前編
皇帝妃・楊 月華は悪女である。
気に入らないことがあれば、相手が誰であろうと声を荒らげ──
「配下の不手際は上司の責任! そして上司の不行き届きは主の不明! 下の立場の者を責めるだけでは、何の解決にもならないでしょう!?」
後宮の常識にもまったく頓着せず──
「大臣の娘? 知ったこっちゃないわ! この庭は私が先に茶会で使うと申請したの、順番を守りなさい!」
皇帝の召し出しにすら、頑として首を縦に振らず──
「私を閨に連れ込みたいなら、ご自身で口説きにいらしたら? 殿方は誠意が肝心よ」
そのあまりの問題児ぶりに、密かにつけられたあだ名は、『瑞喜帝の子猫姫』。
「──楊美人。今宵、陛下が貴女様をお召し……って、またですか!?」
恭しい礼と共に現れた宦官が、無人の室内に気付いて絶叫した。
祥国に十九歳の若き皇帝が誕生したのは、八ヶ月前のことだった。
現在二十歳となった彼の後宮では、数多の美姫が仕えている。ただし、皇帝は夜伽に消極的で、妃たちの中に、二度目の閨に呼ばれた者はいない。おかげで誰一人、入宮当初の美人位から昇進しておらず、寵妃の選出、そして皇后の選定は急務と言えた。
そんな後宮にあって、皇帝の指名をことごとく袖にする異例の妃が、五ヶ月前に入宮した楊 月華だった。
今日も宦官の足音を聞きつけてか、彼女は忽然と姿を消してしまった。皇帝の夜伽を管轄する部課の宦官は、またもや彼女が逃走したことに気付くと、顔を真っ青にして踵を返した。
彼が息を切らして向かった先は、彼女を指名した当の瑞喜帝の私室だ。
半泣きで報告を入れる宦官に、皇帝は少年と青年のあわいの繊細な美貌に苦笑を浮かべ、鷹揚に肩を竦めてみせた。
「まったく、彼女にも困ったものだ。……下がって良いぞ」
「陛下、あの、夜伽は……」
「仕事が溜まっていたからな。ちょうど良い。このまま私室で片付けるから、酒でも持って来てくれ」
彼の言葉に、宦官は慌てて部屋を飛び出していく。
その背中を見送って、瑞喜帝・郭 景耀は一人、拳を握り締め呟いた。
「……いい加減にしろよ、小萌」
その背後に漂うどす黒い空気を感じる者は、もちろん誰もいなかった。
さて、逃げた当の本人はと言えば、侍女すら連れず、気ままに夜の後宮を歩き回っていた。後ろ手に指を組み、聞きかじった巷間の流行り歌を呑気に口ずさんでいる。
ふらふらと彷徨い歩いていた月華だったが、ふと、とある建物の前で足を止めた。
(ここは……)
後宮に嫁いだ全員が、定員のない下級妃・美人に据え置かれている現状。そこは、無人のはずの中級妃の殿舎だった。けれど、誰もいない、入口も封鎖された建物から、かすかな物音がした気がする。
「んー?」
月華はしばらく周囲を見回していたが、やがておもむろに裙の裾をたくし上げ、門に取り付いた。小柄な身体を器用に動かし、瞬く間に門塀を乗り越える。
近くの木を伝って地面に降りた月華は、そのまますり足で殿舎に忍び込んだ。人気がないという油断からか戸締りも甘く、その部屋の特定は容易だった。
(この声……)
しばらく部屋の様子を伺っていた月華は、やがて何かに思い至り、ピクリと眉を跳ね上げた。
「──李美人。話があるんだけど」
近々行われる予定の端午祭の打ち合わせが終わり、妃たちが三々五々散っていく中、月華は、とある女性の袖を引いた。
訝しげに振り返ったのは、李 碧蓮。軍部の重鎮を父に持つ皇帝妃だ。
たおやかな美貌を誇る李美人は首を傾げ、やや目線を下げて月華に向き合う。
「どうなさいました? 楊美人」
「……宦官との火遊びなら、もう少し慎重になさい。──あんな場所じゃ、すぐにばれるわよ」
月華の抑えた声音に、年上の妃は温和な表情を消し去った。長身をかがめ、月華の小柄な身体に覆い被さるようにして言う。
「──何がお望みですの?」
「別に。……ああ、でも、先日お裾分けしてもらった舶来菓子は美味しかったわね」
あっさりと返した月華に、李美人は警戒したように険しい表情を崩さない。だが、しばしの沈黙の後、彼女は不意にかすかな笑みを浮かべた。
「手配させましょう。……でも、どうやってあそこに? 生け垣の穴は、私たちが中から塞いでいましたのに」
問われた月華は、あっさりと答える。
「門を乗り越えたのよ。後宮は景観重視で、塀が全体的に低いから」
