第8話
茹るような暑さと暗い室内を照らすのは窓から射す、まるで罪人を焼く業火のような太陽光だ。
締め切った室内で換気を期待できる筈もなく、外気をも超える暑さは中にいる人に心身共にダメージを与えていた。だが、窓を開ける訳にはいかない。
それは今この場で起きている事態を外に知らせることになるからだ。
『結界』と言うものがある。
それは魔術の中でも極端に制御が難しいものとして知られている。
魔術師の誰もが使える可能性を持ちながら、本当に使いこなせる者は少ない。
単なる攻撃魔術とは異なり、幾つもの条件と細かい制約が必要となるからだ。
その一つが欠けるだけで制御はおろか、発動さえしない――だけではなく、逆に術者の意図しない現象を引き起こすことさえある。
そして、その条件の中で最も単純且つ有名なものの一つが中と外の隔離、いわば換気の禁止である。
「暑いー、溶けるー」
床に座り込み、手足をジタバタさせる少年が叫ぶ。
それを横で見ていた黒髪黒目の少女が一言。
「うるさい」
「だってさ、シズカ。こんな暑さだったらさ、何か悪い病気になっちゃうかもしれないよ。僕は嫌だよ! 病気になるなんてさ。だってさ、だってさ、神殿って所に行かなきゃ行けないってジョージが言ってたもん。そうだよね、ジョージ?」
「シルバ……仕事に集中してくれ……」
闇に同化するように影から黒い服に身を包んだ一人の男――ジョージが姿を現した。
まだ若い彼ではあるが、目前の少年少女に比べると親にも見え、厳つい顔が今はまるで大家族を抱える母親のような苦労を滲ませている。
「良いじゃん! だってさ、全部サルーニャがやってくれるって言ってたもん。言ってたよね? シズカも聞いたよね?」
「言ってた」
「ほらー、言ってたもん。だからさ、僕は何もしなくても大丈夫だもんね。サルーニャが頑張るんだもん。だがら僕は自由にしてて良いの!」
「あのな……、お前らが自分勝手にしてる分、俺の自由が無くなっていくんだよ! それにな! 俺達は此処に仕事で――ウワォッ!」
突然、背後に発生した気配にジョージは驚き、振り向いた。単なるシズカやシルバの保護者のような彼だが、裏では一流と言って差し支えない程度にはできると自負している。
そんなジョージがそれまで一切の気配を感じなかったのだ。
しかし、そんな驚愕もすぐにその者の声を聞いて鎮火することになる。
「こっちは終わったわ」
「あ! サルーニャ! おつかれー。もー遅いよぉ。サルーニャが遅いから僕が怒られちゃったんだからね!」
ジョージの背後に現れたのはサルーニャと呼ばれた一人の少女だった。
その少女を一言で表すならば、『白』だった。
透き通る程に美しい肌。
色素を失ったかのような髪。
瞳こそ薄い灰色ではあるが、その少女には色と言うものが欠けているように見る者に思わせた。
だが、その雰囲気を台無しにするものがあった。
赤かった。
赤く、そして紅い。
サルーニャを紅く染め上げる物の正体。
それは血だ。
まるで白い自身の体をキャンパスに見立て、血を絵の具に見立てたかのようにその体を染め上げる。
けれど、それを見たジョージ達に焦りの色はない。どちらかと言うと呆れを滲ませ、シルバが口開く。
「もう! サルーニャってばまた体中に血が付いてるよ! 避けてって言ってるじゃん!」
シルバの苦情を無視し、サルーニャは、
「シズカ、もういいわ。結界の解除をお願い」
「わかった」
シズカは部屋に無造作に、しかし見る人が見ればすごく緻密にそして規則的に置かれている翡翠色の魔石を拾い上げた。
手に取った瞬間、パリンという音が家全体に鳴り響いた。
「解除した。もう大丈夫」
「無視しないでよー。困るのはサルーニャの方なんだからね! 臭いし不潔なんだからね! そんなんじゃ結婚だってできないよ? すぐ歳とっちゃうんだからね!」
ぴくりとサルーニャの頬が強張る。
