のゴールドベリの巫女の中ではトップクラスだ。しかし、その能力をもってしても、ロックウェル事件には、『深淵の迷宮』が広がっているのだ。


卓越した透視能力を持つオリヴィアには、一期一会の軌道を描いて行く運命の星図が見えていた。ゴールドベリ一族の中でも、そこまで透視できるような能力の持ち主は、滅多に居ない。直系の者が死に絶えてしまった現在では、尚更だ。


一期一会の星図――運命の軌道を描く、星辰の階梯。


一つの大きな軌道が終わる時に、『巨星墜つ』という言い方がされて来たのは、決して妄想の産物では無い。


光明星の軌道と暗黒星の軌道とが複雑にもつれ、絡み合い、『クロノスの時』と共に無限の連関を――運命を織り成して行く、虚空の円舞曲。


「……今の時点では、まだ見えない物が多すぎますわ。雪闇の中に、多くが封印されている。謎が、記憶が、愛が、凍て付いた迷宮と化している……」


アシュコート伯爵は困惑顔だ。


「オリヴィアの、その類の話は、いつも壮大で難しいな。真相は、『深淵の迷宮』の中に封印されているという事か」


「あるいは、運命の仮面の下に。直系の最後の巫女は、『カイ』という言葉で、それを言っていたのですわ。当時の言語では、それが精一杯だったのでしょうね」



――『カイ』。虚空の無限に広がる星々の円舞曲の中に、突如として現れる、時の裂け目。歪曲、深淵の迷宮、異界、高次の欠陥、暗い傷。


そこでは、透視能力をもってしても、一切が歪んで見える。謎も、記憶も、愛も。


ブラックホールの如き『深淵の迷宮』に吸い込まれて行った事物がどうなっていったのかは、その事物自身にしか分からない。いや、事物自身にも、もしかしたら分からないのかも知れない――


第三者たる観測者は、『その瞬間』をもって、高く跳躍し昇華してしまった因縁の名残を、或いは、凍て付いてしまったかの如き暗いイメージを、ただ眺めるのみだ。



――『カイ』よ。運命の軌道を奪い、そして、また与えるものよ――



オリヴィアは思案に暮れながらも、今の時点で言及できる事のみを、口にした。


「仮面の下は別の顔。かの迷宮と化した城に住まう仮面の公爵は、仮面舞踏会の名手ですわね。私たちの知るロックウェル公ユージーンその人であるか否かは分かりませんが、決して赤の他人ではありません。浅からぬ因縁があるようですわ。奇妙な事に、ルシールの父親が不明と言う一件も絡んで来ている……私に見えるのは、そこまでです」


アシュコート伯爵は、あごに手を当てて思案し始めた。


「彼の仮面は近いうちに……いつか必ず、剥ぎ取らねばならんな」


オリヴィアは、そんな伯爵を、愛情深い眼差しでそっと見やったのであった。


――不思議な事だが、こう言う愛し方は、ライト夫人に教わったのだ。


オリヴィアは、あの25年前の冬の馬車事故の後、不思議な縁あって、長く付き人を務めてくれた若い女性を思い出していた。


*****


通称『ライト夫人』――アイリス・ライト。


状況からして、恋人ないし夫に捨てられたとしか思えない不幸な娘ではあったが、アイリスは不思議な事に、恨み言は一切口にしていなかった。納得した上での、永遠の別離を覚悟していたようにも見えたのだ。


――若き日のオリヴィアが、何もかも了解した上で、アシュコート伯爵との恋を諦めたのと同じように。


25年前の冬。


あれは、アイリスがゴールドベリ邸に運び込まれてから数日後の頃だ。


窓の外では、穏やかな雪が断続的に降り続いていた。降雪が止んだ時は、ほのかに陽射しも差して来ている。


この数日間、吹雪となって辺り一帯を襲っていた猛烈な寒気が去ったのであろう、平年並みを思わせる穏やかな降り方だ。実際、この冬の、最強にして最後の寒気だったのだ。春の気配は、すぐそこまで来ていた。


