クロフォード伯爵邸…舞踏会の後の馬車と口論
スピードを上げた馬車の中は、かなり揺れている状態だ。
キアランはその揺れを意に介さない様子で、ルシールを座席に横たえ、外套を被せる。
「ドクター・ワイルドが急にねじるなと言った場所を、ねじっていますね。ナイジェル氏の体重が掛かったんですから、今は大事を取って横になって下さい」
起き上がろうとしてもキアランが止めるため、ルシールは、面目無い気持ちで横たわるばかりだ。
やがてキアランは、一層ムッツリとした顔になった。
「周りが見えないほど熱中して、ナイジェル氏と一体、何を話していたんです?」
「はあ……、実は、ナイジェル氏にプロポーズされました」
キアランは真剣な面持ちになり、ルシールの顔半分を隠していた前髪をめくった。
「承諾した?」
ルシールはキアランの鋭い眼差しに恐れを成し、口ごもる。
「その前に転倒してしまって……お返事も何も」
「実に驚きの展開ですね」
キアランは片手で面を覆い、フーッと溜息をつく。
暫しの間、沈黙が流れた。ルシールは生真面目に眉根を寄せ、思案し始める。
「この問題が長引いたら裁判になる……タイター氏の事を考えると、ナイジェル氏の話は、割と良案なのかも……」
「父親不明の問題ですか。確かに、裁判に持ち込まれると、不利に働く要素になりますね……ナイジェル氏の求婚を受けるのですか?」
「余りにも急な話なので……でも、少し考えてみようかと思って……」
「タイター問題と父親不明の問題を気にしないと言う求婚者が居るなら、その求婚は真剣に考えると言う訳ですね?」
「はあ……」
高速で走り続ける馬車が、再び、ガクンと揺れた。
ルシールは目を回し、手をアワアワと動かして、つかまる所を探す。キアランがすぐに手を差し出し、ルシールは、それにつかまったのだった。
キアランの身体能力は、やはり鍛え方が違う。揺れる馬車の中で、まったく動じていない。その手は驚くほど固く、がっしりとしていて、銃と剣を扱う事に長けた男性のものだと分かる。
――会場で先発のダンスを踊っていた時は、『失敗しないように』という思いでいっぱいで、気が回らなかったけど。
次第次第に、ルシールの内に、さざ波だつものがある。
ルシールの背中と膝裏には、キアランの腕に抱き上げられた時の感触が残っている。よく分からない感情と共に、袖口の縫製を眺め……腕の長さを眺め、肩幅の広さを辿る。
ハッと気付いた時には、至近距離で見つめ合っていた。キアランの黒い眼差しは不動の静穏さを湛えていて、ホッとするものを感じる。
ルシールは急に混乱し始めた。パッと顔を伏せてしまう。
……この怖そうな人に、ホッとするって、おかしいわ!
やがて、低い声が降って来る。
「……父親が誰なのか、知りたいと言う気持ちはありますか?」
「え、それは……何とも言えないです」
「強いて言えば知りたくはない、と?」
「いえ、知りたいとか、そういう事よりも……元々、余り話題にする事では無かったので。アンジェラのお父上が、その……問題あり過ぎるお方と言うのもあって……」
キアランは無言で眉根を寄せている。察しの良い人だ。
「母は父について、ものすごく秘密主義だったけれども……口が堅かっただけで、それは嘘つきとは性質が違うんです。私が20歳になったら、事情を話してくれる約束でした」
「五年前に死亡と言う事は……」
「あの時、私はまだ20歳の誕生日を迎えてもいなかったし。母があんなに急に状態悪化するとは、夢にも思わなくて……」
「それはお気の毒でした」
ルシールは、込み上げるものを押し隠すように目を伏せた。
――母が亡くなった、あの冬の夜の事は、よく覚えている。
ゴールドベリ邸の窓の外に見えたのは、降りしきる雪。
『あの人の目の色は、わだつみの青。あの日、夕暮れの緑の丘の上で……』
そこで、母は力尽きた。無念にも。
(命が尽きるその最期の日まで、愛した人を忘れられなかったのだ。お母様の人生は、それほどまでに尽くした愛は、いったい、何だったのだろう……)
ルシールは、にじみ出て来た涙を瞬きしてごまかしているうちに、かねてから心に引っ掛かっていた事を、不意に思い出した。
「そう言えば、祖父の事も何も知らないですわ。アントン氏は、どんな人だったんですか……?」
