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後編

 寝台に腰掛け、ぼんやりと天井の吉祥文様(きっしょうもんよう)を眺めていた瑞喜帝(ずいきてい)景耀(けいよう)は、遠慮がちな宦官(かんがん)の呼び掛けに、ふと我に返った。


「陛下、(よう)美人(びじん)が参られました」

「……そうか」


 景耀が促すと、寝所の続きの間の扉が開く。板張りの床で叩頭(こうとう)している女性は、(まぎ)れもなく月華(げつか)だった。景耀の喉が小さく鳴る。

 景耀は、月華を逃すまじと背後に張り付いていた宦官に下がるよう合図し、寝台を降りた。ゆっくりと歩を進め、(ひざまず)いたままの月華に近付く。


 こうして彼女を間近にしたのは、いつぶりだろう。(つや)やかな緑髪は灯籠(とうろう)の炎を弾いて輝き、地に伏せた小柄な身体は滑らかな曲線を描いている。共に後宮で悪さをして回ったのは、彼女が十二、三の頃までだったか。あの頃はまだ、どこもかしこも子どもっぽく、自分ももっと線が細かった。


「……顔を、上げて」


 しゃちほこばった物言いをする気にもなれず、思わずそんな風に呼び掛けていた。月華は「お気遣いに感謝します、主上」と儀礼的に答えて、身体を起こす。

 月華の悪女っぷり、相手が誰でも忖度(そんたく)しない()ねっ返りは、もはや宮中の語り草だ。毛を逆立てた猫のように怒りを露わにするかと思ったが、今、彼女の瞳はひっそりと()いでいる。その静けさに動揺し、景耀は戸惑いながら彼女に手を差し伸べた。


「……おいで。夏前とはいえ、そこは冷える。寝台に」

「かしこまりました、主上」


(──違う)


 こんな風に他人行儀に接したくて、彼女を呼んだのではない。閨事(ねやごと)なんてどうでも良かった。ただ昔のように軽やかに、奔放(ほんぽう)な彼女と話したかった。


(どうして……)


 彼女の華奢な両肩を掴んで問い(ただ)したいような、暴力的な衝動が込み上げる。慌てて頭を振り、景耀は月華の手を取り寝台に腰掛けた。


 しんとした静寂が、彼の耳を打つ。


 かつての小萌(しょうほう)は、よく喋り、よく笑い、怒り、一瞬たりとも落ち着かない少女だった。無邪気で予測不能なところが愛しくて、眩しくて、貞晶(ていしょう)()かず眺めていたというのに。なぜ、こんな風に自分を避けるのか。


(……いけない)


 ふっと大きく息を吐き、景耀は意を決して口を開いた。


「楊美人。……何故、そんなに伽を嫌がる」


(月華。──小萌。そんなに、俺が嫌なのか?)


「思うことがあるのは、理解する。だが、君は皇帝の妃になった。……なってしまったんだ。なら、果たすべき義務は分かるな?」

「……」

「楊美人」


 頑なに口を閉ざす月華の強情に、(とばり)の向こうの宦官が腰を浮かせる気配を感じる。景耀はそっとそれを制し、隣に座る月華が言葉を発するのを待った。

 月華は小さく肩を震わせている。それを抱き締めて良いものか、景耀が一人逡巡(しゅんじゅん)していると、やがておもむろに月華が顔を上げた。


「……そういうところが」

「うん?」

「そういうところが、嫌いなのよ!」


 大音声(だいおんじょう)に耳を打たれ、景耀は目を瞬かせた。「嫌い」、予想していたとはいえ、その言葉は、景耀の胸を容赦なく貫く。

 けれどそんな彼に気付く様子もなく、月華は夜目にも鮮やかなほど顔を真っ赤に染め、肩を激しく上下させながら言い募った。


「何よ! そんな風に思ってたんなら、腕ずくでも何でも、私を推し倒せば良かったでしょ! 私だって不敬なのは分かってたわよ! いっそ、そうしてくれれば、まだ……! そ、それなのに、『私を呼んでる』なんて、思わせぶりな態度ばかり!」

「……月華?」

阿晶(あしょう)なんて大っ嫌いよ! こ、こんなに、ずっと会いたかったのに、皇帝なんかになっちゃって……! 国の一番偉い人で、奥さんだってたくさんいて! わた、私はただの、その一人で……!」