しかし、シルバはそれに気付かずに、
「すぐおばさんになっちゃうんだからね。はい、もうおばさんだ! もうおばさんになっちゃったんだからね!」
シルバの顔が突如、上を向く。
サルーニャの白く、か細い手がまるで万力のようにシルバの頬を掴み、締め上げながら自分に視線を合わせるように手の角度を調整する。
「す・こ・し、黙っておきなさい! わかったかしら?」
般若のようなサルーニャを見つめながら、シルバは目に涙を溜め、小刻みに頷く。
それは断頭を待つ罪人のようだった。
それでもう興味を失ったのだろう。サルーニャは『よろしい』と言いながらジョージに目線を向け、言った。
「次は決まっているの?」
ジョージは勿体ぶるように唇に手を当て、
「例のアレ、だろ?」
「えぇ、こんな小物のためだけに私たちをエルメールに送ったとも思えないわ」
自分に付いた返り血を見せびらかしながら、サルーニャは言った。
彼女たちは裏の世界ではその名を大陸中に轟かす組織の一員にして、精鋭の集団である。そんな彼女が大国とはいえあまり裕福な国とは言えないエルメールで仕事を行い、それに見合う対価が得られるともサルーニャには思えなかった。
「(そう、それがよほど大きな仕事でもないかぎり、ね)」
「出たぞ、ゴーサインだ!そして、さらに驚くことがあるぞ。この街だ。この街こそがアイツらがいる街、なのさ」
「へぇ……」
ふわりとサルーニャの髪が逆立つ。
純粋なる殺気と溢れ出す魔力は、まるで壁に囲まれたかのような圧迫感を放ちながら辺りを威嚇した。
ところが、それはすぐ消え失せた。
それはジョージがサルーニャの肩に手を置いたときであった。
「サルーニャ、私怨にあまり囚われるなよ」
囁くように優しくジョージはサルーニャに言った。
「俺が今まで言わなかったのはな。驚かしたかったというのもあるが、お前が今みたいにならないようにだったんだぞ」
「大丈夫よ。私は、まだ」
まるで自分に言い聞かすように言うサルーニャにジョージは、
「気を引き締めろよ。何せ、相手は今や伝説の殺し屋集団だ」
エルメール王国。
数年前は超大国と名を馳せたエルメールだが、現在では外交や流通などの経済面で他の大国に大きく遅れをとっている。
昔にエルメール王国が行った各国への大侵攻の爪痕は今尚、続いているのだ。だが、そんなエルメールがまだ大国として生き残れているのは大陸に誇れる力があるからだ。
エルメール王国に時折現れる強き王、彼らはその血筋故なのか、絶対の力を有している。そんな彼らは初代と同じく『暴王』と呼ばれていた。
しかし、ここ何代かはエルメール王国に『暴王』は存在しない。
けれど、そのような状況でもエルメールが持つ強き力とは何か。
それはある組織がエルメールに従う――もしくは与すると言われていることだ。
軍事でも王でもなく、一組織が持つ力。
「『ソレ』を潰せなんてね。そろそろエルメールにも終焉は見えたわね。それとも、『ソレ』に代わる何かを手に入れたのかしら」
フフと笑いながらサルーニャは室内にいる全員に目を向ける。
「おもしろくなってきたとは思わない? 世界は激烈に、そして強烈に変わり始めているわ。望む、望まないに関わらず、ね」
昔、その強大な力で大陸に覇を唱えたエルメール王国。
その影響力は今以て大きく存在する。禍根を多く残すエルメールは今、繊細な力関係によって平和を保っている。
その中で新たな火種が生まれようとしているのだ。
それは決して小さな火種ではない。大きく燃え上がる紅蓮の炎になりえるものだ。
自分たちの行いが、大陸を巻き込むほどの大火へと成長しようとしている。その大火は多くの混乱と恨みを生むだろう。
「(争いはまた新たな争いを。それはそれで面白いわ)」
そう、サルーニャは思う。
「混乱と戦いがあってこそ、『私たち』みたいな人種は生きていけるのよ」