メイドはかく語りき(後編)
翌朝、お茶の準備をしながらあくびをかみ殺すわたくしに、レティツィア様は申し訳なさそうな表情でおっしゃいました。
「昨夜はごめんなさい。それに……なんだか気を使ってもらってしまって」
あくびが見えない角度を確認したつもりだったのですが、どうにもばれてしまったようです。以後、気をつけなければ。
今日は全ての予定をキャンセルいたしましたと朝一番に申し上げると、レティツィア様は大層驚かれました。
今日は礼儀作法とダンスの授業が入っていただけで、どこかお出かけになるような予定は入っていませんでした。もともと真面目で努力家でいらっしゃるので、一日位授業が遅れたところでたいした違いはありませんでしょう。
「いいえ、お気遣いなさいませんよう。主の体調管理も私の仕事の内でございます。今日はゆっくりと疲れをとってくださいまし。昨夜はお眠りになれましたか?」
そう尋ねると、レティツィア様はこくりと頷かれました。
「はい。おいしいホットミルクのおかげで」
お優しいお言葉にわたくしはにっこりと微笑みながら、お茶をお出しします。
テーブルの上に並べられたいつものお茶のセットにはなかった蜂蜜の容器を見つけて、レティツィア様が目を輝かせました。
「蜂蜜だわ」
「お好きでいらっしゃいますか?」
「はい」
嬉しそうに微笑んで、レティツィア様はカップに蜂蜜をスプーンでお入れになります。一杯、二杯、三杯……ちょ、まだお入れになるんですか? わたくし、見ているだけで胸焼けがしそうです。
お茶の味が残っているのかしらと心配になるほど大量の蜂蜜を投入し、レティツィア様はにこにことおいしそうにお茶を飲まれます。
昨夜のご様子から、蜂蜜がお好きなのではないかとあたりをつけてお出ししてみましたが、どうやら正解のようです。茶葉をとっかえひっかえしていた今までのわたくしの苦労はいったい何だったのでしょう。お砂糖は毎回一緒にお出ししていましたが、お砂糖ではだめなのでしょうか。新たな謎がひとつ出来てしまいました。
なにはともあれ、問題がひとつ解決したのです。これは大変喜ばしいことでしょう。
「蜂蜜が必要であれば、いつでもおっしゃってくださればご用意いたしましたのに」
少しの落胆を込めてそう申し上げると、レティツィア様は頬をほんのりと染めて俯かれました。
「その……蜂蜜がないと飲めないなんて子どもみたいで恥ずかしくて……。それに、わがまま言っちゃいけないかと思ったんです……けど……」
なんと謙虚なお方でしょう。王子殿下のお妃さまとなられるお方が蜂蜜ごときをご所望になることがわがままだなんて!
このようなお方だからこそ、わたくしは誠心誠意、お仕えしたいと思うのです。
「わたくしはレティツィア様がこのお屋敷にいらっしゃってからずっと、お好みのお茶を探し続けておりました。いつかレティツィア様においしいお茶を飲んでいただこうと心に決めていたのですわ」
そう申し上げると、レティツィア様は大きな灰色の瞳をぱちりと瞬かれました。
「あ、えっと……その、おいしくなかったわけではないんです。ごめんなさい」
反射的にそう口にしたレティツィア様に、わたくしは首を振りました。
「気を使ってくださってそうおっしゃいますが、いつも一口だけであとはお残しになられます。ですので、わたくしは熱いものや冷やしたもの、茶葉も様々なブレンドを揃え、その都度お出しするお茶を変えていたのですが、本日判明いたしました。レティツィア様はお茶には蜂蜜を入れるのがお好きなのですね」
「そんなことを……、ごめんなさい、気付かなくて」
レティツィア様はしょんぼりと肩を落とされました。
「いいえ、お謝りになられることではありません。お顔をおあげになってください」
そう申し上げると、レティツィア様は少しだけ気まずそうにお顔をあげられました。
「甘いものは……心が落ち着くんです。森にいた頃はお茶に蜂蜜をたっぷり入れて飲んでいたので、その癖が残っていて」
「明日からは毎日ご用意いたしますので、気兼ねなくお使いください」
「ありがとうございます」
良いお返事にわたくしはにっこりと微笑みました。
「レティツィア様。このように、理解をしようとする者にはおのずと正解が見えるものでございます」
レティツィア様は不思議そうにわたくしを見上げられました。艶のある美しい黒髪が背中でさらりと流れて音を立てます。
「他には例えば……わたくしにはレティツィア様が王子殿下をたぶらかしているようには到底見えません」
レティツィア様のもの言いたげな視線を受けとめながら、わたくしは続けました。
