第11話 女流初段
天宮女流は何も言わず、盤面へ目を戻した。
一筋の歩を取らせたまま、反対側でも歩を差し出す。これで九筋の歩まで取られたら、俺は二枚も歩を損したことになる。
まぁ、それぐらいは俺だって分かっている。
そういう顔をされても、指し間違いではないぞ。
天宮女流は少し考えてから、九筋の歩も取った。△同歩。
俺は今度こそ一筋へ手を伸ばし、▲1四飛と歩を取る。彼女は△同飛と三四の飛車で俺の飛車を取り、俺は▲同香と香車で取り返した。
お互いの玉は、まだ最初の位置にいる。金銀も動かしていないのに、互いの飛車だけが相手の手へ渡ったのだ。
天宮女流は手に入れた飛車を、俺の陣地の一九へ打ち込んだ。△1九飛打。
さっきまで俺の香車がいた場所だ。
すぐ横の二九には桂馬がいる。そして、その飛車が一筋をまっすぐ進めば、前へ出た香車も取れる。桂馬と香車の両取りである。
歩を二枚も捨てて、ようやく飛車を交換したと思ったら、今度は駒を取られる。普通に見れば、俺の仕掛けは失敗だろう。
だけど、ここに飛車を打たれることは、最初から分かっていた。
俺は桂馬と香車をそのままにして、取ったばかりの歩を九二へ打った。天宮女流の香車のすぐ前だ。
▲9二歩打。
自分の歩がある筋に、もう一枚歩を打つことはできない。九筋に俺の歩が残っていたら、この手は指せなかった。
だから、先に取ってもらったのだ。
彼女がこの歩を香車で取れば、その後ろの九一が空く。▲9一飛打。そこへ打ち込む飛車は、もう俺の手元にある。
そっちの香車にも、少しどいてもらおう。
天宮女流は、今度は俺の顔を見なかった。盤の左端を見たまま、口を結んでいた。
◇
そこからしばらく指し進め、ようやく天宮女流の玉を追い詰めた。こちらの玉もずいぶん追い回されたが、何とか捕まらずに済んだ。
仕掛けまでは知っている手順だったのに、結局こんなに考えさせられるとはな。
さて、もうこの場面は必至。いちばん粘られても、次の俺の手から25手で詰みだ。勝負は決まったな。
勝てたのはいいけど、この疲れ方はちょっとな。俺の残り体力は一割ってところだ。
座布団の上で座り直しても、どうも身体がしゃんとしない。
元奨励会員、流石に強かった。……でも、この体力じゃ小学生名人戦で勝てるか少し不安だな。
なぜなら、彼女より強い小学生が普通にいるのだから。
天宮女流は、唇を噛み、盤面を凝視している。ここで長考に入った。
俺の読みでは、もう受けがない。どうにか詰みを逃れられないか、計算しているんだろうか。
でも楽しかったな。将棋教室には通えないし、ネット将棋も使えない。こんな強い人と指せる機会は、なかなかないのだ。たまにはこうして指さないと、腕が鈍ってしまう。
暇になった俺は小さく伸びをした。肩がずっしり重い。
周りを見渡すと、さっき俺を膝に乗せてくれた女子高生が、いつの間にか観客に交じって盤上を見ていた。その向こうには、塚口の象徴ともいえる赤い観覧車が見える。
俺はニッコリ笑って手を振った。だけど、なぜか彼女の顔は引き攣っている。それでも手を振り返してくれた。なんか、怖がられている気がするな。
俺は笑顔が素敵なだけの、無邪気な小学生なのに……。
俺が女子高生とアイコンタクトをとっていると、パチンと強い音がした。
そちらを見ると、天宮女流と目が合った。この人怖いんだよなぁ。
少しよそ見しただけのつもりだったんだけど。
盤面に目を戻す。おっ、彼女が選んだ手は21手詰めの方だな。俺は素早く、駒を打った。
そして、もう一度女子高生を探す。だけど、いつの間にか彼女はいなかった。
美人さんだったから名前を聞いておきたかったんだけど。
まぁ、どうせ会えるか。あれくらいの棋力があれば。俺たちは将棋で繋がっているんだから。
――パチン、パチン。
俺と天宮女流は、指し合いを続ける。そして、
「負けました」
彼女は駒台に手を翳しながら頭を下げた。
俺も慌てて頭を下げる。そして、お礼を言って椅子から降りる。
また会えるとは思うけど、せっかく今日会えたんだからな。俺はあの可愛くて将棋の強い女子高生から、名前とポケベルの番号を聞き出さなければならないのだ。
名前も番号も、紙に書いてもらっておこう。数字を一つでも覚え違いしたら困る。
「ねぇ……」
俺が駆け出そうとした時、後ろから天宮女流に声をかけられる。
「あの7二銀、どう受ければ良かったの?」
あそこからの受け方を聞かれてもな。変えるとしたら、もう少し前の手だ。
「えっと、7二銀の時にはもう受けがありません。その五手前、僕の7四桂を7三銀で受けたところです。6二銀から25手詰めです」
じゃあ、急いでいるんで。そう言って俺は記念対局の席を離れた。後ろから何か物音がした。
だけど、俺はそれどころではなかったので、聞かなかったことにした。