 呆然とする景耀をよそに、月華は声を荒らげ、目に大粒の涙を浮かべて、彼の胸倉を掴み上げた。真っ直ぐなその視線に射抜かれ、景耀は動けなくなる。


「こ、皇帝ならちゃんと、後宮全体に意識を向けなさいよ! 何なの!? 全員一回ずつ寝所に呼んで、はい終わり、ずっと入宮当初の下級妃のままにして放っておくなんて! 馬鹿にしてるの!? 皆がどれほど苦しんでるか、どれほどの重圧に押し潰されそうになってるか、貴方、ちゃんと分かってるの!?」


(……ああ)


 やっぱり、彼女は景耀(けいよう)の知る小萌(しょうほう)だ。気まぐれで、強引で、でも周囲をしっかりと観察していて。自分の痛みとは切り離して、正しさを貫く。

 そんな彼女だから、景耀はそばにいて欲しかった。

 幼なじみの細い腕に身体を揺さぶられながら、景耀はそっと目を細めた。


「……小萌は、それでいいの?」

「ッ、嫌よ! でも、しょうがないじゃない!」


 どさくさに(まぎ)れて言質を取り、景耀は小さく安堵する。彼女の心を掻き乱すと分かっていながら、何よりもその答えを嬉しく思ってしまった。

 景耀はそっと、彼の夜着の(えり)を掴んだままの幼なじみの手に、自身の左手を添えて尋ねた。


「──じゃあ、なんで、俺から逃げた?」


 ビクリと、月華が肩を()ね上げる。咄嗟(とっさ)に目を背けた彼女の頬に右の手のひらを伸ばし、容赦なく視線を自分に向けさせた。新たな涙が、月華の猫のような瞳から一筋零れ落ちる。


「……小萌?」


 暗い執着を(のぞ)かせる景耀の声に、月華がくしゃりと顔を歪めた。


「……た、」

「た?」

「耐えられない、から、よ……」


 涙は後から後から、彼女の滑らかな頬を滑り落ちて、景耀の骨ばった手のひらに吸い込まれていく。ヒクヒクと喉を鳴らしながら、月華は消え入りそうな声で続けた。


「分かってるの。阿晶は皇帝陛下。美しくて賢い奥さんがたくさんいて、でも、誰を愛するか、貴方の意思一つでは決められない。貴方だって、苦しいはずだって。……で、でも、嫌なの。たくさんのうちの一人なんて、私は嫌……!」


 一度でも一線を越えたら、阿晶を、独り占めしたくなる。


 涙まじりのその言葉に、景耀は息を詰めて彼女を見下ろした。


 これは、夢ではないだろうか。彼女を乞うあまりに見た、自分にばかり都合の良い夢。

 けれど、手のひらに感じる涙は火傷しそうなほどに熱い。後宮一の悪女は今、途方に暮れた顔で景耀を見上げていた。

 景耀(けいよう)は一瞬目を閉じて、再び月華(げつか)を真っ直ぐに見据えた。


「……確かに、俺は、君だけを贔屓(ひいき)する訳にはいかない。心は君のものだと言っても、目に見えないもので、君を安心させられるとも思わない」


 月華の身体が小さく震える。「君だけを愛している」と、言えば良かったのだろうか。それは真実なのに、行動で示すことが出来ない自分の立場を、景耀は(うと)ましく思う。

 それでも、彼女には誠実でありたかった。


「だからせめて、君に、皇后になってほしかった」


 その言葉に、月華が不意に大きな目を見開く。彼女は困惑した表情を浮かべ、何故かドスの()いた声で呟いた。


「……は?」


 一方の景耀はそれに気付かず、躊躇(ためら)いながら彼女の肩を引き寄せ、恐る恐る抱き締めた。


「……君の家柄だけを考えれば、正直、周囲にやかましく言われると思った。なら、誰よりも君を寵愛して、それを大義名分に、君を皇后に据えようと考えたんだ。まさかこんなに君に逃げ回られて……、君を追い詰めることになるとは、思ってもいなくて」


