虚構と邂逅
海だプールだ何だのをテレビが連飽きもせず放送をしているそんなある日。
カーテンで締め切られた窓からはそんな夏の灼熱を遮断し、空調が効いた部屋は若干肌寒く感じる程であった。長時間の通話とゲームで端末は発熱し、おまけに電池残量も心許ない状態であった。
潮時だなと思ったのか少年は通話を落ちる旨を、先ほどまでゲームを共にしていた相手に伝え通話を切った。少年はヘッドフォンを外し、机の上に投げ捨てるように置く。その反動でからの空き缶が机の上から転がり落ち軽い音を立てる。
数時間ぶりにヘッドフォンの抑圧から解放されたであろう少年の耳には汗の雫が幾つもついていた。
少年はエアコンを止め、窓から夏の風を招き入れる。いつもなら毒沼のように体力を削る熱風も、冷蔵庫よろしく冷えた部屋に長時間いた少年には心地がよいのであろう。そのままベッドの上にだらりと寝転ぶ。
時折吹く風がカーテンの薄布をまくり上げ、蝉の声と近くのプールからであろう子供の甲高い笑い声が夏真っ盛りだと少年に告げているようである。
そのまま少年は天井を見上げていると眠気がこみ上げてきたのか大きな欠伸をする。
少年は昨日も夜遅くまでゲームしていた為寝不足なのだろう。
そのまま眠気に身を任せ寝てしまうのかと思われた。だが、思い出したかのように、目を開き体を起こしこういった。
「しまった! 夜分のエナドリッ」
頭をポリポリと掻きながら、のそりとベットから起き上がる。
「一度寝ちゃうと外出するのもまた面倒臭いんだよなぁ」
少年は身体を引きずるように家の扉をくぐるとそこは灼熱の毒沼だった。外気からのスリップダメージを受け続けるしんどさを少年の額の滝のような汗が物語る。
「全く……恋に落ちる音もしてないのに溶けてしまいそうだよ」
少年はぼやく。そして進む、ジリジリと肌を焼く直射日光。みるみるうちに少年の服はまだら模様になっていく。そんな折、
「たすけて!!」
と、甲高い声が少年の曇った頭に、血が巡り、反射的に首を音の方向へ向ける。
今は日曜日の昼時である。近くには飲食店の建ち並び賑わいを見せる通りもある。同じ様に声を聞いた人も居ることだろう。このあたりは治安がいいはずなんだけれどなと少年はつぶやく。
一体何事であろうか、少年は声のしたと思われる方向へと進む。ところが声のしている地点には誰一人として人が居なかった。
かわりに少年の目が捉えたのは、一匹の白猫に襲い掛かる黒い靄が集まったような奇妙な黒い物体だった。
その靄を睨みつける猫の体には裂傷が刻まれ、高級絨毯のようなきめ細やかで柔らかそうな毛皮があたりに散乱していた。
そして、黒い物体の触手のような長く細い何かには白い毛が付着していた。間違いなく目の前で地面に倒れ伏す猫のものであろう。
予想だにしなかった光景を目にした少年は驚きの声を放つと同時に硬直する。
その猫はフラフラとした足取りで立ち上がり、再び猫に迫りくる触手のような攻撃を避ける。こんな時でなければ演舞にも見える程に、ギリギリで攻撃を避け続ける姿を少年は魅了されたかのように見つめていた。
だが、突然白猫の体がガクリと沈む。体力が限界なのか、脚がもつれたのか原因は分からない。が、崩れたバランスを立て直す暇を黒い怪物は与えない。怪物から伸びる黒い触手のような物体が白猫を突き殺さんばかりに白猫に迫る。
それまで立ち尽くしていた少年は弾かれたかのように猫を抱え飛び退く。
黒い靄の様な物体から繰り出された攻撃が、先程まで猫がいた空間を通り過ぎる。
腕の中に抱え込まれた白猫は眼を見開き、口をあぐあぐと開閉させていた。驚いたのだろうか、いずれにしろ、それはあまりに人間くさい動きであった。
「な、なんでこんなとこに人が要るにゃ!!!」
腕の中で猫が叫んだ。今度は少年がが同じ表情をする番だった。驚きのあまり身体がはね、その腕の中にあった猫も軽く跳ね上がる。
「正直ジリ貧だなと思ってたから助かったけどなんでにゃ」