アイリスは寝たり起きたりという状況ではあったが、容体は、ほぼ落ち着いていて……その時、アイリスは、ベッドに半身を起こしていた。


金髪にアメジスト色の目をした、若い妊婦。


アイリスは生真面目な顔で、オリヴィアを眺めた。


オリヴィアは、赤ちゃんのアンジェラを抱っこしてあやしているところだ。アンジェラは、ウトウト状態で、静かにしていた。


『貴方ほどの御方が、どうして、この辺境にお住まいでいらっしゃるのですか?』


『どうしてかしら……あら、フフフ、色々あったけど……』


オリヴィアの腕の中で、赤ちゃんがムニャムニャと身じろぎした。バランスを取る為、抱っこし直す。


『……そもそもは、初恋の人を、近くで、ひっそりと見ていたかったから、だったわ』


『あの……結婚はされなかったんですか?』


アイリスは紫色の目を見張っていた。


『ええ。貴族の妻としての務めを果たせない……子供を産めない身体だったから、というのもあるわね』


長い沈黙。


アイリスは物思わしげな顔で、ゆっくりと窓の外を眺め始めた。


窓の外に見える木立の間をアイリスの視線がたゆたう。ゴールドベリ邸を取り巻く森の木立の中に、愛する人の姿を探すかのように……


『――私にも、そう言う愛し方ができますでしょうか?』


オリヴィアは思慮深く小首を傾げ、沈黙を返した。回答の無い問いだ。


『いつか、お互いに年老いた時に、再びあの人に出逢って……遠い青春の時代の、まばゆい思い出を共有する良き友として愛する事が?』


厳粛な静寂の時間が横たわった……


やがて。


アイリスは口を固く引き結び、窓の外を眺める事を止めた。


そしてアイリスは、首に掛けていたネックレスから結婚指輪を外した。


よく見るとその指輪には、『九月』を暗示する、ささやかなシンボルが刻まれている。結婚した月が、九月だったに違いない。


アイリスは、それを指にはめた――


――かつては結婚のために、これからは流転のために。


長く故郷に帰らない事を決心していたのだ。我が娘ルシールが成人し、事情を理解できるようになるまで。


アイリスは、仮面のようにピクリとも動かない、恐ろしい程に静かな顔をした。本当に運命を怨み、時に逆らう事を決心した人間は、その一瞬、そう言う顔をするのだ。


オリヴィアは、恐るべき『深淵』の底が抜けた音を……ハッキリと聞いた、と確信した。



意識もしない深層の底の底、人知を超えた言い知れぬ『何か』が荒れ狂い、過去へ、現在へ、未来へと、時空クロノスの深淵を引き裂き、我と我が身にも傷を負いつつ、禍々しい『迷宮ラビリンス』と化して行く音を――



――結婚指輪をはめている時、アイリスの手は、微かに震えていた。


その時、その手を震わせていたのは、青白いまでの修羅の炎であった筈だ……



子供まで成した相手を――エロスを交わした人生の『意義』を越えて行く事は、とても難しい。


アイリスの心が創造した『深淵の迷宮』の奥にあるもの、その恐るべき暗さ激しさ。


あれは、嫉妬し欲望する神であったか。それとも、破壊し裏切る神であったか。


ルシールの父親が今でも不明だという事実は、なおも時をすさび、裂き続ける『暗い傷』の存在を証している。20年以上と言う時を超え、『深淵の迷宮』を現出させていたアイリス本人の死をも超えて――群れなす光明星と暗黒星とを呑み込み、凶星と化し続ける『暗い傷』だ。



『カイロスの時』――『カイロンの星』――『カイ』。



オリヴィアは、あの時、『癒しの星』――流転の凶星・カイロン――となりうる『暗い傷』を抱いた『ライト夫人』になら、『花の影』にまで至る超越的な流転の軌道を、描けるかも知れないと思ったのだった……


*****


……夜の風がいっそう強くなったようだ。窓の外でざわめく木の葉影。


卓上では静かなランプの炎が燃えている。


オリヴィアは思案顔で茶を一服した。


「あれは、そういう事だったのね。仮面の下は別の顔……かつては結婚のために、これからは流転のために……」


「何の事だね?」


アシュコート伯爵が注意深く問うた。時々、オリヴィアは不意に透視状態に入り、余人には見聞きできない神秘的な領域と感応して……言葉をもたらして来る。


控えめながら注意深く長い付き合いがあって、『ゴールドベリの巫女』の不思議な特徴については、おおかた理解できるようになっては来たものの……やはり、アシュコート伯爵のような常人には、いつでも驚かされるものだ。


