第1話 プロローグ
薄暗い部屋の中に、マウスをクリックする音だけが響いている。
男は机に肘をつき、傾いた身体を支えていた。モニターに青白く照らされた頬はこけ、襟元からは、浮き出た鎖骨が見えていた。
それでも、目だけはぎらぎらと画面上の盤面を追っている。
将棋というのは不公平なものだと、男は思う。
俺はこんなに愛しているのに、向こうは俺のことなんて歯牙にかけていない。
高校竜王戦で優勝した時に、関係者に言われた言葉が今でも頭の中に残っている。
『惜しいな……。もっと若ければ』
その時、俺は18歳だった。
その年齢から将棋のプロを目指すのは遅すぎるらしい。奨励会の入会制限は19歳までだということを知った。
仕方ないじゃないか。俺が初めて将棋を知ったのは、高校生になってからだった。
母は必死に働いて、女手一つで俺を育てていた。習い事をしたいなんて、言い出せなかった。
少しでも母を楽にしたくて、俺は勉強ばかりしていた。将棋盤すら、見たことがなかった。
「仕方なかった……仕方なかったんだよ」
そう思うしかなかった。
俺は奨励会には入らず、大学へ進んだ。それでも、プロになるつもりだった。
大学将棋で無双した。誰も俺に勝てなかった。
そして、オープン大会でプロ棋士と戦った俺は……無惨に敗北した。
相手は有名な棋士ではない。順位戦のC級でくすぶっている相手だ。その相手に、手も足も出なかった。
『まだまだ伸びますよ。気を落とさないでくださいね』
俺に難なく勝ったプロに、そう褒められたのが本当に辛かった。将棋ファン相手の、普及のための言葉にしか聞こえなかった。
「あぁ、将棋をもっと早く知っていれば」
どうして俺の頭は、こんなに出来が悪いんだろう。
せめて子供の頃から将棋を指していれば、脳を将棋だけに最適化できたかもしれない。
例えば、目隠しをしたまま、何人もの相手と同時に指せる棋士がいるという。
脳の中にある将棋盤で将棋を指せるから、視覚情報は不要ってことらしい。
試してみたけど、俺には一局だって無理だった。
もっと早く将棋を始めていれば、俺にもできたのだろうか。
「将棋AIにも、もっと早く出会いたかった」
研究仲間はいなかった。それでも、将棋AIがあれば、一人で将棋を調べられた。
ようやく自分に合う勉強の仕方を見つけた。その頃には、俺は中年に差しかかっていた。
そこからは、勝ちに勝ちまくった。棋士編入試験を受けられることも、決まったばかりだった。
画面の盤面に目を戻した。さっきから考えていた局面だ。
マウスで角を選び、相手の歩が利いている升へ動かした。角をただで捨てるようにしか見えない。
駒を元に戻し、将棋AIに検討させる。最善手として示されたのは、今、自分が指したばかりの手だった。
「良かった……。やっぱりこの手が最善だ」
マウスの脇に、将棋雑誌が開いてある。
『棋士編入試験は、挑戦者の三国アマの体調不良により、延期となった』
その一文を、もう何度読んだか分からない。延期。中止ではない。身体さえ戻れば、まだ受けられる。
不摂生がたたって、身体を壊した。将棋を指している間は、そのことを忘れていられた。
胸の奥が、急に痛んだ。
息を吸おうとしたが、うまく入ってこない。マウスから手を離し、胸を押さえた。痛みは治まらなかった。
まずい。誰か呼ばないと。
呼びかけたつもりが、かすれた声しか出なかった。
俺は、ここで死ぬのか。
まだ試験も受けていない。せっかく、ここまで来たのに。
——あぁ、将棋をもっと早く知っていれば。
机に頬が触れた。冷たかった。画面を見ようとしたが、もう顔を上げられなかった。
「あぁ……、母さん、将棋。愛しているよ」
自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。
もう一度、声を出そうとした。だけど、喉からはかすかな息が漏れるだけだった。