再び猫目掛け飛んでくる攻撃で驚きから復帰した少年は、再び攻撃をよけながら、猫に向かって答える。
「たすけてって声が聞こえたから」
「?……もしかして助けに来てくれたにゃん?」
腕の中の猫が目を潤ませ、少年の瞳を見つめる。少年はその言葉に気まずそうな表情になり、一拍おいてこう言った。
「正直に言うと……野次馬しにきたんだ。声の主が猫なんて展開は予想外だけど」
猫が少年にに噛みつく。字面の通り少年の素肌に噛みつく。少年は痛みを感じなかったのか平然としている。
「まぁいいにゃん、ちょっと手を貸せにゃん。あいつを倒すにゃん」
「なんでだよ」
「乗りかかった船にゃん。一度助けたんなら、助けきるのも変わらないと思わないにゃん?」
「思わないね。私はアレが何か知らないんだ。そんな得体のしれないもの相手に戦いを挑むほど無鉄砲じゃないさ」
現実世界で見たことも無い怪異相手から三度繰り出された攻撃を必死に交わしながら、少年は答える。
「私はよく知る敵にゃん。そして、君ならあいつを倒せるにゃん」
「嫌だね。既に手一杯だ」
その予備動作は非常に遅く、攻撃も直線的な為か避ける事が出来ている少年は言う。
「アレの正体は気になるけど倒すリスクを負うほどじゃない。これ以上駄々こねるっていうなら脅す訳じゃないけど、私はこの手を離す用意があるよ?そっちのほうが身軽だしね」
逃げる余力を残していなさそうな腕の中の猫に選択肢のない問いを投げかける少年。そんな少年に猫は一瞬驚きの表情を浮かべたのち、すぐさま笑って言う。
「にゃはは、逃げてもいいにゃんよ。ただ脅す訳じゃないにゃんけど、どうやってココから逃げ帰るつもりにゃん?」
白猫は少年にお返しだと言わんばかりににたりと言う擬音が似合う顔で言う。その意味深な言葉に少年は首をかしげる。
「気づいてなさそうだから教えてあげるにゃん。ここは現実世界とは違う別の空間、いわば裏世界にゃん。君はそこに迷い込んだにゃん」
「別の世界? それに迷い込んだ? 藪から棒にそんな事を言われて信じるほど頭空っぽに見える? もうちょっと有り得そうな嘘つきなよ」
少年は白猫の発言に首を竦めてため息をつき、やれやれとでも言いたげなジェスチャーと共に白猫に問い返す。
「あんなの現実にいると思ってるにゃん。頭大丈夫にゃん」
顎で空気が抜けるような音と共に触手と体をくねらせている怪物を指し、少年の腕の中の白猫はいう。
「どの口が言ってるのさ?喋る猫も現実に居ないわ」
「それ引っ括めて現実に起こりえない異常事態にゃん。そんな異常事態で事情を知ってそうな私の事、助けておくに越したことはないと思わないかにゃん?あぁ、もちろんアレと会話が出来ると思うなら、それでも別にいいにゃんけど」
どうする?とでも言いたげな顔で少年の顔を覗き込む白猫。
「こんな訳の分からない場所に知らないうちに迷い込むような人間が、無事にここから抜け出した後再び迷い込むことが0といえるかにゃん」
少年は、頭をガシガシと掻き観念したかのように言う。
「仕方ないかな。信用は出来ないけど、選択肢は用意されて無さそうだ」
「良い心意気だにゃん。まぁ先に選択肢を用意しなかったのはお前にゃん。私はそれまねしただけにゃん」
少年が苦虫をかみつぶしたような表情になる。
「悪かったよ。で、どうやって倒す? 私としては、大抵の物事はとりあえず殴ってみたら活路が見えてくるんだぜを実践したいところだけど」
少年は飛んできた黒い触手の攻撃を避けざまに蹴りを繰り出す。繰り出された蹴りは、黒い靄本体に届くもののそのまま通り過ぎる。
「とりあえず当初の予定通り殴ってみたが……だめそうだね」
「そりゃそうにゃん」
「やっぱ蹴りじゃダメか。殴ってみてないのに活路は見える訳も無し」
「その殴るって言葉の綾じゃなかったにゃん?」
そりゃそうさ、と少年はいい動く触手をしゃがんで躱しこぶしを打ち込む。しかし、再び攻撃は黒いあいつを貫通し、空を切る。まるでダメージを与えている様子ではない。
「見ての通り効いてないにゃん。人の言う事はちゃんと聞いた方がいいにゃんよ?私は倒し方を知ってるにゃん」