「現在、このような『深淵の迷宮』が存在する理由……混沌とした状況となっている大きな要因は、今は亡きライト夫人なのです」


「数年前に死亡した、女庭師?」


……想像を絶するほど遠く、深いところを見ている、宝石のような緑の目。


「アイリス・ライト自身が意図した事ではありませんけど、彼女の星の軌道が構築した『迷宮ラビリンス』……その奥にある、かの恐るべき暗さ激しさ……運命としか言いようが無いですわ」


アシュコート伯爵は腕組みをしつつ、思慮深く応答する。


「そう言えば、ライト夫人は……『未亡人』という扱いだったが。良い再婚話が来ても、遂に首を縦に振る事は無かった。ローズ・パーク相続問題が持ち上がった今、それが逆に、ルシール嬢を窮地に追い込んでしまっている筈だ……」


オリヴィアは憂い顔になった。


「忍ぶ恋こそ、まことなり……そのとおり、真実の愛とは、言い知れぬものですわね」


緑の目は、あの神秘の色を湛えている……


「エロス、フィリオス、アガペー。教会による解釈では、『性愛、友愛、神の愛』となっていますけれども。いにしえのゴールドベリ一族の直系の中では、『劫初の愛、終極の愛、超越の愛』という解釈だったそうですから」


「その解釈は初耳だ。論文に残っていれば、牧師の誰かが発見して、教会の講話で引用したと思うが……」


「魔女弾圧の時代に、地下にもぐった内容ですから」


苦笑するオリヴィアである。アシュコート伯爵は首を振り振り、ハーッと溜息をついた。


「公的な歴史からは、失われていたという訳か……」


オリヴィアは再び、窓の外に広がる春宵のさやぎに見入った。


「真実の愛。不滅の愛。アマランタイン。それは時の彼方の永遠へと超越しつつ、光明と暗黒の軌道を、流転と変容を遂げてゆくもの。劫初から終極へと至る流転。傷を負うて漂泊する神。愛の変容の軌跡。多次元のカイと荒らぶる、かの迷宮なす凶星の群れは、超越的な流転の軌道を描く。かの相は、まさしく不滅の《花の影》、アマランタイン。迷宮なす凶星、それは『いやしの星』に変容しうる流転の星。命をさやるものと命をいやすものは、基本的に同一。如何なる星々も、光明星としての側面と暗黒星としての側面を持つ……」


アシュコート伯爵は圧倒されて、ひるんでいる顔だ。


「それは、ゴールドベリ一族の叡智か……言い伝えかね?」


「地下にもぐっていた古文書の一部ですわ。……傷を負うて漂泊する神、すなわち『迷宮ラビリンス』を抱いて流転する凶星は、特別である。かの暗さ激しさ、かの深淵の牢獄の星、底知れぬ領域『カイ』、必然として、はるかに遠い超越的・根源的な場から、いやしと救済の力を引き出して来るものゆえに……」


オリヴィアは、そこで、深い溜息をついた。言葉の奔流が止まる。


「ごめんなさいね。いろいろ口走ってしまいましたわ」


「いや、実に興味深い内容だったよ」


そういうアシュコート伯爵の脳みそは、まだ混乱している状態ではあったが……


「結局、分かっているのは、これだけですわね。ライト夫人は、死ぬのが早過ぎましたわ」


「そうだな。私も、そう思う」


*****


夜は更けて行き、アシュコート伯爵が控え室を退出する頃合になった。


アシュコート伯爵とオリヴィアは、いつものように挨拶を交わす。


「ハクルート公爵が、ロックウェル公爵を刺激する手筈になっている……また明日、訪ねるよ」


部屋を仕切るカーテンを通して、アンジェラは、そのアシュコート伯爵の言葉に耳をそばだてていた。


――決行の時は近いわ……!


その夜、オリヴィアは、部屋を片付けるアンジェラを見やり、荷物の数が多過ぎる事に不審を抱いたのであった。

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