 すまなかった、と悄然(しょうぜん)()びる景耀の腕の中で、月華は身動きもせずに固まっている。彼女の背中に添えた手に力を込め、景耀は目を伏せた。


「皇后であれば、国事や、普段の生活でも、隣に並んで座ることが出来る。……いや、君に、隣にいて欲しいんだ」

「……なぜ?」


 月華の声がいやに低いことが気にはなったものの、景耀は覚悟を決めて言葉を続けた。


「月華。君が、好きだから」







 静かな寝室に、二人の衣擦れの音だけが響いている。夜伽(よとぎ)の記録役として近くに控えているはずの宦官(かんがん)たちは、完全に空気を消していた。

 あまりにも長い間、月華(げつか)が身動き一つしないため、景耀(けいよう)は違和感を覚えてそろそろと身体を離した。


小萌(しょうほう)? どう──」

「……舌を噛まないように、しっかり歯を食いしばって、口を閉じていて」

「え?」

「いいから」


 訳の分からないまま、それでも景耀が黙って従うと、月華が華奢な身体を震わせて、大きく深呼吸をした。そして彼女は、そのまま──




「──馬っっ鹿じゃないの!?」




 ──ガッ!




「いっ……」


 怒声と共に(あご)に大きな衝撃を受け、思わず景耀は()()った。数瞬遅れて、月華に豪快な頭突きを食らったのだと気付き、唖然となる。

 景耀の腕から抜け出た月華が、全身の毛を逆立てた猫のような風情(ふぜい)で、景耀を(にら)み付けていた。


「馬鹿なの!? 貴方、皇帝でしょう!? そんな、そんな私情で、大切な役割を……っ。鳳冠(ほうかん)を求めることを強要されて苦しんでる女人が、いったいどれだけいると思ってるの! 皇后は国の母なのよ、そんな軽々に決めていいものじゃない!」


 ハアハアと、肩で大きく息をする月華を、景耀は呆然として見下ろしていた。(しび)れたような顎の痛みが、彼女の怒りとともに全身に広がる。

 やがて、それらが頭に到達した頃、景耀は腹を抱えて笑い出していた。


「……ふ、あはははははッ! ははっ、はぁ、あー……」

「ちょっと。仰け反った拍子に、頭でも打ったの?」


 気味悪そうに身を引いて、こちらを見上げてくる幼なじみに、景耀は眩しいものを見るように目を細めた。


「……そうだね。俺は、馬鹿だと思う。そして、堂々とそれを指摘してくれる君だから──、そんな大役も任せられると思うんだ」


 涙の雫が浮かんだままの月華の瞳が、じっと景耀に向けられている。星のように澄んだその輝きを抱き締めるように、景耀は再び彼女の頬に手を伸ばした。


「好きだよ、月華。君がいないと、どうしようもない馬鹿になってしまうぐらいに」


 ずっとずっと、こうしたくて(たま)らなかったんだ。


 (ささや)くように告げて、景耀は月華の身体を抱きすくめる。その腕に痛いほどに力を込めれば、彼女はついに、小さな手のひらを景耀の背に添えてくれた。


「……阿晶(あしょう)の、馬鹿」


 夜着の胸元に(にじ)んだ暖かな涙の感覚が、何よりも愛おしかった。









 頭がぼんやりとして、何も考えられない。月華は呆然と、目の前の青年の腕に抱きすくめられていた。


 二つ年上の幼なじみを、異性として意識するようになったのは、いつ頃からだろうか。

 初めはただ、兄のように慕っていた。彼女のお転婆ぶりを叱るどころか、共に楽しんでくれる阿晶(あしょう)が大好きだった。いつまでもそんな風にいられると信じていた。

 でも、時の流れは容赦なく、そんな幼い願いを打ち砕いていく。気が付けば身長も、手のひらの大きさも、走る速さも、何もかも彼に敵わなくなっていった。穏やかな声は年々低くなり、その声に名前を呼ばれると、ひどく落ち着かなくなった。

 戸惑ううちに、阿晶は冠礼(かんれい)を迎え、皇太子・(かく) 景耀(けいよう)になった。雲の上の存在となった彼には、そう簡単に会えない。悲しかったけれど、同時にどこかほっとしていた。

 やがて月華(げつか)笄礼(けいれい)を迎え、大人の仲間入りをした。その報告のために(りん)皇太后──当時は淑妃(しゅくひ)──を訪ねた時、景耀と再会した。二年ぶりに会う彼は、少年の繊細さと、大人の男性の(たくま)しさの狭間で、えも言われぬほどの魅力を(たた)えていた。


 月華の胸を、(ほのお)のような熱が貫いたのは、きっとその時だ。


(だから、彼の妃になることを打診された時は、本当に嬉しかった。けれど同時に、後宮という場所に後込(しりご)みしてしまった……)


 後宮には数多の女性がいる。月華などより遥かに美しくて、聡明で、大人っぽくて、彼にお似合いの女性が。


 そう思ったら、彼の(ねや)に行くのが怖くなった。所詮(しょせん)ただの幼なじみ、妹分に過ぎないと、彼に言われてしまったら。同情と義務感だけで彼に抱かれてしまったら、きっと月華は耐えられなかったから。


(それなのに、人の気も知らないで……!)


