第227話 全部、夕焼けの話
翌朝。
千夜はいつもより少し早く、二年D組の教室へ来ていた。
自分の席には座らず、何度も入口を見る。
待っているのは純也だった。
昨日、彩音と基樹から、恒一が転校するという話は聞いていないと確認している。
さらに、巴と恒一の会話は、ほとんど夕焼けについてのものだった可能性が高い。
それでも、もう一人確認しておきたかった。
最近、恒一は純也ともよく話しているらしい。
やがて、純也が教室へ入ってきた。
「三浦くん」
「ん?」
「ちょっと来て」
「え?」
千夜は純也の手を取り、そのまま教室の外へ連れ出した。
「ちょ、前田さん?」
「いいから」
教室にいた何人かが、一斉に二人を見る。
「何あれ」
「前田さん?」
小さな声が広がったが、千夜は気にしなかった。
◇ ◇ ◇
人の少ない場所まで来ると、千夜は純也の前に立った。
「ちょっと教えて」
「何を?」
千夜が一歩近づく。
純也が一歩下がった。
さらに千夜が近づくと、純也の背中が壁に当たった。
「あ」
それでも千夜は止まらず、そのまま純也の横へ片手をつく。
気づけば、いわゆる壁ドンの形になっていた。
二人の身長はほとんど変わらない。そのため視線の高さもほぼ同じで、千夜が少し身を乗り出すだけで、顔がかなり近くなる。
もちろん、千夜本人にそんな意図はない。
純也は目の前の千夜を見る。
「……前田さんって、こんなに積極的なんだね」
「何が?」
「いや……」
まったく通じていなかった。
「それで、何を教えればいい?」
「いろいろ」
「いろいろ?」
「うん」
純也は少し考えた。
「じゃあ、生年月日からでいい?」
「……何の?」
「俺の」
「違う。そうじゃない」
「違うの?」
「三浦くんの個人情報を聞きたいんじゃないから」
「ああ、そういうことか」
「クラスと出席番号くらいなら知ってるし」
「そこは知ってるんだ」
「同じクラスなんだから当たり前でしょ」
「じゃあ、何を知りたいの?」
「昨日のこと」
「ああ、昨日?」
「うん」
「昨日は学校終わってからファミレス行って、それから――」
「そんな話じゃない」
「違うの?」
「三浦くんが昨日何してたかを聞きたいんじゃないから」
「じゃあ何?」
千夜がさらに少し身を乗り出した。
「昨日、朝比奈君から連絡なかった?」
「あったよ」
「やっぱり!」
千夜の顔がさらに近づく。
純也はもう後ろへ下がれない。
「何て言ってた?」
「真田さんのことなら話してたけど」
「それ! 全部教えて」
「全部って言われてもな」
純也は少し考えた。
「真田さん、夕焼けが嫌いなのかなって」
「……何て?」
「夕焼けが嫌いなんじゃないかって言ってた」
「どうして?」
「昨日、二人で夕焼け見てたんだろ? 最初は普通だったのに、途中から真田さんの機嫌が悪くなって、走って帰ったって」
千夜は額に手を当てた。
「それだ……」
「何が?」
「他には?」
「真田さんが、できればずっと一緒にいたいって言ってたらしい」
「うん」
「でも夕焼けなんて、ずっと出てるわけないだろ」
「……うん」
「だから恒一も、時間が経てば消えるんだから無理だって説明したって」
千夜は両手で頭を抱えた。
「やっぱり全部夕焼けじゃない!」
「何が?」
「何でもない」
「全然何でもなくないと思うけど」
「まだ何か言ってた?」
「恒一も、できるならずっと見ていたいけど無理だって。時間が経てば消えるし、ずっと同じままでもないって」
千夜は深く息を吐いた。
彩音と基樹の推測は当たっていた。
恒一は最初から最後まで、夕焼けについて話していたらしい。
「それでさ」
「まだあるの?」
「恒一に『お前ならどう思う』って聞かれた」
「何て答えたの?」
「そりゃ無理だろって。夕焼けをずっと出しておくなんて無理だから」
「そうだね……」
「だから真田さんも、無茶言うなって思ったけど」
純也には何も分かっていない。
