42、セシリア
港町には、朝が早い。
まだ空が薄い青に染まった頃から、海の向こうでは漁船の音が響いている。
波止場から運ばれてくる魚の匂い。
潮風に混じる、焼きたてのパンの香り。
石畳の通りを歩く人々の声。
そんな港町の一角に、小さなパン屋があった。
看板には、「シルフ」と書かれている。
「……よし」
厨房で、セシリアが腕まくりをした。
腰には白いエプロン。
銀色の髪は後ろで簡単にまとめている。
目の前には、小麦粉と水、それから酵母。
勇者だった頃に握っていた聖剣は、どこにもない。
代わりに彼女が握っているのは、木製の麺棒だった。
「今日も、いっぱい焼かないと」
セシリアは生地を台の上へ置く。
ぺたん。
両手で押す。
ぺたん。
もう一度押す。
「……ちょっと固い」
水を少し足して、またこねる。
「今度は……」
ぐっ。
生地が柔らかく伸びた。
「うん。いい感じ」
窓の外から、声が飛んできた。
「おーい! セシリア!」
「はい?」
顔を上げると、店の前に魚籠を抱えた男が立っていた。
港で働く漁師だ。
「今日も焼けてるか?」
「まだです。あと少しですよ」
「なんだ、残念だな」
「昨日も同じこと言ってましたよ」
「昨日は昨日。今日は今日だ」
「ふふっ」
セシリアが笑う。
男は肩をすくめた。
「じゃあ、いつものを三つ」
「三つですね」
「あと、甘いやつも」
「昨日は甘いのはいらないって」
「昨日は昨日。今日は今日だ」
「もう……」
セシリアは呆れたように笑いながら、注文を書き留めた。
その顔には、戦場に立っていた頃の鋭さはない。
誰かを斬るために剣を握る必要もない。
国王の命令を聞く必要もない。
魔王を討つ必要もない。
ただ、今日来る客のためにパンを焼く。
それだけだった。
やがて、店の中に香ばしい匂いが広がっていく。
焼き上がったパンを籠へ並べると、表から子どもの声が聞こえた。
「パンのお姉ちゃん!」
「はい。どうぞ」
「これ!」
小さな手が差し出したのは、数枚の硬貨。
セシリアはしゃがみ込んだ。
「今日は何にする?」
「丸いパン!」
「また?」
「だって、おいしいもん!」
「じゃあ、ひとつね」
「ふたつ!」
「ひとつ」
「ふたつ!」
「……しょうがないなぁ」
セシリアは丸いパンを二つ取った。
「はい」
「ありがとう!」
子どもはパンを抱えて走っていく。
「転ばないでねー!」
返事の代わりに、遠くから手だけが振られた。
セシリアも小さく手を振り返す。
その様子を見ていた漁師が、ぽつりと言った。
「お前、本当にパン屋が板についてきたな」
「そうですか?」
「昔からやってたみたいだ」
「昔はパンなんて焼いたことありませんよ」
「へえ」
セシリアは少しだけ首を傾げる。
「でも、楽しいですよ」
そう言って、焼き上がったパンを籠へ移した。
聖剣を握っていた手。
世界を救うために振るわれた手。
その手が今は、小麦粉で真っ白になっている。
それでいい。
セシリアは、粉のついた手を見て笑った。
夕方になると、客足も少なくなった。
最後の客を見送る。
「ありがとうございました。また明日」
扉を閉める。
カラン、と小さなベルが鳴った。
「……ふぅ」
セシリアは店内を見渡した。
空になった籠。
きれいに拭かれた木の台。
明日の仕込みを待つ小麦粉。
壁際には、一振りの聖剣が立てかけられている。
かつて、この剣は世界の命運を背負っていた。
けれど今のセシリアにとっては、それも昔の話だ。
「明日は……もう少し多く焼こうかな」
聖剣に向かって話しかける。
返事はない。
「今日、子どもが二つ欲しいって言ったの」
もちろん返事はない。
「だから二つあげちゃった」
セシリアは少しだけ笑う。
そして、エプロンを外した。
窓の外では、港の灯りが一つ、また一つと点いていく。
魚を運ぶ人。
酒場へ向かう人。
家へ帰る人。
誰もセシリアを勇者とは呼ばない。
英雄とも呼ばない。
彼女もまた、誰かにそう呼ばれる必要はなかった。
明日の朝になれば、またパンを焼く。
生地をこねて。
火を入れて。
焼き上がったパンを店先に並べる。
それを買いに来た人へ渡す。
それだけの毎日。
セシリアは店の明かりを消した。
「……明日も、頑張ろう」
鍵を閉める。
そこにいるのは、世界を救った勇者ではない。
魔王を討った英雄でもない。
ただ、この港町でパンを焼いて暮らしているセシリア。
彼女は今日もパンを焼く。
蛇足ですが、セシリアのその後の物語を
勇者の君へ——君と私の物語——
https://ncode.syosetu.com/n7914mu/
という作品で「小説家になろう」にて、書かせてもらいます。是非読んでみて下さい。
変更後です