「彼は出不精で……テンプルトンやローズ・パークの社交界にも全く出ない人でした。年末年始の挨拶以外、会った事は無く……」
律儀に説明し始めたキアランは、そこで、不意に目をパチクリさせた。
「あ……いや、話した事は一応ある……」
キアランは、昔の記憶を思い出すままに、言葉にまとめていった。ルシールは目を見開き、熱心に耳を傾け始めた。
「寄宿学校に上がる前の夏の頃です。私は10歳だったかな……アントン氏は、その年の春に、館の庭師になっていた……」
*****
――それは、17年前の夏の、ある日の昼下がりの事だ。
まだ少年だった頃のキアランが、バラ園に近い場所にある草むらに足を踏み入れると、老人の怒鳴り声が、庭園の奥から響いて来た。
『花壇に入っちゃいかん!』
続いて、麦わら帽子を頭に乗せた老アントン氏が現れた。
キアランはビックリして振り返りながらも、アントン氏を睨む。
『柵が無いのに分かる訳が無い』
『うぐ……、バカモン! 柵はこれから作るところだ! 此処はバラ園になるんじゃ!』
ガミガミの偏屈ジジイと言う印象である。
アントン氏は一旦、茂みの中にガサガサと引っ込んだ。だが、すぐに茂みの中からガサガサと現れた。柵を作る道具を持ち出している。
『ホッ! ホッ!』
というのは、仮設の柵を打ち込んで固定する時の掛け声だ。
キアランは唖然としてアントン氏を眺めるばかりだった。
偏屈ジジイではあるが、何処かトボケたような、愛すべき箇所のある老庭師だ。キアランにとっては、ダレット夫妻よりは、ずっと好感の持てる大人。
スカスカの柵ながら一応の仕切りが出来、アントン氏は、やっとキアランを振り返り、ジロリと眺め回した。
『何処かで見たと思ったが、リドゲート様か……庭の端まで来て、訳の分からん事やっとるから……』
キアランは乗馬用の鞭を振るって、庭木をメッタ打ちしていたのだ。子供だったと言う事もあり、キアランはムシャクシャした気分を抑え切れなかったのである。キアランは、不意に恥ずかしさを感じて素早くそっぽを向き、口ごもった。
『母が病気で……』
『……母親? クロフォード伯爵夫人……?』
アントン氏は奇妙な眼差しでキアランを見つめた。そして次には、やはり奇妙な表情をしたまま、頭に被っていた麦わら帽子に手をやり、黙り込んでしまったのだった。
その年の夏、クロフォード伯爵夫人は重い病を患っていた。余命数ヶ月であろうと言う状態であった。
*****
じっと耳を傾けていたルシールは、目を見張ってキアランを見上げた。
「リドゲート卿のご母堂も、病死されていたのですか?」
「私が寄宿学校に行く直前の頃に亡くなりました。領内の各種混乱の対応で、色々と苦労したと言う事もあったと思います」
キアランは暫しの間、目を伏せていた。
「アントン氏はその後、古くて荒れていたバラ園の一角に私を連れて行き、小型ハサミを持たせて、めぼしいバラの花を集めさせました」
「……?」
「アントン氏は、小さなバスケットに、私が集めたバラの花を詰め込んでいきました。ブツブツと呟きながら……ほとんどは聞き取れませんでしたが、『フラワー・アレンジは娘の方が上手なんだが』と言うようなことを」
はたと気付き、息を呑むルシール。
「母の事……!?」
「彼女が実は生きていた事を考えると、実に意味深な言葉であった訳ですね」
キアランも、『我ながら抜かった』という様子で頭に手をやっていた。やがて、フーッと息をつく。
「……アントン氏は、『御曹司どのからって事で奥方様に持って行ってくれ』と言って、花を詰め込んだバスケットを渡して来ていました。『この辺はもう整地するんで、最後のバラの処理に困っていたからな』と付け加えて」
「……祖父がそんな事を……」
「その時、館の正面玄関に、あわただしく馬車が横付けされて騒がしくなり……ダレット夫人と、治安判事になったばかりのプライス氏が、いつもより大声で口論していたせいですね。プライス判事はダレット夫人を問答無用で退去させようとしていて、ダレット夫人がそれに抗議する形で……アントン氏は……」
キアランは、不意に沈黙に落ちた。
――アントン氏は、何があったか気付いたのだろうか?