恒一にも、おそらく分かっていなかった。
二人にとっては、最初から夕焼けの話だったのだから当然だった。
恋愛の告白をしていたのは、巴だけである。
「あと、変なことも聞かれた」
「何?」
「女の人って、夕焼けが嫌いな人が多いのかって」
「……何て答えたの?」
「嫌いな人もいるんじゃないかって」
「軽いね」
「分からなかったから」
「それはそうだけど」
「前田さんには分かるの?」
「分かりすぎた」
千夜は大きく息を吐いた。
恒一は転校しない。
どこかへ消えるわけでもない。
「いつか消える」も。
「ずっと同じままではいられない」も。
「好き」も。
すべて夕焼けについてだった可能性が高い。
「……巴」
「何?」
「何でもない」
千夜はスマートフォンを取り出しかけ、純也を見る。
「三浦くん」
「今度は何?」
また一歩近づく。
純也は反射的に壁際へ下がった。
千夜もそのまま距離を詰める。
再び、純也の背中が壁についた。
「……前田さん」
「何?」
「俺、お金持ってないけど」
「何の話?」
「いや、また壁まで追い込まれたから」
「カツアゲじゃないよ!」
「じゃあ何?」
「連絡先、教えて」
「……俺の?」
「うん」
「本当にカツアゲじゃないんだね」
「だから違うって」
「急に連れ出されて、壁まで二回追い込まれて、今度は連絡先か……」
「また聞きたいことがあるかもしれないから」
「最初からそう言ってくれればいいのに」
二人はスマートフォンを取り出し、連絡先を交換した。
「ありがとう」
「前田さん」
「何?」
「朝から手をつかんで連れ出されて、壁まで二回追い込まれて、最後に連絡先まで聞かれるとは思わなかったよ」
「考えすぎ」
「そうかな」
「じゃあ、またね」
「ちょっと待って」
千夜はそのまま教室へ戻っていった。
純也だけが廊下に残された。
「……何だったんだろ」
千夜が教室へ戻ると、何人かのクラスメイトがこちらを見た。
気にせず席へ座り、スマートフォンを開く。
巴へのメッセージを打った。
『昨日のこと、分かったよ』
『巴、言葉が足りなかったみたい』
『朝比奈君には、告白だと思われてなかった可能性が高いよ』
『だから、巴が振られたわけじゃない』
『朝比奈君が転校する話でもなかったから大丈夫』
送信。
夕焼けについては書かなかった。
そこまで説明すれば、自分がついた嘘にも触れなければならなくなる。
「……ごめん、巴」
千夜は小さくつぶやいた。
◇ ◇ ◇
同じ頃。
二年B組では、巴が自分の席に座っていた。
背筋はいつもどおり伸びているが、表情は暗い。
ほとんど話さないため、周囲も声をかけにくそうにしていた。
少し離れたところから、西園寺たちも様子をうかがっている。
「巴様、今日はどうされたのでしょう」
「朝からずっとあんな感じだよね」
「昨日、何かあったのかな」
その時、机の上のスマートフォンが震えた。
千夜からだった。
巴はメッセージを開く。
『昨日のこと、分かったよ』
『巴、言葉が足りなかったみたい』
『朝比奈君には、告白だと思われてなかった可能性が高いよ』
『だから、巴が振られたわけじゃない』
『朝比奈君が転校する話でもなかったから大丈夫』
「……」
巴は何度か読み返した。
恒一は転校しない。
そして、自分は振られたわけでもない。
それが分かっただけで十分だった。
「……そうか」
強張っていた表情が緩んだ。
さっきまでの暗さが消え、顔が一気に明るくなる。
西園寺が目を瞬かせた。
「……巴様?」
「何だ?」
「い、いえ」
数分前とは明らかに様子が違う。
「急に元気になったね」
「何かいいことあったのかな」
巴は気にせず、千夜へ返信した。
『ありがとう』
『本当に安心した』
送信すると、いつもより少し機嫌よく授業の準備を始める。
その日。
二年B組の何人かは、朝から沈んでいた巴の機嫌が突然よくなった理由を、不思議に思い続けることになった。




