5
「江崎!」
翌日大学に行った和孝は、昼休みになるとさっそく江崎を探して声を掛けた。
「よお。すぐにわかったか?」
休憩フロアの自販機でドリンクを選んでいた江崎はそう言うと、和孝に笑顔を向けながらポチッと目の前のボタンを押す。すぐにガコンと音がして、下の取り出し口に缶ジュースが落ちて来た。
「ああ、ありがとな。すぐにわかったよ」
和孝は江崎に礼を言うと、静也の母親に会ったことも話す。仏壇を見て涙ぐんでいたことを話すと、江崎は「そうか……」と言って珍しく次の言葉を躊躇うように視線を外した。
「弟……まだ入院してるのか?」
それとなくカマを掛けると、江崎が驚いたように視線を戻す。
「なんだ、知ってたのか」
きっとどこまで話したらいいのか躊躇していたのだろう。江崎はホッとしたようにそう言うと、眉尻を下げて苦く笑った。
「ケガはたいしたことなかったんだけどな。意識が戻らなくてさ……」
(意識が……)
「みんなで話し掛けたり音楽を聞かせたり色々してみたんだけど、事故から一ヶ月以上経つのにずうっと眠ったままだ」
すると、その言葉を聞いた幽霊が胸前で手を握り合わせて江崎の前に進み出た。
「弟に会わせてください。弟はどこに入院してるんですか?」
もちろん、その必死の声音は江崎には届かない。
「それで、どこの病院に入院してるんだ?」
代わりに尋ねると、江崎はちょっと躊躇ってから隣町にある大きな病院の名前を教えてくれた。
「でも、面会謝絶になってる筈だから行っても会えないと思うぞ。奴のオフクロさんが毎日通ってるけど、午前中しかいないし」
「そうか……」
江崎の話だと、一般の見舞い客の面会時間は三時かららしい。しかし、幽霊なら誰にも見咎められずに病室に入ることが出来る。和孝は江崎に礼を言うと、さっそく病院に向かうべく踵を返そうとした。その腕を、不意に江崎がグイと掴む。
「瀬能、佐伯先輩とは面識が無かった筈だよな。なんで急に?」
和孝は江崎を振り返り、説明に迷う。自分の行動が腑に落ちないから、江崎も病院の名前を教えるのを躊躇ったのだろう。だが、本当のことを話しても、きっと信じて貰えないに違いない。しかし、協力して貰った手前、何も言わないわけにもいかなかった。
「上手く話せないんだけど、たぶん俺は佐伯先輩と知り合いで、その弟のことを助けたいんだ。ごめん、本当に上手く説明出来ないんだけど……」
幽霊の存在を省くと、やはりどうしても上手く事情を説明することが出来ない。しかし、必死に言葉を選びながら言うと、少しだけ心配そうに寄せられていた江崎の眉がフッと解けた。
「そうか、わかった」
江崎は安心したようにそう言うと、笑顔を見せて和孝の腕を離す。
「じゃあ、俺も一緒に行くよ。俺は何度も見舞いに行ってるから、ナースセンターに声を掛ければ中に入れて貰えるんだ。さっきも言ったけど、今はどんな刺激でも欲しい。お前の声を聞いたら意識が戻るかもしれないしな」
「え、でも……」
江崎は毎日、午後はバイトが入っていた筈である。そう言うと、江崎が心外そうに眉を寄せて苦笑した。
「いくら俺でも優先順位は心得てるよ。ダチが困ってんのに放っとけるわけないだろ」
「ダチ?」
江崎の言葉に和孝は驚いてその顔を見返す。江崎は尻ポケットから携帯電話を取り出すと、ボタンを押して耳に当てた。
「あ、タケか? 俺だけど」
江崎は和孝に背を向けながらそう言うと、二言三言相手と言葉を交わしただけでパクンと閉じる。
「オッケーだ。さあ、行こうぜ」
「い、いいのか?」
驚いて問うと、和孝の言葉に江崎がニッと笑った。
「タケにはこの前、合コンの時に替わってやった貸しがあるからな。ま、世の中持ちつ持たれつよ」
江崎はそう言うと、顎をしゃくって和孝を促す。
「はあ……」
和孝は唖然としたまま頷くと、慌てて江崎を追い掛けて外に出た。
「佐伯優也とは高校の同級生だったんだ」
校門を出て大学前のバス停に向かいながら江崎が言う。
「あ、『優也』ってのが弟の名前なんだけどな」
江崎の言葉に和孝は驚いたが、すぐに合点した。だから江崎は身近な者しかわからないような情報を知っていたのだ。すぐに駅行きのバスがやって来て、二人はそのバスに乗り込む。二人掛けの椅子の窓際に江崎が座ったので、仕方なく通路際に腰掛けると、幽霊は少し迷ってから和孝のすぐ後ろの席に座った。
「優也はもともと病弱で、中学生くらいまではずっと入退院を繰り返していたらしい。本人の希望で高校に進学したけど、授業はほとんど来れなくてさ。いつも出席日数ギリギリだったな」
「そうか」
