第13話
ゆっくりと、ゆっくりと。
レイスを中心にまるで小さな池を形作るように、血は広がった。
「きゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
サルーニャに殴り飛ばされたレイスを追ったファルシールは、その無残な姿を確認して思わず叫び声を上げた。衝撃的な光景に思考がついていかない。拒否したい現実を嘆くようにうわ言で嘘だと繰り返す。
そこに白亜のワンピースが翻った。ワンピースは所々破れ、腕には夥しい量の血が附着し、その存在感を示している。
その白亜の主――サルーニャが言う。
「死んだフリでもしているの? 堕落者がその程度の攻撃で死ぬわけがないでしょう?」
サルーニャは異形から少女の姿へと戻っていた。
「堕落、者?」
その言葉の意味もわからず茫然とするファルシールを無視し、サルーニャはつまらなそうにレイスを見下す。
「お前みたいな純粋な肉体強化型じゃないんだよ」
「レイス!」
のそりとレイスは重い体を起こす。人ならざる者、悪魔と契約しその力を手に入れた堕落者にとって人にとっての重傷など致命傷たりえない。
けれど、レイスのような契約した悪魔の一部を召喚する堕落者と目の前のサルーニャのような自分の体ごと変化させる堕落者ではその頑強さや再生力に圧倒的な違いがあるのだが。
「さて、どうしたものか……」
誰ともなしにレイスは呟く。
状況はレイスにとってあまり良いものではない。先程のダメージもそうだが、ここはクルエルのアジトがある街であり、活動範囲の根幹を成す、そんな街で易々と大陸でも意味嫌われる堕落者である姿を晒すわけにはいかない。
ただ、幸いだったのはここがどこかの室内ということだ。
レイスはファルシールに視線を送る。
「隠れていてくれ」
「で、でも……」
少しの逡巡の後、足早にファルシールはその場を離れた。
「待っていたのか?」
「ええ、絶望や屈辱、無力感なんて後でいくらでも味わわせてあげるわ。それよりもまず、正々堂々と圧倒的な暴力で貴方を倒す」
サルーニャはケラケラと嗤う。
その時、変化が生じた。パクリとその美麗な顔にまるで割れたザクロのような切り傷が現れたのだ。上からした下へと斜めに切り裂くその傷をサルーニャは撫でる。
「後悔するぞ」
「させてみてよ。私は貴方に全てを奪われた。家族を殺され、悪戯に生かされ、奴隷商にだって捕まった。でも生きたわ。なぜだと思う?」
悲壮な過去を滔々と語るサルーニャはその言葉とは裏腹に満面の嬉色で、
「全ては貴方を殺すためよ。貴方に誓ったあの言葉は一つ残らず覚えているわ! 私はそのためだけに生きてきたのだから!」
サルーニャの体からゴキゴキと骨が砕けるような音が鳴り響く。
白亜のワンピースを押し上げ、突き破るほどの骨格の変貌を見せ、その体を異形へと変じた。
「グリラァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」
サルーニャは大気を震わすほどの咆哮を上げ、その轟音を追うように駆け出した。
あまりの速度に周りの空気が押しだされるようにボウっと音をたてる。死を連想させる圧倒的なまでの威圧感にレイスは先程の衝撃を思い出す。
だが今回もやられるわけにはいかない。
レイスは手を前に突き出し、いつもの触手を召喚する。しかし、それは攻撃するのではなく、体中の至る所を補助、強化するためのものだ。これにより人外の機動力と膂力を発揮することができる。
次の瞬間二人の人外が、激突した。
「バアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」
「ぐぅッ!」
骨が砕け、血が溢れる。
競り負けたのは、レイスだった。
サルーニャの勢いをそのままに、レイスは後ろに吹き飛ぶ。そして、それだけでは終わらなかった。サルーニャはさらに加速、レイスの着地地点まで先回りし、蹴りを放つ。
時間すら置き去りにされたその速度域の中で、レイスは反応した。
力では勝負にならないと悟ったレイスは体を捻りながらその蹴りを上へと手で誘導しながら受け流す。
「がァッ!」
しかし、尋常ならざる怪力で発せられた蹴りは受け流してさえ、腕を砕き、折れた骨が皮膚から飛び出す。それでも、一瞬で骨は繋がり、傷は塞がる。
反則的なまでの堕落者の回復力だ。
お返しとばかりにレイスはサルーニャの背後へ、拳による一撃を見舞う。
体に巻きつく触手がバネの役割を果たす。堕落者としての身体能力と悪魔の力を融合させた一撃だ。
「グガッ!」
重低音を響かせ、サルーニャの体が背骨を基点に降り曲がる。
しかし、それだけだ。
レイスの渾身の力をもってして、皮膚を貫くことさえ叶わない。近接戦闘に特化した堕落者の頑強さに彼は思わず舌打ちする。
「――ッ! これでも駄目か」
レイスの額に汗が伝う。
「ギャオオオオオオオオウ!」
サルーニャは怒りの咆哮を上げ、レイスに迫る。
首筋に向かい、体を預けるように投げ出す。
噛みつきだ。
