第6話:村の風景と硬い丸パン
第6話:村の風景と硬い丸パン
石畳を踏み鳴らす無骨な靴音と、昼前から出来上がった男たちの太い笑い声。 村の中央広場に面した一角、石積みの粗末な大衆食堂の軒先から、薪の煙に混ざって香ばしい麦の匂いが漂っていた。 父アルトの肩車の上。三歳児の視界は、大人たちの頭上を越えて、村の素朴な日常を隅々まで見渡している。人口百五十人ほどの小さな村。通り沿いには、乾物や農作物を並べた露店が二、三軒と、村唯一の日用品商店。遠く村外れからは、ドワーフの鍛冶師が鉄を叩く重い槌音が微かに風に乗って届いていた。
「ほらアルス、落ちるなよ。今日は母さんが寄り合いだから、昼はここで食っていこう」
アルトが俺をひょいと抱き下ろし、食堂の店先に並べられた分厚い木製テーブルの丸太椅子へと座らせた。 使い込まれて黒ずんだテーブルには、あちこちに刃物の傷や酒の染みが刻まれている。 厨房の奥から、恰幅のいい女将が湯気を立てる木皿と、ゴトリと重い音を立てる木椀を運んできた。
「はいよ、アルトさん! 坊やの分もスープ大盛りにしておいたよ。焼き立ての丸パンもね!」 「おう、いつもすまないな」
運ばれてきたのは、村の名物である灰汁抜きした野獣肉と根菜の煮込みスープ。そして、こんがりと濃い焦げ茶色に焼き上がった、大人の拳骨ほどもある丸パンだった。 ふわりと立ち上る小麦の焼けた香ばしい匂い。表面には挽き割りのライ麦の粒がびっしりと張り付き、見るからに素朴で美味そうだ。
(おお……! 焼き立てパン! いい匂いだ……やっぱり異世界ファンタジーといえば、こういう手作り感あふれる素朴なパンだよな!)
腹を空かせていた俺は、小さな両手で丸パンを鷲掴みにした。 ――だが、持った瞬間に掌へ伝わってきたのは、ふんわりとした柔らかさではなく、川原で拾った丸石のようなズッシリとした質量だった。
(……ん? なんか重くね?)
違和感を覚えつつも、俺は大きく口を開け、丸パンの側面に勢いよく前歯を立てた。
ガッ!!
(ぎゃあああああっっ!? 硬ぇぇぇぇぇぇぇ!!)
頭蓋骨の芯まで響くような鈍い衝撃。 歯が食い込むどころか、前歯の先端がパチィンと跳ね返された。 痛い。痛すぎる。奥歯ではなく乳歯の前歯で噛みついたせいで、歯茎から脳天へと激痛が突き抜けた。
(なんだこの鈍器!? パンじゃない! これ絶対にミスリル鉱石の塊か何かだろ!! 歯が折れる! 三歳児の柔らかな乳歯を粉砕する気かァァ!!)
俺は両手で口元を押さえ、涙目でぷるぷると震えた。 前世のコンビニやベーカリーに並んでいた、指で押せばふわりと沈むバターたっぷりの高級生食パンの幻影が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。あのフワフワの天国に帰りたい。この世界の主食は、なぜこうも歯と顎に対する殺意が高いのか。
「ぶはっ! アルス、お前そのまま齧り付いたのか!?」
涙目の俺を見て、アルトが豪快に吹き出した。 隣の席で木樽の安エールを煽っていた木こりの中年たちも、「おいおい、アルトのとこの坊主、もう一人前にパンを齧ろうとしてるぞ!」「ははは! 百年早ぇや!」とゲラゲラ笑い声を上げている。
「アルス、このパンはな、そのまま噛むもんじゃないんだ。こうやって食うんだよ」
アルトは自分の丸パンを素手で真っ二つにへし折った。パキィッと、まるで乾燥した薪を割ったような乾いた破断音が響く。 そして、その断面をごろごろと肉が入った熱々の煮込みスープの底へ、ズブズブと沈め込んだ。
数秒後、引き上げられたパンの表面は、茶色い煮汁をたっぷり吸い込んで艶やかに濡れていた。 アルトがそれを一口で頬張り、豪快に咀嚼する。
「ほら、スープに浸して、パンの硬い皮にダシを吸わせるんだ。そうすりゃ柔らかくなって、肉の旨みも全部吸って最高に美味いぞ」
(……なるほど。そういうシステムか)
痛む前歯を舌先で探りながら、俺の分析スイッチがカチリと入った。
(保存性を極限まで高めるために水分を飛ばして焼き締めてあるんだな。冷蔵庫も防腐剤もないこの世界じゃ、パンを石みたいに硬く乾燥させるのが生活の知恵なんだ。そして、獣肉の灰汁を丁寧に取ったスープを吸わせることで、硬い主食を極上の旨み爆弾へと変化させる……食文化としての合理性が完璧だ)
納得した俺は、小さな手でパンを小さくちぎろうとした。 ――が、ちぎれない。三歳児の握力では、石膏のようなパンの塊を割ることすら一苦労だ。
「んぐぐぐ……!」 「はは、貸してみろ」
アルトが苦笑しながらパンを一口大のサイコロ状に砕き、俺の木椀のスープの中へポチャンと放り込んでくれた。 熱いスープの海に沈んだパンの破片が、ジュワジュワと気泡を出しながら濃厚な煮汁を吸い込んでいく。
俺は木のスプーンで、スープを含んでふやけたパンをすくい、慎重に口の中へ運んだ。
(……あ、美味い)
舌の上に広がったのは、噛み締めるほどに溢れ出す野獣肉の野性味あふれるダシと、炒めた玉ねぎに似た根菜の甘み。 そして何より、スープを限界まで吸い込んだライ麦パンの香ばしい酸味が、肉の脂っこさを見事に中和している。 顎に食い込むパンの硬さは、舌より先に奥歯でしっかりと噛みしめる喜びへと変わっていた。
「うまっ……! お肉、じゅわってする!」 「だろ? 母さんの作る飯も美味いが、ここの親父が煮込むスープも村一番だからな」
アルトが嬉しそうに目を細め、俺の頭をぽんぽんと叩く。 スープを最後の一滴までパンで綺麗に拭い取り、木椀を空にした頃には、俺のお腹はぽんぽこりんに膨らんでいた。 だが同時に、使い慣れない奥歯で硬い皮を懸命に咀嚼し続けたせいで、両頬の筋肉がピクピクと痙攣するように引きつっている。
(ふぅ……完食したはいいが、顎が死にそうだ……)
アルトが女将と銀貨の会計をしている隙に、俺はポケットから手製の羊皮紙メモと炭ペンを取り出した。 小さな丸太椅子の上で、痛む顎の付け根をさすりながら、震える手で新たな反省と課題をカリカリと書き留める。
『【異世界生活における身体強化の覚書】: ① 魔法の修行やプロットの執筆以前に、この世界の主食(鈍器)を難なく噛み砕けるだけの圧倒的な「顎の咀嚼筋力」を鍛え上げること。 ② スープ浸食率は優秀。将来の冒険者向けレーション(携帯食)や魔導書執筆時の夜食コラムのネタとして、乾燥パンのダシ吸収効率は要検証。 ③……それにしても、前世の柔らかい食パンの耳が恋しすぎる。早く大きくなって、自分の歯で肉を噛みちぎれるようになりたい』
メモを大事にポケットへしまい込んだ三歳の元作家は、石畳を歩く村人たちの逞しい体躯を見上げながら、己の肉体の成長への果てしない道のりを実感するのだった。
第6話 了
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