31、別れ
放課後の教室には、誰もいなかった。
窓から差し込む夕日が、机の列を長く染めている。
黒板には、昼間の授業で使った数式がまだ残っていた。
セシリアは自分の席に座ったまま、古びたノートを開いていた。
けれど、ページは一枚も進まない。
「…………」
指先だけが、紙の端を何度もなぞっている。
静かな教室に、時計の音がやけに大きく響いた。
そのとき。
――ガラッ。
教室の扉が開いた。
「……シト?」
顔を上げる。
そこに立っていた少年を見て、セシリアは小さく首を傾げた。
「どうしたの? まだ帰ってなかったんだ」
「ああ」
シトは答えながら、ゆっくりと教室へ入ってきた。
いつもと同じ制服。
いつもと同じ落ち着いた顔。
なのに。
「……?」
セシリアは、なぜか違和感を覚えた。
シトが自分の前まで来ても、何も言わない。
「シト?」
「セシリア」
「なに?」
呼ばれて、セシリアは顔を上げる。
シトは少しだけ黙っていた。
それから、窓の外へ視線を向ける。
「僕、しばらくこの街を離れることになった」
「……え?」
セシリアの指が止まった。
「遠くへ行くの?」
「ああ。少し、やらなきゃいけないことがある」
「いつ戻ってくるの?」
「それは……まだ分からない」
「…………」
セシリアは目を伏せた。
握っていたペンが、机の上で小さく転がる。
「そんなに遠いの?」
「たぶんね」
「じゃあ……しばらく会えないんだ」
「そうなる」
短い返事だった。
それが余計に寂しかった。
セシリアは笑おうとした。
「そっか」
口元だけが、ほんの少し上がる。
「じゃあ、気をつけてね」
「ああ」
「ちゃんと帰ってきてよ?」
「……もちろん」
シトが一歩近づく。
そして、セシリアの頭に手を置いた。
「約束する」
「……子供扱いしないでよ」
セシリアは頬を膨らませる。
「もう子供じゃないんだから」
「そうだね」
「絶対そう思ってないでしょ」
「どうかな」
「もう……」
セシリアが顔を上げる。
シトは笑っていた。
いつもの笑顔だった。
だからこそ、セシリアはそれ以上何も言えなかった。
「戻ってきたら……」
シトが静かに口を開く。
「パン屋の約束…忘れない?」
「うん」
「約束だ」
「うん。約束」
セシリアは小さく笑った。
けれど、その笑顔は少しだけ震えていた。
シトはそんな彼女を見つめる。
何か言おうとして、やめる。
伸ばしかけた手も、ゆっくりと下ろした。
「じゃあ、行くよ」
「……うん」
シトが背を向ける。
教室の出口へ向かって、一歩。
また一歩。
「シト」
呼び止める声が響いた。
シトが振り返る。
「……絶対、帰ってきてね」
一瞬だけ。
シトの表情が揺れた。
けれど、すぐにいつもの穏やかな笑顔へ戻る。
「ああ。必ず」
扉が閉まる。
静かになった教室に、夕日の光だけが残った。
「…………」
セシリアは席から立ち上がる。
閉じた扉を見つめたまま、動かない。
やがて、小さく息を吐く。
「……待ってるからね」
誰もいない教室で呟いた。
机の上には、開きっぱなしのノート。
窓の外では、夕日が少しずつ沈んでいく。
セシリアはノートを閉じた。
そして、もう一度だけ扉を見る。
寂しさを抱えたまま、それでも彼女は歩き出した。
シトと交わした約束を胸に。
いつかまた、この場所で笑える日を信じて。
変更後です




