第30章―1 1941年年末の様々な想い
新章というか、第3部のエピローグになります。
そんな出来事が、英本土であったこと等、米内洋六中佐にしてみれば、全く関わりが無いことだった。
スヘルデ河口部のドイツ軍の掃討を果たした後、ドイツ軍にしても、ドイツ本土の防衛を最優先に守備隊の再配置等を進めた、という事情もあるのだが。
ベルギーやオランダ等の本土を、英仏日等の連合軍からの攻勢から死守しようとするドイツ軍の激烈な抵抗は乏しい事態が引き起こされたことから、1941年末には、日本海兵隊とユダヤ人部隊が主力となって、ベネルクス三国の本国領解放を進めたことから、ドイツ軍は、ベネルクス三国の本国領内からは、ほぼ撤退するという事態が引き起こされることになっていたのだ。
勿論、ドイツ軍とて抵抗が乏しかった、というだけで、好機と見れば、それなりの規模の反撃を行なうことを躊躇うものではなかった。
それこそ、ほぼ1年半前の夢の勝利と言える、フランス本土等への侵攻作戦の勝利を再演しようとして、ドイツ軍はそれなり以上の兵力を投じて、1941年12月にアルデンヌ高原を主方面として、主に英軍に対する反攻作戦を展開する事態が起きた程だ。
そして、一時はミューズ川を渡河して、アントウェルペンに手が届くのでは、という幻想をドイツ軍に抱かさせることになったが。
最終的にはこの反攻作戦は、英仏両軍を主力とする連合軍の再反攻の前に、ドイツ軍は多大な兵力を損耗する事態が起きて、ドイツ軍は元の防衛線への撤退止む無しの事態に、ほぼ至ったことから、ドイツ軍の敗北に終わった、と両軍共に判断する事態が引き起こされることになっていたのだ。
尚、その際に日本海兵隊は、北側からのドイツ軍への再反攻に協力することになっており、連合軍内で量はともかくとして、質的には最精鋭の戦車部隊としての名を再び上げることになってもいた。
そうした状況から、来年の1942年以降、ドイツ軍は、ライン河を西部戦線における最大の防壁として、英仏日等の連合軍の大攻勢を跳ね返して、少しでも有利な講和条約を、連合国との間で締結しようと策す事態に陥りつつあった、といっても過言ではない状況だったのだ。
その一方、そうした横やりが入ったこともあって、オランダ本土全土の解放が、やや遅れたのも事実ではあった。
その為に、クリスマスをアムステルダムで過ごせるだろう、と期待されていた間もなく4歳になるオランダのベアトリクス王女(この世界の現オランダ女王ウィルヘルミナの嫡長孫であり、史実では1980年にオランダ女王に即位されている)の期待に添えなかったとして、オランダ陸軍参謀総長が、ウィルヘルミナ女王に、形式的な代物とはいえ、進退伺を出す羽目になった、という噂が、日本海兵隊には伝わってきており、色々な想いを日本海兵隊の面々にさせてもいたが。
(尚、実際にオランダ陸軍参謀総長からの進退伺は出されていて、ウィルヘルミナ女王は、ベアトリクス王女の誕生日である1月31日までに、アムステルダムで過ごせることになった以上、気に病む必要は無い、と慰留する事態が起きていた)
米内中佐にしてみれば、それ以上に気に掛かることがあった。
この世界における上海事件や、それ以降に起きた様々なことから、米内中佐はユダヤ人について、色々と状況を機に掛けざるを得なかった。
そして、それこそ裏の筋までも使って、ユダヤ人の情報を集めてきたのだが。
ベネルクス三国やフランスの本土において、ユダヤ人が絶滅に近い状態に、ドイツ政府、軍によってされてしまったらしい現状が、米内中佐には把握されつつあったのだ。
本当にどうしてこうなった、又、ユダヤ人は今後はどうするだろうか。
そんな想いを、米内中佐は覚えていた。
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