江崎の言葉に和孝は短く相槌を打ち、後ろの席をチラと振り返る。幽霊は江崎の言葉を聞いているのかいないのか、ずっと無言で俯いたままだった。バス停に停まる度に新しい乗客が乗り込んで来るので、和孝は誰かが幽霊のいる席に座ろうとするのではないかと思いソワソワする。しかし、どんな作用が働いているのかはわからないが、幸いにも誰も幽霊のいる席に座ろうとする者はいなかった。
「本当はさ、優也もウチの大学に来る筈だったんだ」
「え?」
江崎の話は続いていた。和孝がちょっと驚いて見返すと、江崎が眉を寄せて苦笑する。
「っていうか、今もウチの学生なんだけどな。新入生名簿にも載ってるし、ちょっと春休みに事故っただけだから休学にもなってないし……」
江崎の言葉に和孝も頷く。怪我はたいしたことなかったというから、意識さえ戻れば普通に大学に来れるのだ。
(静也とは違って……)
兄である静也は、もう大学に戻ることは出来ない。幽霊のことを思って瞳を陰らせると、隣で江崎も声を落として言った。
「優也の場合、目が覚めないのは精神的な理由じゃないかと思うんだ……」
「精神的な理由?」
江崎の言葉に、和孝はその理由を問う。
「っていうか、そう思ってんのは俺じゃなくてオフクロさんなんだけどさ……」
江崎はそう前置きすると、財布を出して立ち上がった。窓の外を見ると、大きな駅ビルが目の前に迫っている。バスはロータリーに入ると、たくさんある停留所の一つに停まった。
「何かあったのか?」
新聞記事には二人は飲酒運転の車に轢かれたとしか書かれていなかった。バスを降り、駅舎へ向かう後ろ姿に向かって問うと、江崎がエスカレーターに乗り込みながら答える。
「庇ったんだ……」
江崎は背を向けたままそう言うと、少しだけ体を反して和孝を見た。
「車に轢かれる瞬間、静也は優也を突き飛ばしたらしい」
「え……」
そして、兄の静也は即死し、弟の優也は軽い怪我だけで助かった。
「軽い怪我っていっても頭を打っててさ。まだ意識が戻らない枕元でオフクロさん、号泣しながら言っちまったらしいんだ」
『なんで静也がッ……!』
「……ッ!」
「別に『優也なら良かったのに』って意味で言ったんじゃないと思う。静也はオフクロさんにとっては自慢の息子だったからな、きっと気が動転していたんだろう。優也にとっても静也は自慢の兄だったから、自分の為に静也が死んだとわかれば絶対にショックを受けたと思うんだ」
「でも、意識は戻ってなかったんだろ?」
慌てて問うと、券売機の方へと向かいながら江崎が曖昧に笑う。
「端から見て『眠ってる』と思っても、本人は意識がある時ってあるだろ?」
江崎の言葉に、和孝はハッとして息を呑む。それはつまり、意識が戻っていなくても本人には周りの声が聞こえていたかもしれないということだろうか。意識を失ったことのない和孝にはわからなかったが、確かに可能性としてはありそうだった。
「じゃあ、弟はその時のショックで目を覚まさないってことか?」
尋ねると、和孝の言葉に江崎が曖昧に首を傾げる。
「あくまでも仮説だ。でも、もしそうだとしたら優也を目覚めさせられるのは静也だけってことになっちまう。でも、優也を助けることの出来る静也はもう……」
江崎の言葉に和孝は胸中で、いや、と呟く。そのキーマンならここにいる。静也の幽霊である『ユウ』が会いに行けば、もしかしたら弟は目を覚ますかもしれない。和孝は江崎と共に改札をくぐりながら、チラと幽霊を振り返る。幽霊は和孝の少し後ろをおとなしく付いて来ていたが、何を考えているのか、相変わらず無言で俯いたままだった。
「ちょっと待ってて。ナースセンターに挨拶して来るから」
一般の面会時間までにはまだ一時間ほどある。江崎の言葉に和孝は頷くと、廊下の両脇に並んでいる病室を眺めた。面会時間前でも病室内には結構見舞い客がいて、話し声や笑い声が廊下まで聞こえている。きっと家族か近親者なのだろう。午後の病院内には穏やかな空気が流れていた。
「大丈夫か、ユウ……」
少し離れた場所で江崎を待ちながら、和孝は自分の横に立つ幽霊にそっと声を掛ける。幽霊はとうとう大学を出てから、ひと言も口をきかなかった。気になって問うと、その言葉に幽霊が少しだけ視線を上げる。
「大丈夫です……」
その声が明らかに沈んでいるのを見て、和孝はどうしたのかと幽霊を覗き込んだ。
「どうした、具合でも悪いのか?」
相手が幽霊だということを忘れて問うと、幽霊はジッと和孝を見上げてから、フイと視線を逸らして再び俯く。
「和孝さん……」
「うん?」
ようやく言葉を発した幽霊に安堵して問うと、幽霊は暫く躊躇ってから辛そうに眉を寄せて顔を上げた。
「僕は……まだ一番ですよね?」
「え?」
和孝は幽霊の言葉の意味を量りかねてその顔を見返す。幽霊は再び俯くと、ギュッと唇を噛み締めてから言った。
「僕はなぜ死んでしまったんだろう……なぜ生きているうちに和孝さんに会わなかったんだろう……」
「ユウ?」