彼女の言葉に李美人は唖然とした顔になるが、すでに踵を返していた月華は気付かない。そのまま侍女を連れて、彼女は自分の部屋に向かう。
けれどその道すがら、月華は不意に浮かない表情になり、ひっそりと溜め息をついた。
(……阿晶の馬鹿。あんたがちゃんとしないから、妃たちが苦しむのよ)
阿晶。
郭 貞晶、現帝・景耀の、幼名にちなんだあだ名だ。
今代の瑞喜帝と月華は、幼なじみの関係にあった。若くして妻を亡くした月華の父が、景耀の母・林氏の異母妹を後妻に迎えたことで、二人は血の繋がらない遠戚として引き合わされた。
二歳違いの景耀と月華は、「小萌」、「阿晶」と互いの幼名を気安く呼び合い、共に後宮を駆け回った。木登りをしたり、その辺に転がっている枝を剣に見立てて殺陣ごっこをしたり、蝉の抜け殻をどちらが多く集められるか競ったり。月華が母に連れられて後宮に上がるたび、周囲が呆れるほどの腕白ぶりを発揮し、日が暮れるまで二人で遊んだ。
自分に向けられた屈託のない阿晶の笑顔を、月華は今でも鮮明に思い出せる。
でも、彼は冠礼を迎える頃、皇太子になってしまった。そして、その四年後には皇帝に。とても、それまで通りではいられなかった。
貞晶──景耀は皇太子時代、周りにどれだけ言われようとも、妻を娶ろうとしなかった。即位後の後宮でも、せっかく迎えた妃たちには目もくれず、政務に勤しんでばかりいる。
貴族の姫として大切に育てられた皇帝妃の中には、その屈辱に耐えられず、複雑な感情を持て余す者もいた。李美人も恐らく、その一人。
そんな中で、ただ一人、月華だけが何度も何度も閨に呼ばれた。もちろん、一度も応じてはいないのだけれど。
(私なんかに構ってる暇があるなら、もっとちゃんと、寵妃を作りなさいよ)
月華はきつく唇を噛み締める。猫に例えられる大きな瞳に涙が滲んでいることに、本人も気付いてはいなかった。
その後も、瑞喜帝と月華の、宦官経由の押し問答は続いた。
「楊美人様、今宵も陛下がお呼びで……」
「嫌よ。体調が優れないの」
「もう体調はよろしいのですよね? 今晩は……」
「残念だけど、豪雨の夜は殿方の寝室に行ってはならないって、曾祖母様の教えなの」
「……楊美人様! 陛下のお立場もお考えください!」
「知らないわ。女性と共寝したいのなら、他の美人を訪ねれば良いじゃない」
景耀は深い溜め息を零す。けんもほろろな月華の態度に、朝堂の官たちからも異議が出始めていた。「陛下の優しさに胡座をかく悪女」と、公然と批判する者もいる。
月華とのやり取りの合間に、二人ほど、まだ召していなかった妃を寝室に呼んだが、ついにその相手も尽きてしまった。
景耀はじっと口元に手を当てて、目を伏せる。
(……そんなに俺が嫌いなのか? 小萌)
義兄たちが後継者争いで共倒れになり、景耀が皇太子に任じられたのは、五年前。十五歳の時だ。にわかに環境が変わり、二歳下の幼なじみとも、気軽に交流することが出来なくなった。
そして一昨年、二十年近く帝位に就いていた父が「ちょっとゆっくりしたい」と突然宣言したため、一年に及ぶ調整の果て、景耀は至高の位を継ぐことになった。
ただ、父にも負い目があったようで、「妃には一人、気心の知れた者を迎えさせよう」と破格の気遣いをしてもらった。その「気心の知れた者」が、月華だった。
彼女にも、思う相手や望む未来があったのかも知れない。それを景耀の事情でねじ曲げてしまったことを、申し訳なく思う。それでも──景耀は月華が欲しかった。
幼なじみの気安さだけではない。三年前、笄礼の儀を終えた報告にと、小萌が母の林妃を訪ねて来た際、景耀もその場に居合わせた。二年ぶりに会う幼なじみは、ぐっと大人びていて、共に遊び回った山猿のような少女と同一人物だと思えなかった。
名を「月華」と改めた、高貴な猫のような神秘的で美しい女人が、伏し目がちに顔を上げた瞬間。彼の心は、一瞬で奪われてしまったのだ。
ところで、祥では、女性の婚姻可能年齢、とりわけ後宮入りの最低年齢が厳格に定められている。その十七歳という年齢を待って、景耀は彼女を皇太子妃に迎えたいと考えていたが、思うようにはいかなかった。
月華の楊一族は旧家だが、朝堂の中心から遠ざかって久しい。彼女を皇太子妃に、そして皇后にというのは、容易なことではなかった。
(あるいは、俺の即位までにもっと時間があれば……。彼女を娶って子を成していれば、彼女を正妃に抜擢しても、文句は少なかっただろう)