浮上して来る、謎と疑惑……
*****
……当時、ダレット夫人はまだ30代前半と若く、金髪碧眼の絶世の美女というべき容姿を維持していた。
あからさまに――豊かな胸元や腰の形を強調する方向で――着飾っていた。
病床にあるクロフォード伯爵夫人を一顧だにせず、ダレット夫人は真っ直ぐに執務室に向かった。クロフォード伯爵の腕の中へ飛び込もうとしていた。蠱惑的な香水の匂いを振りまきながら……
『新しいクロフォード伯爵夫人が必要なのでしょう? わたくし以上の適任が居るかしら? 閣下が望むなら、わたくし、いつでもレオポルド殿と離婚してまいりましてよ……』
*****
……キアランは沈黙したままだ。
訳の分からないルシールは、そんなキアランを見つめるのみだ。
「リドゲート卿?」
「あ……いえ、何でもありません」
キアランはルシールから視線をそらし、思案顔で馬車窓の向こうを眺め始める。
「……その後は、アントン氏と直接に話す事は、もうほとんど無くなっていたと思います。その年の秋に寄宿学校に入学しましたし、地元に帰るのは学業の休暇の間だけでしたから。卒業した後も、父に従って都と地元とをシーズンごとに往復していて……アントン氏と顔を合わせるのは、さっきも言ったとおり、年末年始の挨拶の時くらいでした」
キアランは息をつき、ルシールの方に視線を戻して来た。
「多少なりとも、話せる内容があって良かった」
ルシールは目をパチクリさせて、キアランを見上げる。
横たわってランプの光を『あの角度』で受けているため、ルシールの目の色は、宝石のようなアメジスト色だ。
キアランは、ルシールの目の色を、ひたと見つめていた。
「私の事を余り怖がっていないらしいですし、その紫色の目をじっくりと鑑賞できましたから」
ルシールはドキリとして目を見張り、息を詰まらせた。
(最初の頃、自分が怖がっていた事は、しっかりバレていたんだわ!)
ルシールは居たたまれない気持ちでいっぱいだ。真っ赤になって外套の下に潜り込んでしまう。
何故なのかは自分でも分からないけれど、他にも何か、知らないうちにバレた事があるんじゃ無いか――別にヤマシイ事は無い筈なのだが――と思うと、オタオタしてしまうというか、落ち着かなくなる。
「私の目の色は、茶色ですが……」
再び、馬車が大きくガクンと揺れた。
ルシールは再び座席から落ちそうになって、アワアワする。そこへキアランの手が伸びて来て、ルシールを座席の上に安定させたのだった。
馬車の連絡窓を通して、若い御者の元気な声が入って来る。
「道路が荒れてます。少し揺れますんで、つかまっててくださーい」
外套の下に潜り込んでしまったルシールには、キアランが、その時どんな顔をしていたのかは、結局、分からないままだった。
*****
馬車がクロフォード伯爵邸の正面玄関の扉の前に到着した。
夜はとうに更けていたが、ローズ・パーク舞踏会からの帰還にしては、早すぎる時間だ。
慌しく帰って来た馬車に驚いて玄関に出て来た執事とベル夫人は、キアランがルシールを抱き上げたまま玄関に入って来たのを見て、『これは一体どうした事か』と、もう一回驚く羽目になったのであった。
それでも、有能極まりない執事とベル夫人は、キアランから短い説明を受けただけで、大体の事情を察したようである。
「湿布を用意いたしますので、食器室に」
早速ベル夫人は、玄関広間の隣の部屋――食器室へといざなったのだった。
食器室もまた、クロフォード伯爵邸の他の部屋と同じように、相当のスペースを誇っている。ルシールは感心してポカンとするのみだ。
ずらりと並んだ厳重な鍵付きの食器棚には、銀食器から陶磁器まで、様々な種類の食器が整理され収納されている。奥には、暖炉を改造したと思しき小型のキッチンがあり、ヤカンが幾つか鎮座していた。
ルシールは、キッチンの前にあるカウンターテーブルの椅子に座らされた。テーブルの上には、装飾の無い簡素なティーセットが並んでいる。スタッフたちは此処でお茶休憩をしているようだ。見ようによっては、カフェのカウンター席とも言えそうな構造と雰囲気を持っている。
