第9話:世界にひとつだけのブックカバー
第9話:世界にひとつだけのブックカバー
夜の居間、温かい暖炉の火。母セフィルスとハピネスがコソコソと夜なべして縫い上げた小さな包み。漂う極上麻布の香りと、針と糸の擦れる音。 赤々と燃える薪の爆ぜる音が時折静寂を震わせ、窓の外では静かな夜風が木々を揺らしていた。
四歳の誕生日を迎えた夜。夕食のシチューの温もりがまだ胃の腑に残る居間で、俺は丸太椅子にちょこんと腰掛け、いつものように父の工房から借りてきた古い本を膝の上で広げていた。 擦り切れた革表紙。何度もめくられたせいで角が丸くなり、背表紙の綴じ紐もほつれかけている。 活字が読めるようになって以来、俺はこの世界のあらゆる文字を貪るように読み耽ってきた。だが、村で手に入る書物はどれも貴重品であり、手荒に扱えばすぐに紙が傷んでしまう。
「あーちゃん、ちょっと本を閉じて目をつぶってて!」
ハピネスが、背中に両手を隠しながら小走りで近づいてきた。 栗色の三つ編みを揺らし、その瞳は夜空の星のように爛々と輝いている。何かを企んでいる時の、あの悪巧みと期待が入り混じった顔だ。 暖炉の傍らでは、母セフィルスが手織り機の手入れを止め、穏やかな笑みを浮かべながらこちらを見守っていた。
「……め、つぶったよ」 「絶対に開けちゃダメだからね! はい、手を出して!」
俺が小さな両の手のひらを上に向けると、ふわりと羽のように軽やかで、驚くほど滑らかな布の塊が手の上に載せられた。 指先から伝わってくるのは、ひんやりとした絹のようなきめ細やかさと、丹念に水晒しされた麻の清涼な匂い。 母セフィルスが丹精込めて紡ぎ、織り上げた極上の手織り麻布の質感そのものだった。
「もういいわよ、目を開けてごらんなさい」
セフィルスの優しい声に促され、俺はそっと瞼を持ち上げた。
「じゃじゃーん! あーちゃん、四歳のお誕生日おめでとう!!」
ハピネスが胸を張り、満面の笑みで両手を広げた。 俺の手の上にあったのは、丁寧に折り畳まれ、革紐で結ばれた手のひら大の布包みだった。
「これ……なに?」 「ふふっ、開けてみて! あーちゃんがいつも大事に大事に読んでる本、表紙がボロボロになっちゃってたでしょ? だからね、お母さんに一番いい布を分けてもらって、お姉ちゃんが作ったの!」
俺は促されるまま、小さな指先で結び目を解き、麻布をゆっくりと広げた。 現れたのは――四角く縫い合わされた、一冊の本をすっぽりと包み込むための特製ブックカバーだった。
だが、その表面に施された刺繍を目にした瞬間、俺の思考は完全に凍りついた。
(……うわ、待て待て待て! 狼の目がガチで獲物を狙ってるぅぅぅ!?)
そこにあったのは、愛らしい動物のワンポイント刺繍などでは断じてなかった。 銀糸と黒糸、そして血のように鮮烈な赤糸を無数に使い分け、狂気的なまでの密度で縫い上げられた――筋骨隆々たる巨躯を誇る【白銀の魔狼】の凶悪な姿。
剥き出しになった純白の牙は一本一本が鋭利に尖り、獲物の肉を食いちぎらんばかりに歪んでいる。 逆立つ銀の毛並みは風の乱れまで精密に表現され、何よりその瞳。黒糸の奥に埋め込まれた赤糸の瞳光が、まるで本物の捕食者のようにギラリと暗い光を放ち、見る者を射竦めていた。
(リアルすぎる……! 姉ちゃんの手芸スキルがカンストしてるのは知ってたけど、デザインの方向性が尖り散らかしすぎてるだろォォ!!)
