第1節 花と嵐と砂糖
アレンとマリウスの間であったひと騒動も落ち着き、アイリスたちは食堂で和やかな時間を過ごしていた。
魚介がたっぷり使われたスープを飲み終え、あとは食後のデザートというとき。
「アイリスはこの後図書館に行くんだったよな。俺はレオとフランと鍛錬に行くつもりだけど、もうイザベルは呼んだのか」
アレンに言われた言葉で、アイリスはふと思い出した。
「そう! そうだったわ!」
その場にいる全員がアイリスの顔をきょとんとした顔で見つめていた。
「急に大きな声を出してどうしたんだ、アイリス」
驚いた顔のアレンにアイリスは興奮しながら迫った。
「そう、図書館! マリウス君に話しかけられた時のこと、思い出したの!」
「そういえばアイリス嬢言ってたな。前に話しかけられたことがあるとかって」
「そうなんです、レオさん。私、思い出したんです!」
アイリスはレオの方にぐるりと首を回した。
◇ ◇ ◇
それはまだ入学したばかりのときだった。
休日だが、アレンはレオやフランと一緒に鍛錬に出かけてしまい、アイリスは一人、図書館で魔術書を読み漁っていた。
図書館の奥まった場所は、とても静かで、護衛のイザベルが離れた場所で控えている以外は周囲には誰もいなかった。
頁をめくる音とペンが紙を掻く音が、ひとりの少年の声で消えた。
「あの、アイリスさん。今ちょっといいかな」
夢中で文字を追っていたアイリスは、少し反応が遅れた。
「……はい、なんでしょうか」
ゆっくりと顔を上げると、そこには見事な金髪の少年が立っていた。
少年はアイリスと目が合うと、びくりと肩を震わせた。
護衛についてくれているイザベルが少し距離を詰めていた。
「アイリスさん! 俺はハーゲン教室のマリウス・ミケランジェリ・オットーです! アイリスさん、俺と付き合ってほしいんだ!」
目の前にいる少年はどこか焦った様子で、とても早口だった。
「――――?」
アイリスは首を傾げた。
つい先ほどまで古代語で書かれた書物を読んでいたアイリスの頭は、共通語を理解するのに少し処理が追い付かなかったようだった。
聞き取ったはずの言葉は、頭の中で具体的な意味をアイリスに示すことはなかった。
だがアイリスは、単語の断片から言われた言葉の意味を、ゆっくりとだが導き出した。
――ああ、そういうことね。
アイリスは理解した。
だから、アイリスは尋ねた。
「えっと、どちらに、行けばよろしいのでしょうか」
◇ ◇ ◇
「えっと、以上なんですけど、皆さんどうされましたか?」
レオはどう言えば良いのかと迷いながら、同級生の顔を見回した。
だが、ほとんど全員が困ったような、塩辛く苦い物を食べたような顔をしていた。
当然だ。
唯一風鈴だけが、気にした様子もなく楽しそうに東大陸のとある国の名物だというデザートを頬張って幸せそうな顔をしている。
彼女は色んな意味で結構な大物だと思う。
そしてもっと大物がいた。
「それで、結局どこに付き合ってほしいって言われたんだ?」
話を聞かせてくれた少女の双子の兄のアレンだ。
――似たもの兄妹だな。本当に。
「それが聞いても答えてくれなかったの」
「なんだそれ、言えないような場所に連れて行く気だったんじゃ……」
対処に困っていると、アレンはなにやら殺伐をした雰囲気を再び醸し出している。
誘拐か何かと勘違いしてるのだろうか。
どう勘違いしたらそうなるんだろうかと、レオは頭を抱える。
「それはないわよ。マリウス君はなんだかその時とても困った顔をしていたもの。『聞き損じがあったかもしれないから、もういちど言ってください』って言ったら居なくなってしまって」
「ますます怪しくないか、それ」
「違うわよ。きっと私が言葉の通じない子だと思って呆れてしまったのよ。古代語を夢中で読んでいたから、咄嗟に違う言葉を理解できなくて、悪いことをしちゃったわ」
――別の意味で違うんだよ!