驚いて見詰めると、幽霊が「だって……」と言って言葉を切る。そしてギュッと目を閉じると、思い切ったように口を開いた。
「僕が成仏したら、和孝さんは僕のことを忘れてしまうでしょう?」
「ユウ……」
今にも泣き出しそうな幽霊の言葉に、和孝は掛ける言葉が見つからずにその顔をじっと見詰める。
「怖いんです……」
幽霊は声を震わせながらそう言うと、ギュッと自分の両肩を抱き締めた。
「僕の存在が消えてしまうことも怖いけど、それ以上に、これからもずっと和孝さんの傍にいられるあの人が羨ましくて……そんなことを考えてしまう自分が浅ましくて怖いんです……」
「ユウ……」
和孝は幽霊が初めて漏らした本音の言葉にグッと唇を引き結ぶ。そして意を決して体を反すと、正面から幽霊を見詰めて言った。
「このまま帰ってもいいんだぞ、ユウ……」
「え?」
和孝の言葉に、幽霊が驚いて顔を上げる。和孝は問うように揺れている幽霊の瞳を見返すと、ずっと思っていたことを告げた。
「俺にとって『佐伯優也』は縁もゆかりも無い男だ。冷たい言い方だけど、その男が目を覚まさなくても俺は別に構わない。お前が成仏出来ればと思って協力してきたけど、お前が望むなら……」
和孝はそこまで言って言葉を切ると、「いや、違うな」と言って自分の言葉を否定する。そして、意を決して幽霊を見詰めると、真剣な眼差しで言った。
「それを望んでいるのは俺自身だ。俺はユウにずっと傍にいて欲しいと思ってる」
「和孝さん」
驚いたように見開かれていた幽霊の目が、その言葉を聞いた途端にウルリと潤む。次の瞬間、大粒の涙が盛り上がってポロリと縁から零れて落ちた。
「ありがとうございます……」
幽霊は震える声音で囁くようにそう言うと、唇を噛んで俯く。透き通った涙は後から後から溢れ出し、幽霊のなめらかな頬を伝って顎の先から落ちた。その時。
「瀬能!」
ナースセンターで面会の手続きを終えた江崎が、こちらを振り返って和孝を呼ぶ。
「病室こっちだぞ」
「あ、ああ……」
和孝は江崎に返事を返すと、涙で濡れた頬を必死に拭っているユウに視線を戻した。
「ここで待っててくれ、ユウ。見舞いだけしてすぐに戻って来るから」
江崎に気付かれないよう小声で言うと、しかし幽霊が「いえ」と言って顔を上げる。
「僕も行きます」
そのきっぱりとした声音に、和孝は困惑して「でも」と返した。
「行きます。僕もずっと和孝さんと一緒にいたいけど、でも、これが僕に出来る最後の親孝行だと思うから……」
「ユウ……」
幽霊の言葉に、和孝はギュッと眉を寄せて唇を噛み締める。
「ありがとうございます」
幽霊は和孝を見上げて再び礼を言うと、ふわりと目元を和らげた。
「僕はさっきの言葉だけで十分です。これできっと成仏出来ます」
幽霊は何かが吹っ切れたようにそう言って微笑むと、先を行く江崎に向かって走り出す。
「ユウ!」
和孝は慌ててその後を追うと、幽霊の腕を掴もうとして空を掴んだ。
「クソッ! 開けるな、江崎!」
「えッ?」
和孝の言葉に、病室のドアを半分ほど引き開けていた江崎が驚いたように振り返る。幽霊はその脇をスルリとすり抜けるようにして駆け抜けると、病室に一歩踏み込んだところで掻き消えた。
「ユ……!」
まるでホログラムか何かのように一瞬で掻き消えたその場所を見詰め、和孝は愕然として叫ぶ。
「ユウ!」
和孝はドアの脇に突っ立っている江崎を突き飛ばすようにして病室に駆け込むと、どこかにユウが隠れているのではないかと必死になって辺りを見回した。その時、ベッドの周りに下げられた白い仕切りカーテンの向こうで人影が微かに動く。
「にい……さん?」
掠れた弱々しい声音が和孝に向かって問い掛け、和孝は思わずギクリとすると、その場で凍り付いた。
「優也ッ?」
その声を聞きつけて、戸口で驚いたように和孝を見ていた江崎が病室に飛び込んで来る。
「意識が戻ったのか、優也!」
江崎は大声で叫びながらカーテンの内側に飛び込むと、すぐにナースコールで意識が戻ったことを看護婦に伝えて、再び飛び出して来た。
「やったな、瀬能! 俺、おばさんに電話して来るから!」
江崎は大喜びでそう言うと、「優也のこと見ててくれ!」と言い置いて電話ボックスのある談話室へと駆けて行く。和孝はその後ろ姿をぼんやり見送ると、再びゆっくりとベッドに向き直った。
(そうか……)
では、幽霊は成功したのだ。佐伯静也は兄としての役目を果たし、家族に最後の恩返しをして消えたのだ。
(サヨナラも言わずに……)
その途端、喉の奥に何か固まりのようなものがせり上がって来て、息を吸い込もうとした和孝はヒクッと喉を引き攣らせる。次の瞬間、両目から熱い涙がドッと溢れ出し、和孝はその息も出来ないほどの激しい震えが嗚咽なのを知った。
(ユウ……!)