手を打ちあぐねているうちに時間が経ち、彼は未婚のまま皇帝となった。ならばせめて、後宮の一員となった彼女を寵妃にして、皇后に封じたかったのだが、肝心の月華には逃げ回られる始末。
月華は貴族の娘だ。夜伽の重要性を叩き込まれている彼女が、これほど拒否するとは、自分はよほど嫌われているのか、恨まれているのか。
(うん、大分……、落ち込むなぁ……)
今日も今日とて、「頭痛が痛いので伽は無理です」との返答。もはや、誤魔化し方すら雑だ。重言は確実にわざとだろう。
「……仕事するか」
今夜は特に、「月華に断られたから他の妃を」などと、思えそうにない。彼女たちにも申し訳ないが、山積みになった書類を少しでも片付ける時間に充てさせてもらおう。
父譲りの色素の薄い髪を掻き乱しつつ、景耀は灯籠に明かりを灯させるべく、近侍を呼んだ。
その日の朝も、月華の内心を映したような、薄曇りの空だった。
「……ねえ、楊美人。私の息子は、貴女を傷付けるようなことをしたかしら?」
団扇で口許を隠して目を細めるのは、皇太后・林氏だ。瑞喜帝の母であり、月華の伯母である。林氏は皇后ではなかったが、先帝の皇后の体調が思わしくないため、彼女に皇太后の位が追尊された。そして、皇后のいない現帝の後宮で、彼女が仮初の主を務めている。
夜伽を拒む月華の話は、当然、彼女の耳にも入っているだろう。林氏は、血の繋がらない姪を実の娘のように可愛がっているが、それでも彼女の無体を容認するほど、甘い人ではない。月華はじっとその場に俯く。
「……陛下は、英邁であらせられます」
「そうね。ではどうして?」
「それは……」
視線を下げたまま、月華は膝の上に揃えた拳を握り込む。声が震えているのを自覚しながら、月華はそっと呟いた。
「……陛下に、直接お話したく思います」
皇太后に対するとんでもない不敬に、けれど林氏は苦笑のみで応じる。
「そうね、ちゃんと話し合ってちょうだい。……正直、後宮の統率なんて、私には荷が重いの」
「それは……」
顔を上げた月華が眉を顰めると、林皇太后は肩を竦めて笑った。
「誰でも良いとは言わない。『誰が』良いとも、私は言わない。私はただの淑妃に過ぎなかったし、軽々なことは言えないわ」
それでも、上級妃として後宮を生き抜いてきた女性の目は、猛禽のように鋭い。彼女はひらりと団扇を振り、無言で月華に退出を促した。
数日後、月華が自室で夕餉をとっていると、いつかの宦官が姿を見せた。
「楊美人。今日こそ、今日こそは、覚悟を決めていただきますよ!」
「……ずいぶん早い時間にお越しね、梟内常侍」
「貴女が! いつもいつも! 逃げ回るからでしょう!」
鼻息も荒く叫ぶ彼に、月華は表情を変えないまま、両手で耳を塞いだ。
彼はどうやら、その時間まで間近で月華を見張るつもりらしい。部屋の扉の外にも、窓の向こうにも、配下を数名付けるほどの徹底ぶりだ。
(さすがにもう、逃げられないわね……)
伯母にも釘を刺された。観念すべき時なのかも知れない。
俯いた月華は、あの日握り締めた拳の痛みを思い出し、そっと手のひらに目線を落とした。
今、後宮にいる妃──美人は、月華を含め十三名。そのうち十二名は既に、一度目の伽を終えていた。「あとはお前だ」と言わんばかりに、それ以降、景耀は誰も寝所に召さずにいる。
月華は奥歯を噛み締め、顔を上げた。
今や「後宮一の悪女」の名を得つつある彼女だ。きっと彼も呆れているだろう。
(阿晶は、根が真面目だから……。きっと、誰かを寵愛するには、「まず一度は全員と関係を結ばなくては」などと考えているのでしょう。いつまでも私のわがままで、彼が寵妃を得るのを妨げてはいけない)
月華の知る郭 貞晶とは、そういう人だ。
子ども時代は二人で悪さもしたが、それでもいつも、月華が暴走して怪我をしないよう、気を配ってくれていた。月華に政治のことは分からないものの、誠実な賢帝だという噂は、早くも聞こえつつある。
彼女はともすれば震えそうになる身体を叱咤し、戦士のような光を目に宿した。本能が食事を欲している。まずはと月華は眼前の食事の皿に向き直り、箸を持つ手に力を込めた。部屋の隅で、梟内常侍が頬を引き攣らせている。
「あの、……楊美人? くれぐれも、お召し上がりになりすぎないように」
「わはっへひるわ」