前世で売れないラノベ作家をやっていた頃、数多のダークファンタジーの表紙を見てきた俺ですら戦慄するほどの、圧倒的な威圧感と殺気。 本を保護するためのカバーのはずなのに、表紙に触れるだけで指を噛みちぎられそうな凄まじい迫力だ。
(こんな凶悪な狼が表紙に鎮座してたら、誰もこの本を盗もうなんて思わねえよ! いや待て、そもそも四歳児の読む本の装丁としてこれ完全にアウトだろ!? 夜中に見たら確実に腰を抜かすレベルのガチホラーじゃねえか!!)
内心で冷や汗が首筋を伝い落ちるのを感じながら、俺は息を呑んで固まっていた。 だが、恐る恐るハピネスの顔を見上げると、彼女は小さな胸を誇らしげに反らし、満面のドヤ顔を浮かべていた。
「どう、あーちゃん! かっこいいでしょ! あーちゃんの大事な本を悪い奴らから守る、世界最強の番犬……じゃなくて番狼よ! 絶対に傷ひとつつけさせないんだから!」
得意げに笑うハピネス。 その時、俺の視線は、彼女の小さな両手の指先にふと吸い寄せられた。
(……あ)
ハピネスの十本の指先。 そのあちこちに、小さな赤い点々の傷跡と、布の端切れで作られた不格好な手製絆創膏がびっしりと巻かれていた。 硬い麻布に、極細の銀糸を何千回、何万回と通し続けた証拠。 九歳の少女が、まだ覚束ない手つきで針を握りしめ、夜な夜な指先を血で染めながら、この恐ろしいほど精緻な狼を縫い上げてくれたのだ。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
前世の俺の記憶が、不意に視界を滲ませる。 地球で書いた、誰にも読まれなかった俺の本たち。 ランキングの底辺に沈み、重版もかからず、書店から返本されて倉庫の奥でひっそりと裁断処分されていった自著の山。 誰の記憶にも残らず、誰の手にも守られず、ゴミのように消えていった俺の言葉たち。 あの時、俺の書いた物語を守ってくれる者なんて、世界のどこにもいなかった。
なのに、今。 この世界で、血の繋がりすら定かではないこの小さな姉が。 俺が本を大切にしているという、ただそれだけの理由のために、指先を傷だらけにして、本を守るための最強の盾を縫い上げてくれたのだ。
(……尖りすぎてるなんて、言えるわけねえだろ)
目頭が熱くなり、鼻の奥がツンと痛んだ。 俺は両手で、その狂気的な狼が描かれたブックカバーをぎゅっと胸に抱きしめた。 麻布の冷たさの奥から、ハピネスの注ぎ込んだ途方もない熱量が、じんわりと小さな胸板を温めていく。
「……おねえちゃん」 「ん? どうしたの、あーちゃん?」 「これ……すっごく、かっこいい! ありがとう、おねえちゃん! おれ、いっしょう、たいせつにする!」
四歳児の拙い言葉。だが、そこに込められた感謝は、俺の二つの人生の中で最も純粋で、最も熱いものだった。
「……っ! あーちゃん……!」
ハピネスの瞳からポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。 そして次の瞬間、「わぁぁぁん! あーちゃん大好きぃぃぃ!!」と猛烈な勢いで飛び込んできて、俺の首筋に抱きついて号泣し始めた。
「ぐえっ……!?」
窒息しそうなほどの力強い抱擁。 鼻水と涙で俺の頬を濡らしながら、ハピネスは「喜んでくれたぁぁ! 頑張って縫ってよかったよぉぉ!」と全力で泣きじゃくっている。
暖炉の前で、母セフィルスが静かに立ち上がり、二人の元へと歩み寄ってきた。 その優しい瞳には、暖炉の火よりも温かな光が湛えられている。
「ハピネス、よく縫えたわね」
セフィルスはそう言って、泣きじゃくるハピネスの背中と、ブックカバーを握りしめる俺の頭を、両腕でふわりと包み込んでくれた。 母の腕のぬくもりと、姉の泣き声と、手の中にある世界にひとつだけの狼の刺繍。 全身の力がふっと抜け、俺は家族の温もりに身を委ねながら、静かに目を閉じるのだった。
第9話 了
世界にひとつだけのブックカバーがあるように、あなたの「いいね♡」も唯一無二の応援です。「お気に入り登録」もお願いします。