少年はその言葉を聞き流し、少年は黒い靄に再び殴りかかる。しかし、振り上げた拳は空をきり、黒い靄の化け物にはなんの変化ももたらさない。
少年は無言で猫の方をむく。効かないならば一体どうすればいいんだとでも言いたげな顔である。
「だから、言ったにゃん。人の言うことはちゃんと聞くもんにゃん」
「僕、自分の目で見たものしか信じないんだよね」
「ならその眼で見てる目の前の人の言う事、信じてみたっていいと思うにゃん」
「人の言うことならばね」
その少年のツッコミに白猫は取り合わず続ける。
「あの黒い靄は人の思念が形を持ったもんなんだにゃ。だから物理的に斬っても殴っても倒せないにゃん。倒すにはこちらも思念で攻撃しなきゃならない」
「なるほどね、あの謎生物はそういうタイプの産物なのか。日本人的には割と受け入れやすい存在だね」
確かに昨今その手の小説ないしアニメはありふれている。飽和しているとも言えるレベルにありふれている。少年はなるほど合点がいったとでも言うように手槌を打つ。
「うんうん、よく知ってるよ似た様な展開の作品を……たださ」
「ただ?」
「例によって首突っ込んだ奴は総じてろくな目に合わない。ここ重要じゃないかな?」
猫は一瞬考え、面白そうに笑った。それはおどけた顔で肩を竦めて見せた少年が苦い顔になる程だった。
「よし。じゃあやっぱり逃げよう」
「逃げるのは無理にゃん。ここの主を倒す他ないにゃん」
「ええー要は○○するまでまで出られない部屋って事ね。ありふれてるね」
録でもねぇーと顔に苦い顔を浮かべながら少年は言う。
「それが何かは知らないけど、多分そうにゃん。で倒し方はこっちも思念を使うにゃん。攻撃するイメージがそのまま攻撃になるにゃん」
「成程ね。僕は自分の目で見たものしか信じないから試してみるよ」
今まで抱えていた猫から少年は手を離す。猫は軽やかに着地すると素早く少年の背後に引いて言った。
「そいつは任せるにゃん」
「お前は?」
「わたしはガス欠にゃん。ちなみにクリア報酬は情報にゃん」
「それは確かに欲しいね」
少年は、つい最近読んだ、格闘漫画の正拳突きをイメージしながら、黒い靄に肉薄し、勢いの乗った拳を突き出した。
それを防ぐかのように黒い触手が伸びてくる。バチンというタイヤを殴った時のような鈍い反発音。思いもよらない衝撃だったのか少年の態勢が崩れる。
「なるほどね。つかんだぜ呪術の核心」
態勢を立て直した少年は不敵に笑う。眼前の黒い靄は今まで以上に体をうねらせている。
「かっこつけてるとこ悪いけど、なんも成せてないにゃん」
「ぐっ、痛いところを……まぁさっきのを本体に当てればどうにかなるだろ?」
何度も見た大きい予備動作からの触手での突き、少年は左手でその触手を払いのけ空いた胴体に拳を叩き込もうと拳を握る。
「だめにゃん!!」
そんな少年の行動を見て、背後の白猫は忠告の声をあげる。少年に迫る触手、それを跳ねのけようと左手の甲を触手に触れさせる。
鈍い肉の削れる音そして、血しぶき。突然のことに少年は小さく悲鳴を上げ、痛みの生じた場所を覗き込む。覗き込んだ手の甲は、触手に触れたであろう部分が削り取られていた。
「ぶっない!いや、当たってんだけどさ」
被弾した左手を痛みをどこかに飛ばすかのように振りながら少年は言う。その様子にほっとした様子の白猫はいう。
「こっちからの攻撃が届くってことは、向こうの攻撃もこちらに届くのは自明にゃん。はっちゃけすぎにゃん」
「こちらが深淵をってやつか……。まぁ甘えたのは認めるよ。今度は油断しないよ」
そういい少年は三度拳を構える。喧嘩などしたことがないのだろう、あまりに不格好な立ち姿であったがその背中は覚悟を決めた男のものであった。
靄の怪物が空気の漏れるような軽い音と共に幾本の触手を少年に向かって伸ばす。少年はそれに慌てることなく触手を躱す。まるで当たらない場所があらかじめ分かっていたかのように、するりと触手から逃れる。
