あの人
玄関のチャイムが鳴った。
誰も知らないはずの私の家に誰が来るのか?
不審者かもしれない、そう思った私は低い声を出して玄関で尋ねた。
「どちらさんでございますか?」
「綾子! 綾子。開けなさい。」
「……………!。」
「綾子、そこに居るんやろ。
私や。開けなさい。」
「………………。」
「綾子……私が探さないとでも思うたんか?
私が君を探さないと?
綾子……顔を見せてくれ。
綾子……元気か?
綾子……みんな心配してる。学も……。
綾子…………私は……心配で可笑しくなりそうやった。
許してくれとは言われへん。
ただ、顔を見せてくれ。」
「五月蠅いなぁ。痴話喧嘩やったら、よそでやってぇや。」
「申し訳ございません。」
「綾子。」
「あなた、中へ入って下さい。ご迷惑なので……。」
「うん。」
あの人はお隣の方に頭を下げて「申し訳ございませんでした。」と謝った。
隣の方は何も言わずに部屋の中に入った。
入ったあの人は……急に私を抱きしめた。
「良かったぁ……元気や。
綾子や………綾子…………。」
泣いていた。あの人が私を抱きしめたまま泣いている。
「綾子、ちゃんと話し合いたい。頼む。も……も一遍。
これからのこと、今までのこと……。
私は君無しで生きていかれへん。
出来れば傍に居て欲しい。」
「離婚は? 離婚するって言うてくれてはった……。
学が大学に入ったら……。」
「本心やない。
そう言うしかあらへんかった。
それだけ……君は心が壊されてたから……。
けど、学が大学に入る頃までに…君を癒すことが出来たら……。
私はもう一度二人で生きていかれると……そない思うた。
嫌やった? 秀樹の結婚から今までの日々……。
嫌なことばっかりやった?」
「………そんなこと、あらへん。」
「君の心を壊したんは、私や。
私が不甲斐ないさかい。綾子に苦労ばかり掛けた。
嫌な顔一つ出来ずに耐えさせてしもうた。
私はどないしたら、ええ?
どないしたら……家を出るんやったら、綾子と出る。
そない言うたよな。
結婚する前から、それは今も変わらへん。
もし、私と一緒に出てくれるんやったら、私は直ぐに出る。」
「あのお屋敷は、あなたが生まれて育った大切な想い出がいっぱいあるお屋敷。
お義母様の……惣一郎さんと惣二郎さんの想い出も………。」
「戦死した兄のことは……気にせんといて、な。
綾子は優しいから……私は君の優しさに甘えてただけやった。
甘えて任せて……無責任やった。
後悔しても………。取り返されへん。」
「あなた……離して。」
「嫌や。」
「もう、私ら孫が居ますねんよ。」
「居てもええやろ。夫婦やねんから……。
それに、ここには私ら二人しかおらへんで。
綾子、手に持ってるのは何?」
「これは……。」
「見せて。」
「あっ!……返して。」
二つの位牌を見て、あの人は力なく言った。
「ごめん。ご両親のお位牌……持ってたんや。」
「作りました。川口のお金で……済んまへん。勝手に作って……。」
「何言うてるんや。 ごめん。ホンマに済まんかった。
死に目にも会わせんといて……。お位牌もお仏壇も母から作ったって聞いてた。
母は作らへんかったんやな。」
「……もう終わったことですよって……。」
「綾子…………。こっちは……水子供養!
あの時の子………。そうか……私が作れば良かったんやなぁ。
綾子、これ、君が作ったんやな。蒲鉾板で………。」
「……うん。」
「情けない夫やったんやな。
何も妻のこと知らんと……愛想付かされても文句言われへん。」
「あなた……。」
「一緒に供養したいんやけど、させてくれるか?」
「ええの?」
「……綾子、夫婦やねんで、生まれて来てくれるはずやった子。
その子の供養。一緒にするんが当たり前やないか……。
そうやったんやなぁ……。私も一人で一心寺へ行かんでも良かったんやなぁ。」
「一心寺?」
「綾子が流産してから、毎年、あの子の命日に……
一心寺へ水子供養に行ってたんや。」
「なんで、言うてくれはれへんかったん?」
「言うたら……綾子を責めることになるような気ぃがして
……言われへんかった。」
「あなた………。次は私も一緒に行きます。」
「うん。そやな。行こ。
綾子……私の元へ戻って来てくれ。頼むさかい。
仕事も手ぇにつかへんかった。
ホンマに君がおらなんだら、私は何も出来へん。
あの家が嫌やったら、今から私はここに住む。
頼む。一生のお願いや。傍におってくれ!」
「あなた………。」
その日、私が知らなかったこと、あの人が知らなかったことをお互いに知ることが出来た。
あまりにも夫婦なのに知らないことが多過ぎた。
今日は帰って貰った。考えたかったから……。
あの人を玄関で見送った。
遠ざかるあの人の後姿が、若い頃の後姿に重なった。