 むしゃくしゃする怒りと共に、むず(がゆ)いような感覚が込み上げる。自分を求めて、こんなにも愚かなことを考えて──でも、その愚かさが愛しかった。


 おずおずと月華(げつか)が顔を上げると、ずっと彼女の背をさすってくれていた景耀(けいよう)が小さく微笑む。その笑顔が嬉しくて、けれど彼の肩越しに見えた御簾(みす)に映る微かな人影に気付き、月華は息を詰めた。


「陛下、あの……」


 景耀はすぐに月華の動揺の原因に気付いたのか、あやすように彼女の背を叩いた。


「大丈夫。宦官(かれら)には、秘戯が始まるまで記録はしないよう命じてある。……どのみち、伽の記録を確認するのは、今は母太后(ははうえ)だけだし」


 さらりと言われたその言葉にも、月華の胸はキュッと痛む。

 もし皇后になれば、彼が他の妃とどのように夜を過ごしたのか、情を交わしたのか、確認するのは月華の役目になる。途端に、足元が崩れるような心許なさを感じ、月華は目の前の幼なじみにしがみついた。

 景耀は、「……すまないと思う」と沈痛な声で呟く。月華はしばし逡巡(しゅんじゅん)したものの、やがて小さく首を振った。


(その痛みと引き換えにしても、彼の隣に立ちたい──)


 彼の唯一になれないのなら、せめて、彼の第一に。


 自身のどうしようもない心の声に戸惑いながら、月華はかすかに(うなず)いた。










 そうして覚悟を決めた月華(げつか)だったが、一つ、重要なことを忘れていた。


「──ところでさ、小萌(しょうほう)


 彼女は思わず、ギクリと肩を()ねさせる。


 恐る恐る顔を上げれば、幼なじみはとびっきりの「良い」笑顔を浮かべていた。そういえば先ほどから、玉体(ぎょくたい)に盛大な頭突きをかまし、至高の存在に「馬鹿」と連呼しと、やりたい放題していた気がする。さすがの月華も血の気を引かせ、|小声で(ささや)いた。


「……へ、陛下。数々の不敬を、お()び──」

「え? ああ、それはどうでも良いよ」


 そんなことより。


 月華の言葉をサラリと(かわ)した景耀は、やたらと輝く瞳で彼女を捕らえた。月華の背を、冷たい汗が伝い落ちる。

 互いの吐息を感じられそうなほど近くに顔を寄せ、景耀が(ささや)く。


「──君、俺の夜伽(よとぎ)の指名、何回断ったっけ?」


 月華はヒクリと喉を鳴らす。彼の表情も声も、(とろ)けるほどに柔らかいけれど、目だけは一切笑っていない。(きし)むような動きで、月華は目を()らした。


「……ええと、ろ、六回ぐらい……?」

「全然違うよ。十五回」


 こればかりは何も反論出来ず、月華は視線を泳がせる。皇帝妃として、あれほど堂々と夜伽を避けていれば、さすがに弁解のしようもない。月華は観念して項垂(うなだ)れた。


「申し訳ございません。償いは必ず……」

「──ふぅん。言ったね?」


 ふっと視界がぶれ、月華は目を見開く。


 気が付けば寝台に押し倒され、間近に迫った幼なじみの美貌に見下ろされていた。


 息を呑む月華の眼前で、景耀が獲物を狙う肉食獣の笑みを浮かべる。


「少なくとも、十五回。必ず、求めには応じてくれるね? ……大丈夫、何も今日一日でとは言わないよ」


 月華は頬を真っ赤に染め、次に、表情を青ざめさせた。その様子をじっと見下ろし、景耀は目を細める。





 ひっそりと闇に沈む夏の夜の後宮に、後に皇后となる妃の、猫のような悲鳴が響き渡った。


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