「わたくしの主は、お優しくて生真面目で一生懸命で。使用人にすら気を使ってしまって、言いたいことも飲み込んでしまわれて。人の事にはよく気がつくのに、ご自分のこととなると途端に不器用になってしまわれる。――そんな方が、王子殿下をたぶらかして玉の輿に乗るなんて器用な真似、お出来になるとは思えませんもの」
言葉にして並べると、それは確かにレティツィア様のご気性を正しくあらわしていて、思わず笑いがこぼれました。
「わたくしは主の事を理解したいと及ばずながら日々努力しております。そうして毎日ずっと拝見しておりますと、これぐらいのことはわたくしごときにもわかることでございますし、もっともっと理解したいとも思います。逆に、庶民の小娘だ、血筋がどうだと、外的要因だけに目を留めてそれ以上の理解をしようとしない者には、その本質は分かりません」
レティツィア様の美しい瞳が少し潤んで、そこに映るわたくしの姿がゆらりと揺らぎました。
「レティツィア様、本当に王子殿下のお側に必要なのは、どういう方々でしょうか? そうやって理解しようとする努力もせずに、外側から物事を見て口さがなく騒ぎたてる者が、王子殿下のお側に必要でしょうか。いかが思われますか、王子殿下?」
わたくしが振りかえって扉の方へ問いかけると、かたんと扉が開いて柔らかな声が甘く響きます。
「私に必要なのはレティだけだよ」
「!」
王子殿下の突然の登場に、レティツィア様が驚いて立ち上がられます。拍子にがたんと椅子が音をたてました。
「き、聞いて……!」
レティツィア様のお顔がみるみる赤く染まっていきます。王子殿下はにこにこと微笑みを浮かべながらこちらに近づいていらっしゃいます。
「ああ、全部ね。あなたが私の名誉のために伯爵家のご令嬢と戦ってくださった件も」
「たっ、戦ってなんて! あれは……、その、私が勝手に腹を立てただけです。大人げないことをしたと反省しています」
複雑な表情で視線を彷徨わせながらぼそぼそとそうおっしゃるレティツィア様の前に立つと、王子殿下はたいそうしまりのない笑顔をお浮かべになりました。
「反省? どうして? 私はこんなに嬉しいのに」
王子殿下はレティツィア様の右手をそっとおとりになると、優雅な身のこなしで手の甲に口づけられました。
「あなたはまだ分かっていないようだ。あなたをたぶらかしているのは私の方なんですよ」
ますます赤くなるレティツィア様を見て吐息のような笑いを洩らすと、王子殿下の腕がレティツィア様の腰に回り、そっと抱きしめられます。
恥ずかしさのあまり硬直するレティツィア様の耳元で王子殿下は悩ましげにささやかれました。
「だから――早く、堕ちてきてください」
レティツィア様は王子殿下の腕の中で耳まで真っ赤にしていらっしゃいます。表情こそ見えませんが、抵抗なさらないあたり、まあきっとお嫌なわけではないでしょう。
それにしても、わたくしの存在忘れていらっしゃいますね?
……いえ、いいんです。おふたりが幸せであればそれで。
ですが、その、それ以上のことを始められても困ってしまいますので、野暮とは思いましたが、わたくしはごほんと咳払いをして存在を主張いたしました。
「ああ、そういえば君もいたのか」
やにさがった王子殿下の笑顔にわたくしは思わずため息をつきました。
「王子殿下。レティツィア様は不安に思ってらっしゃるのです。ちゃんと王子殿下にとってレティツィア様がどんなに大切なものか、ご説明して差し上げてください」
じっとりと王子殿下を見つめてそう申し上げると、王子殿下は肩をすくめて小さな笑いをこぼされました。
「わかってるよ。まったく君はレティには優しいのに、私には厳しいな」
「わたくしの主はレティツィア様ですから」
顔を真っ赤に染めたレティツィア様を腕の中に閉じ込めたまま、おどけるようにおっしゃった王子殿下にぺこりとお辞儀をして、わたくしは部屋を後にしました。
廊下に出て扉を閉めると、扉の脇の壁にもたれるようにして王子殿下の従者、マルコ様が立っておられました。
「あら、マルコ様」
そう呼びかけると、無表情のマルコ様がちらりとわたくしの方へ視線を投げかけました。
目つきの悪さとその無表情さから、少し近寄りがたい雰囲気を醸し出されるお方ですが、表情が表に出ないだけで、悪い方でも怖い方でもないとわたくしは知っています。身分も違いますし、特別親しいわけではありませんが、長くこのお屋敷で働いていれば、それくらいのことはわかります。
わたくしはマルコ様に向き合うと、深々とお辞儀をいたしました。
「わたくしのわがままを聞いていただき、ありがとうございました。おかげさまで、うまくまとまりそうですわ」