骨ごと噛みちぎることさえ容易なそれをレイスは体を伏せることで回避。しかし、それを見たサルーニャは噛みつきを止め、伏せたレイスの背中を踏みつけた。
「――ッ!」
レイスは声にならない悲鳴を上げる。
体が軋み、石造の床がひび割れる。じょじょに体が地中に向かって沈んでいく。骨を砕き、肉を裂き、足は体内にまで侵入しようとしていた。
その時、
「今なら――バレようがないだろ!」
レイスは自分の体を貫通するサルーニャの右脚に触手を巻きつけた。
大きな獣さえ締め殺す力を持つ触手がサルーニャの右脚を粉砕せんと力を込める。悪魔と悪魔の勝負。次に負けたのは――サルーニャの方だった。
サルーニャはレイスを振り払おうと脚を大きく動かす。
空気との摩擦でレイスの体を裂傷が襲う。しかし、ギリギリと締めつける触手の力を緩めることはない。
「グリアラアアアアアア! グアアアアアアアア!」
サルーニャはレイスを振り払うことは諦め、鋭利な爪で彼の頭を狙う。
触手による防御が間に合わないと悟ったレイスはサルーニャを解放し、全力で後方に跳んだ。
直後、レイスがいた場所をサルーニャの爪が通過。
空気圧がレイスを襲う。
骨が軋み、傷だらけの体に更なる傷が加わる。人間の致死量などもう遥かに超える血を流し続けたレイスは一瞬気が遠くなるのを感じた。
堕落者の回復力とて、無限ではない。
力を使い過ぎれば、下級の悪魔であれば力が切れることがある。そして何より本人の精神力が崩れてしまえばその力を発揮することさえ叶わない。
「グルルラララ……」
サルーニャが身構える。
先程の攻撃で警戒心を高めたのだろう。しかし、対するレイスに余裕はない。
触手で攻撃することよりも体の回復には精神力を伴う。痛みで集中力は切れかかり、疲れで意識は混濁する。
「はは……」
レイスは自嘲するように笑った。
レイスは万が一を警戒して本気が出せなかった。触手さえ見られなければどうとでも言い訳ができるからだ。
だが、果たして本当にそのためだったのか。
体中から血が滴り、床を汚した。即座に回復するような力は既にない。まだ死ぬことはないが、攻撃を食らい続ければいつかはその時が来るだろう。
「グビガギガガガアアアアアアアアアアアアアアアアアア」
レイスへと自身の数倍はある質量が音速すら超えて迫る。
避けることはできない。跳ね返す力も今はない。
時間の流れがゆっくりと流れた。
サルーニャが伸ばす腕をレイスはしっかりと視認し、そしてまったく動くことができない自分に諦めを抱く。
死は、すぐそこにあった。
レイスの左胸を抉ろうと異形の手が伸びる。
それは時間を経ずに自分の心臓をえぐり、そして堕落者である自分にすら死を与える――漠然とレイスはそう思った。
「――はいるかな」
知らず、ある少女の名がレイスの口から洩れた。小さい声で、迫る風圧で搔き消されながら。
レイスは、死を覚悟した。
「やめてえええええええ!」
声が響いた。
切迫したその声は女性独特の高音で奏でられる――ファルシールの声だ。
レイスの視界が鮮明になる。
死が遠ざかり、生への渇望が目を覚ました。
火事場の馬鹿力と言う言葉がある。危機に瀕した際、人が持つ力が解放されることだ。奇跡と呼ばれる現象だが、堕落者の場合――それは奇跡ではない。
悪魔の力はその個体自身の力で決まる。
最強と呼ばれる魔神から召使の悪魔まで様々だ。
しかし、たかが人間が悪魔の力を十全に使える筈がない。それを可能にするのは――意思の力、想いだ。
想いこそが堕落者の力となる。
「ファルシール!」
ファルシールを視界の端に捉えたレイスは思わず叫んだ。
レイスは迫り来るサルーニャの左手を右にずらした。そして、隙ができたその腹部に左拳を叩き込む。
大質量が左手に集中した。
先程までならサルーニャの力に押されていただろう。だが、結果は変った。飛び込んだ速度に比肩する速度でサルーニャは殴り飛ばされた。
「グギ? グガアアアア!」
柱が砕け、壁が崩れる。
轟音と共にサルーニャは建物の壁を三枚砕き、やっと止まった。
だが、サルーニャは立ちあがった。
レイスにもあるように、サルーニャにも常軌を逸した再生力がある。いや、近接戦闘に特化している分、その力はレイスを超えるものだ。
サルーニャにこれといった損傷は見られない。
「グルルルル」
トンとレイスの体に軽い衝撃が襲った。
ファルシールが脅えながらもレイスの腰に手を回しながら抱きついたのだ。怖かったのだろう。なにせ彼女は戦闘力を持たない普通の人間だ。先程声を出すのに、嫌――この場所に戻るのに一体どれほどの勇気を必要としたのか。
強い――そうレイスは思った。
「期待外れ、ね」
少女の姿でサルーニャは言った。
体を覆う白亜のワンピースはもうその面影がないほどに破けていた。肌が見える場所の方が多いだろう。
終幕を告げるように、遠くで連続的な爆音が響いた。
「時間切れね。いいわ」
背を向け、サルーニャは歩き出す。
引き留めようとして、レイスはその言葉を仕舞い込んだ。血だらけの体へと視線を向ける。その体を気にせず縋りつく少女へと。
「レイス……御無事で……よかった……!」