やがて、ダレット夫妻を乗せた四頭立ての金縁の大型馬車が、重量感のある車輪音を轟かせながら、館の正面玄関の扉の前に荒々しく停車した。
「ダレット方の馬車が……!」
「予想通り」
前庭ロータリーに面した食器室の窓から外を窺い、執事は驚いていたが、ベル夫人は冷静にうなづいていた。
「予想通り?」
訳が分からないまま呆然としているルシールの目の前で、ベル夫人はキアランと執事を素早く玄関広間に出し、食器室のドアをサッと閉めた。文字通り、あっと言う間の早業だ。
次の瞬間、正面玄関の扉が、バターンと音を立てた。
食器室の中まで響いて来る大音響。ルシールは飛び上がった。
「キアラン君! 一体どういう事なんだね!」
「何の事です? レオポルド殿」
「ごまかすな! 娘アラシアに対して、よくも非道な仕打ちを!」
レオポルドの大声は、食器室のドアを通して、中に居るベル夫人とルシールの所へもガンガンと響いている。キアランの、良く通る声も同様だ。
ベル夫人は冷静に湿布を用意していたが、初めてこの事態に遭遇する羽目になったルシールは、レオポルドの凄まじい剣幕に、ただひたすら真っ青になるばかりだ。
レオポルドの怒鳴り声が続く。
「大体、貴様はなっとらん! 親族中の評判は地の底に落とす! 我々夫妻からは一つ残らず奪う! 何と言う面汚し! 貴様は所詮、法律上の嗣子に過ぎんのだぞ! ……この、成り上がり者めが!」
キアランの無言が続く。
「これ程に強欲、かつ、傲慢で冷酷な男が、爵位を継ぐとは……混乱は必至だ! 先日と来たら、レナードを脅迫したと言うでは無いか!」
不意にキアランの声が入った。
「正当に立ち退きを要請しただけです。レナードは、それ程の不始末をしたので」
「レナードに限って、不始末などある筈無いでしょう!」
「よくも、下賤の成り上がりのくせに、貴族の血筋のレナードを呼び捨てにしたな! あの馬鹿げた禁止事項など無意味だ!」
ダレット夫妻は聞く耳持たずで、ギャアギャア喚き始めた。言葉が重なって、何を言っているかも分からない状態だ。
「口を閉じたまえ、ダレット夫妻!」
キアランの声が鞭のようにしなった。次いで、水を打ったような静けさ。
「私の方からは、復活祭の時の決定を見直す可能性は、一片たりとも無い。ダレット家の財務状況も逐一監視していましたが、また借金が増えていますね。銀行口座の利用上限を再度引き下げるように通達を出しましたから、承知しておいて下さい」
「そんなバカな!」
「ふざけやがって! ふざけ……!」
ダレット夫妻は、怒りの余り物も言えない状態になっている。ピリピリとする静寂が続いた。
「……、チクショウ、確かめてやる! あの下賤な商売女を、何処に隠してるのかもな!」
二組の乱暴な足音が、ドタドタと玄関広間から離れて行った。
やがて、執事とキアランの足音と思しきものが、コツコツと続き、消える。
一刻の後。
静かになった玄関広間で、隣り合う食器室のドアが、ゆっくりと開いた。
ベル夫人が、すっかり青ざめてしまったルシールを伴って出て来る。
「ドアが完全に閉じていなくて、不愉快な事をお聞かせしてしまいまして……いつもの事でございますが」
ベル夫人は冷静だ。すぐに、執事が音も立てずに滑らかにやって来た。
「ダレット夫妻のあら捜しが一段落しまして。今、安全に部屋に入れる状態ですから。鍵はロックしておいてください」
執事とベル夫人に促され、ルシールは、急ぎ足でルシールの部屋に向かった。
ルシールはベッドに横になった後も、疑問で一杯のまま、なかなか寝付かれなかった。
――先刻の口論は、一体どういう事なんだろう。
クロフォード伯爵宗家の堂々たる跡継ぎである筈のリドゲート卿が、『法律上の嗣子に過ぎない』と罵られたのもビックリだ。血統を除いては、評価できる部分が全く無いと言う意味なのだろうか?
そして、それ以上に、アラシア・ダレット嬢の婚約者、すなわち将来の義理の息子となるリドゲート卿に対しての、ダレット夫妻の余りにも強圧的な振る舞いが、どうにも納得が行かない――