そして、拳一閃。幾本の触手の共通の根本、そこに拳を叩き込まれた黒い靄は軽い手応えのみを残し拳に貫かれ霧散していった。とどめの一撃としてはあまりにもあっけなく。
「やったか?」
「テンプレ通りならやれてないやつにゃんよ、それ。ただ、幸運なことに今回は間違いなく幕引きにゃん」
少し離れたところから戦いを観察していた白猫が少年に近づきながら言う。少年はその声に振り返りぶっきらぼうに言う。
「言葉足らずが過ぎるんじゃないかな?」
「仕方ないにゃん。緊急事態ってことで多めに見てほしいにゃん。乱入者なんてそもそも想定してないにゃん」
少年は白猫を抱きかかえ助けた時のことを思い出したのか、それはそうかと納得の表情を浮かべる。
「その割に……まぁいいや。いろいろ聞かせてもらうよ」
「もちろんにゃん。ただ先に安全なところに帰る事を優先することを進めるにゃん」
「それはまた、どうして?」
少年は白猫の発言に疑問をぶつける。それは先程よりはましなものの警戒心が表れている。それを白猫も感じ取ったのか、少年の正面に向き直り理由を告げる。
「思念を初めて使ったわけにゃん。そのうち疲労感と眠気にのたうち回る羽目になるからにゃん」
「代償あるなら先に言うべきじゃないかな」
「自分の目で見たことしか信じないんじゃなかったにゃん?ともかく、出口は案内するにゃん。そのあとはお前の仕事にゃん」
少年はその言葉に舌打ちで答える。それに満足そうな表情になった猫は続けて言う。
「それになんの対価もなしにことは起こらないにゃん。考えたらわかるにゃん」
「それには強く同意するけどね。等価交換って奴だろ? 馴染みのある言葉だよ」
少年ははぁと溜息をつき項垂れる。そして少年は気付く、先程まで汗で濡れた服が冷たくなっている事に。
「何だかんだで気を張ってたんだな」
「だろうにゃん。……そういや君名前はなんて言うにゃん」
傾く太陽が作る大きな、それでも小さな白猫の影を追いかけながら歩いていた少年に猫は聞く。
「ほら、私たちある意味一蓮托生というか、二人三脚というかそんな感じにゃん?名前くらい知り合ってた方がいいと思うにゃん?」
少年はその言い回しに少々引っかかった様な間を開けたものの、特に行動を起こすことなく答える。
「いや、しれっと記憶を捏造するな。だが……うん、そうだね。僕の名前は明、あぁ女みたいな名前だななんて言ってくれるなよ」
明は目は笑っていない笑顔で猫に対して答える。
「色々あったにゃんね。中性的な顔立ちなのも関係してるのかにゃん?」
そう白猫が問うた少年は丸い顔に、ぱっちりとした瞳に整った童顔。長いまつ毛に華奢な型、小柄な体躯と髪を長く伸ばせば女性と見間違えられてもおかしくない出で立ちである。
「……まぁね。んでお前は」
「うーん、自分の名前は覚えてないにゃん。……けど、私はいつもコタロウと名乗るにゃん」
立ち止まり、遠くを見ながらコタロウは答える。細長くなった瞳は何かに思いを馳せているようにも見えた。
「雄猫なのか?」
明は恐る恐る問う。コタロウから発せられる声は、明らかに女性声。それも年若い女性のように聞こえているのにも関わらず、呼ぶように求められた名前が男名だったからだろう。
「失礼にゃん。こんなにプリチーな私がオスに見えるにゃん?ちゃんと女の子にゃん」
「……お前も色々あるのな」
コタロウと同じように夕日を見つめながら明は、自身が性別のギャップに苦しんだ過去があるからか、その話題に触れない事を選択したようだった。そして、2人は無言で静かな路地を歩く。
明は今日出会ってしまった。普通の枠から外れた常識外の喋る猫と……
今までの退屈で平和な日常が崩れていく実感をしている筈ではあるが、その顔に悲壮感等は感じない。口では面倒事を避けたいと言いつつも、心の奥底で退屈を嫌っているのである。
それゆえに好奇心が湧き上がっているのが表情に出ているのである。しかし、先を歩くコタロウも、本人すらもそれに気付かないのであった。