昨夜、自室に戻る前に寄ったのはマルコ様のお部屋でした。レティツィア様のことをご報告申し上げ、お忙しい王子殿下と話し合う時間をお作りいただくよう、お願いにあがったのでございます。
深夜に男性の部屋を訪れることに抵抗がなかったわけではありませんでしたが、何とかしなければならないという使命感と、マルコ様に限って無体な真似はなさいますまいという打算が勝り、決行してしまいました。
結果全てはこともなく、こうして丸く収まりそうな気配でございます。
よかったよかったと胸をなでおろすわたくしをじっと見下ろすと、マルコ様はぽつりとひとことおっしゃいました。
「……貸し」
「え? ああ、そうですわね」
お礼は申し上げましたが、それだけでは十分ではありませんでしょう。わたくしなどには想像もつきませんが、お忙しい王子殿下の時間をあけるなどと、きっと難しいことに違いないのですから。
わたくしは長身のマルコ様を見上げてにっこりと微笑みかけました。
「お礼と申しましても、たいしたことはできませんが、わたくしにできることであれば何でもいたします。なんなりとおっしゃってくださ……っ」
言葉の途中で顔に影が落ちて、近づいてきたマルコ様の顔に驚いた瞬間。
……はっ!?
な、何かが唇に触れたような気がするのですが!!
一瞬のふれあいの後、すぐさま離れて行ったマルコ様の顔は相変わらず無表情で、わたくしは短い間に夢でも見たのかと思いました。
けれど、夢ではないぞと思い知らせるように、マルコ様のいつになく強い視線がわたくしを射抜きます。
「これで、相殺」
マルコ様は今までに聞いたことのないような声音でそうおっしゃって、くるりと背を向けて悠々と去って行かれました。
……………………なんですか、今の!?
今さら腰が抜けて、へなへなとわたくしはその場に座り込みました。
顔に熱が集まって、熱くなった頬を両手ではさみこみます。
ああ、頭がぐるぐる回るようで考えがまとまりません。
いったいぜんたい、どういうおつもりで?
混乱する思考の中で、ひとつだけ確かなことがありました。
わたくし、固く心に誓います。
もう二度と、いかなる事情があろうとも、深夜にマルコ様のお部屋を訪問することだけはいたしますまい、と。
* * * * * * * * *
やがて冬の寒さも徐々に和らぎ、春を迎えたうららかな佳き日。
第五王子殿下とレティツィア様の婚礼の儀が無事に執り行われました。
色とりどりの生花で飾った艶やかな黒髪が純白のドレスに映えて、レティツィア様はたいそう美しいお妃さまとなられました。礼儀作法なども貴族の方々に比べて引けを取らないほどに習得なさっておられ、もはやこのご結婚に異議を唱える者など、この国にはおりますまい。
王子殿下は貴公子然としたたたずまいで、相も変わらず嫌味なほど完璧でございましたが、たまに見せる鼻の下の伸びただらしのない笑顔だけはおやめになった方がよろしいかと存じます。いくら美形でも正直キモいです。
……え?
マルコ様とのことですか?
それは聞かないでください。
あれは犬にでも噛まれたのだと思って忘れることにしたのです。
それをマルコ様ときたら……っ。
ああでも、わたくしに言えることがあるとすれば、わたくしは七つも年下の男性は好みではありませんし、わたくしの生きがいは仕事しかないということですわ!
……失礼。取り乱してしまいました。
とにかく、おふたりははれてご夫婦とおなりあそばしたということです。
ですが、結婚とは通過点に過ぎません。むしろ、これからの人生の方が長いはずです。
結婚後に起きる問題と言えばいろいろあるのは周知のことでしょう。
一般家庭でも何かと問題は起こるものです。その上何かと面倒なしがらみのある王族ともなれば、そのご苦労はいかほどのものか、わたくしなどには想像もつきません。
それでも、目の前の仲睦まじいおふたりを拝見しておりますと、きっとどんなことも乗り越えてしまわれるのだと思えてなりません。
だっておふたりの幸せを心から願うわたくしたちがお側におりますもの!
きっとシンデレラにもそういう人物がいたのでしょう。
今ならそう思えます。
これは紛うかたなきシンデレラストーリー。
途方もない玉の輿の成功譚なのですから。
深夜に突然訪ねられて期待に胸を膨らませたというのに、生殺し状態で終わったので、これくらいの役得があっても罰はあたらんだろうとマルコは思ったとか思わなかったとか。
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