レオは鈍感を通り越して、罪深い少女とその兄に盛大に真実を教えてやりたくなった。
「うーん……マリウス君、気にしてないといいな」
「そうだわ! 私あとでマリウス君に謝りに行くわ。あの時のこと、何も言えないままだったから」
まるで良いことを思いついたように言うアイリスに、レオはついに我慢できなくなってしまった。
「――アイリス嬢、止めてやれ。これ以上心に傷を負わせてどうするんだ。まったく……この兄妹は……」
「「え?」」
「そういう意味じゃねえんだよ」
「え。じゃあどういう意味なんだ」
「どういう意味なんですか」
「いやあ、それはマリウス君の心の傷になっちゃうから言えないというか……」
レオに替わって言葉を続けるフランが、言葉を濁しながら視線をきょろきょろと泳がせている。
しかし、毅然とした声がそれを断ち切った。
「いいえ、こういうのは早めに教えておいた方が良い気がするわ。この後も被害者が出るかも、いいえ絶対に出るから」
我らが委員長、セレーナ・トーン・ブルーレース様だ。
「流石に可哀想じゃ……」
セレーナの何とも言えない気迫にフランは躊躇しながらも、気の毒に思ったのかマリウスを擁護した。
しかし、それはあっけなく蹴散らされた。
「マリウス君には『尊い』犠牲になっていただきましょう。誰かが犠牲になるなら、きっとそれは彼が良いわ」
きっぱりと断言する口調にフランはごくりと唾を呑み込んでいる。
――うちの委員長は結構芯が強くて、怖いよな。どうも彼女は昨日オットー兄弟に会ってからとてつもなく怒っている気がするんだよな。
「そう。それが良い」
そしてそんなセレーナに追随するのが、アイリスの信者ともいえる雛姫だ。
彼女もこういった話には鈍いと思っていたが、意外とそうでもないらしい。
「みんなさっきから何の話をしているの」
「みんなさっきから何の話をしているんだ」
アレンとアイリスは綺麗に声を揃えて首を傾げた。
「それはね――」
「「それは……?」」
「つまり、『付き合ってほしい』というのは、『男女のお付き合いをしたい』という意味なのよ」
「男女のお付き合い? ロマンス小説みたいな? 誰と誰が?」
「マリウス君がアイリスさんと『男女のお付き合いをしたい』という意味よ」
「マリウス・ミケランジェリ・オットー。絶対呪う」
――雛姫嬢が怖い。
◇ ◇ ◇
セレーナは鈍感な同級生とその兄に現実を突きつけた後、デザートを用意してもらおうと給仕を呼ぶために手を挙げた。
そしてセレーナたちの隣のテーブルからを立ち上がろうとしている一人の気の強そうな女生徒と目が合った。
――確か、魔術棟所属のカトレア・サン・ディルフィニウムさん。隣のハーゲン教室の生徒で、高等部からの編入生ね。
深い青の瞳から放たれる鋭い視線。
その少女が見つめる先にいるのは、アイリスだった。
「呆れたわね」
「え?」
アイリスはきょとりと青銀色の長い髪を垂らしたカトレアを見つめ返している。
セレーナは近くに来た給仕に手で合図を送りながらも、警戒しながら目の前のやり取りを見つめた。
「あなた、自分の色恋沙汰も自分で何とかできないの?」
「色恋……沙汰……?」
「……嘘でしょ。私こんな鈍臭い子と組まなきゃいけないわけ」
「鈍くさい……?」
「そう、あなた鈍すぎでしょう。どんな環境で育ったらそんなことになるのよ」
カトレアの呆れ切ったような、アイリスを見下したような視線に、セレーナは自身の中で昨日からくすぶっていた感情が完全に着火するのを感じていた。
「――あなた、カトレアさんでしたっけ」
セレーナは運ばれてきたデザートのクレームブリュレを受け取る。
「私、クラスメイトを侮辱されることにね、今、とっても、敏感なの」
セレーナは一音一音をゆっくりはっきりと紡ぎながら、よく冷えたスプーンをクレームブリュレのカラメルにコツコツと叩きつけながら言う。
「――だから、気をつけてね?」
白い器の中でカラメルが割れて、ついにスプーンが沈んだ。
「セレーナ嬢の様子が少しおかしくないか」
「セレーナの委員長病。クラスメイトが侮辱されるとすぐに発動する」
「だからうちの学年は上の学年と比べると争いごとが少ないんだよ。とてつもない『抑止力』が居るから」
レオナルドと雛姫、フランがひそひそと話をしているが、セレーナは気にしなかった。
しかし。
「セレーナさん……?」
セレーナは自身の名前を呼ぶアイリスの声にはっとした。
見回してみると、他のクラスメイト達も心配するような視線をセレーナに向けている。