和孝はその場に立ちつくしたまま、必死になってその嗚咽を噛み殺す。その時、和孝の気配を感じ取ってか、先程と同じ声が「誰?」と囁くように尋ねた。半分だけ開けられたカーテンの向こうに、白いシーツの掛けられたベッドが見える。
「ごめん……」
和孝は慌てて袖で目元を拭うと、カーテンの内側に向かって震える声で謝った。
「すぐに江崎が来るから……」
そうは言っても相手の顔が見えないのでは不安だろう。そう思ってカーテンの陰から顔を出した和孝は、そこにいる人物を見るなり「えッ?」と言って目を見開く。
「佐伯……静也?」
真っ白なベッドの上に横たわっていたのは、仏壇に飾られていた遺影と瓜二つの青年だった。
「なんで……」
和孝は訳がわからずに呟くと、震える手でカーテンを掴む。するとそこへ、電話を終えたらしい江崎が「違うよ」と言いながら入って来た。
「こいつは佐伯優也。静也の双子の弟だ」
「双子……?」
和孝は目の前の青年を凝視したまま、江崎の説明に呆然と返す。その青年は柔らかな眼差しで和孝を見上げると、江崎の言葉を肯定するようにニコリと小さく笑った。
(じゃあ、ここにいるのは……)
「前にも話したけど、優也は子供の頃から病弱でさ。本当は俺らよりも一コ上なんだけど、一年ダブッてるんだ」
江崎の説明はまだ続いていたが、もう和孝の耳には入って来なかった。和孝は掴まっていたカーテンを離すと、ゆっくりとベッドに歩み寄る。
「ユウ……」
奇しくも全てのピースが揃ってしまったのだ。暗い廊下を彷徨っていた幽霊は、ずっと捜し続けていた自分の体を見つけ、『佐伯優也』の体に戻ってその記憶も取り戻した。
「ユウ……」
「おい。大丈夫か、瀬能?」
何かに憑かれたように小声で呟きながらベッドに近付いて行く和孝を見て、江崎が慌てて引き止めようとする。すると、ベッドに横たわっていた青年が白いほっそりとした手をゆっくり上げて、和孝に向かって差し伸べた。
「約束……覚えてますか?」
その囁くような小さな声に、和孝はハッとして目を見開く。そして、信じられない面持ちで青年の顔を凝視すると、自分も震える手をそろそろと伸ばした。
「ユウ……なのか?」
和孝の真剣な眼差しに、幽霊が……いや、佐伯優也が目を細めて柔らかく微笑む。
「僕はまだ、和孝さんの一番ですか?」
囁くように尋ねられた和孝は、途端にクシャリと顔を歪めると、自分に向かって差し出された手をギュッと掴んだ。
「もちろんだ……!」
答えた声が不覚にも震える。兄の静也よりもいくぶん幼さを残したその顔は、確かに自分のよく見知っている愛しい幽霊のものだった。
「ユウ……!」
和孝はその手を両手で掴むと、神に感謝するように額を押し当てる。その時、フワリとどこかから風が吹いて、甘やかな香りが二人を包んだ。
(あ……)
それが幽霊から漂っていたのと同じ匂いなのに気付き、和孝は窓辺に視線を向ける。そこには花瓶に生けられた色とりどりの花々が、白いカーテン越しの柔らかな日差しを受けて匂いたつように輝いていた。