「……ごめんなさいね。私、少し感情的になってしまったみたい。ごめんなさいね、カトレアさん?」
セレーナが笑顔で威圧すると、カトレアはぐっと顎を引いた。
「なっ……!」
そのとき。
「「うちの機関銃なお嬢様のカトレアがごめんね!!!」」
戸惑うカトレアの肩を引き、能天気な謝罪の言葉を口にする二人の少年が現れた。
「ノア君にリアム君、こんにちは」
ハーゲン教室の委員長と副委員長の従兄弟二人組。
確かな実力と高いコミュニケーション能力を持つムードメーカー。
一見お茶らけているように見えるが、信用に足る同級生だ。
「みんなうちのクラスの子たちが迷惑かけてごめんねえ。うちのマリウス君もずいぶんと色々やらかしちゃったみたいなんだけど、真面目な良い子なんだよ。ただブラコンがねじ曲がってるんだ」
「そうなんだよー。ただのアホの子なんだよー。そういう自分の頭で考えられないところが団体戦の選手に選ばれない原因なのにねー」
「まああんなのでも御しちゃうのが、席次上位勢の先輩たちの凄いところなんだけどさあ」
「でも他の人たちからしたら完全なる不穏因子だよねー」
付き合いの長いセレーナと雛姫、それにフランは彼らの嵐のようなやり取りには慣れているが、他のみんなは驚いているようだ。
「それに! それに! カトレアだよ!」
「そうだよー! カトレアったらどうしてそんなにすぐに喧嘩を売りに行くのさー」
「そうだよ。商売でセレーナに勝てるわけがないだろう」
「このセレーナ委員長は世界に名だたる『ブルーレース商会』の跡取り娘だよー。売り買いのプロだよー」
再び矛先を向けられたカトレアとセレーナはぎょっとする。
この二人のペースにはいつも驚かされる。
――いいえ、一緒に教室運営をやった時は、本当にやりやすかったのだけれど。本当に良く周りを見て、必要に応じたコミュニケーションを取ってくれるのよね。
「私は別に喧嘩なんて売っていないわよ!」
「私、別に喧嘩屋じゃないわ……」
カトレアとセレーナがそれぞれに否定する。
しかし、ノアにリアムは止まらない。
「まったく、困った子でごめんね。カトレアは入学して初めて田舎の島から出てきたせいで、情緒が不安定みたいなんだ」
「カトレアは、本当はとっても優しい子なんだよー。仲良くしてくれると僕たちハーゲン教室の委員長と副委員長は嬉しいなー」
「確かに私は田舎の島出身だけれど! 別にそのせいで情緒が不安定なわけじゃないわよ!」
「こんな感じでカトレアは本当に怒りんぼなんだ。だけどこれは一生懸命さの裏返しなんだよ」
「そう思うと、うちのカトレアちゃんってめちゃくちゃ可愛いでしょー」
「あなたたちいい加減にしなさいよね!!!」
そんな嵐のようなやり取りで、カトレアの矛先が完全にノアとリアムに向かった。
そしてそのことで、一応の平和が訪れた。
「嵐のような奴らだったな」
「そうだねー。流石ノア君にリアム君だよ」
「すごかった……」
「セレーナのデザートも美味シソウ……」
「相変わらず変な人たちだった」
「カトレアさんって、優秀な上にとっても優しくて面白い方なんですね」
「私、疲れたわ」
セレーナは風鈴の口と自分の口に交互にクレームブリュレを運んでその甘さを味わった。
◇ ◇ ◇
「てか話戻るけど、アレンはロマンス小説読むんだな」
「どうせそれもアイリスさんに読んで聞かせてたとかだよ」
「よくわかったな」
「まじか」
レオは場を和ませようと思った。
そしてこの話題を選んだが、失敗だったとすぐに気が付いた。
「まあつまり。マリウスはアイリス嬢とそういうロマンス小説的なことがしたいってことだったんだよ。結果はあれだったが、そっとしておいてやれ」
「ロマンス小説的なことって、手をつないだり?」
「そうだな」
「キスしたり?」
「まあ、そういうのもあるな」
アレンは笑顔だが、その表情はだんだん暗いものになっていく。
「――俺、やっぱりマリウス君のこと、好きになれないかもしれないなあ……」
アレンが仄暗く呟くのをレオは見逃さなかった。
「僕ちょっとマリウス君に同情してきたよ……」
「……何故――?」
――アレン、今の間は何だったんだ。
「いや、だからそういうところだよ、アレン」
「そうだぞ、アレン。アイリス嬢だってそのうちどこかに嫁ぎにいくかもしれないだろ。妹離れの準備しておけって」
「は? いかせないよ?」
「いや、目と声が本気で怖いんだよ」
「――そうよ。私、お嫁になんていかないわ」
「アイリス嬢?」
やたらと綺麗な顔が、無感情に微笑むという姿が、やたらとレオの頭に焼き付いた。