第十話:欲望の摩天楼を後にして
空が白み始める、わずか前のこと。
アルカディア・ネクサスで最も高い超高層ビル――「バベルの頂」の屋上に、二つの人影があった。
空星陸と、リラ・アステル。
二人ともフードを目深に被った灰色の防護服を、その身にまとっている。
「……すごいな」
眼下に広がる光景に、陸は思わず息を呑んだ。
眠らない都市、アルカディア・ネクサスの夜景。
それは彼がこれまで見たどんな景色よりも圧倒的で、そして残酷なまでに美しかった。
無数の光が、まるで地上に撒き散らされた宝石箱のようにきらめいている。
摩天楼の壁面を流れるホログラム広告。
光の尾を引きながら、ビル群の間を縫うように飛ぶエアカーの群れ。
その一つ一つの光が、この街に渦巻く人々の欲望の象徴のようだった。
この街で、俺は多くを学んだ。
世界の値段。
情報の価値。
そして、自分の無力さ。
光の当たらないダウンサイドの、あの澱んだ空気。
初めて自分の意志で力を制御できた時の、あの爆発的な達成感。
そして隣に立つ、この素直じゃない天才情報屋の、意外な素顔。
ここは美しいが、同時に歪んだ街だ。
富める者はさらに富み、持たざる者はその影で静かに朽ち果てていく。
自分はもう、ウロボロスに流れ着いた時の無力なだけの漂流者ではない。
この街でリラと出会い、俺はこの世界で生き抜くための最初の武器を手に入れたのだ。
「感傷に浸っている暇はないぞ」
隣でリラが、冷静な声で言った。
だが彼女もまた、眼下に広がる絶景から目を離せずにいるようだった。
「日の出と共に、星間管理局のパトロールが始まる。
その前に跳ぶ」
「……ああ、分かってる」
陸は頷くと、リラに向き直った。
「準備はいいか?」
リラは何も言わずに、こくりと頷いた。
紫紺の瞳に、わずかな緊張の色が浮かんでいる。
陸は一歩、彼女に近づく。
そして華奢な身体を、壊れ物を扱うように、しかし同時に力強く抱きかかえた。
いわゆる、お姫様抱っこというやつだ。
「なっ……!?」
リラの身体が、びくりと硬直する。
「な、何を……!
別に、そこまでしなくても……!
肩を貸すだけで……!」
「いいから、じっとしてろ」
陸は顔を真っ赤にして、腕の中でもがこうとするリラを制した。
「あんたは大事な依頼品でもあるんだ。
落としたら、寝覚めが悪い」
それは照れ隠しの口実だった。
本当は、彼自身がそうしたかったのだ。
か細くて、生意気で、それでも誰より頼りになる自分のパートナー。
その温もりと重みを、この腕で確かに感じていたかった。
リラは、陸の真剣な眼差しに何かを感じ取ったのか、やがて抵抗するのをやめた。
おとなしく彼の腕の中に、その身を委ねる。
顔はフードの陰になって、窺うことはできなかった。
陸は腕の中のリラを、もう一度強く抱きしめる。
そして目を閉じた。
意識を集中させる。
もはや、卑近な「欲」をイメージする必要はなかった。
頭の中には、リラが寸分の狂いもなく叩き込んだ目的地――ヘパイストス・ファウンドリ、第十七研究所、屋上、冷却塔の内部――その三次元的な座標が、完璧に構築されている。
重力一・二倍の、身体にのしかかる圧迫感。
鼻を突く、かすかな硫黄の匂い。
肌を刺す、冷たい酸性雨の感触。
五感が目的地を正確に捉える。
右腕のチップが彼のサイに正確に応える。
青白い光がオーラのように、二人を優しく包み込んでいく。
不安は、もうなかった。
期待だけが胸を満たしていく。
リラと共に、次なる星へ。
まだ見ぬ世界へ。
「――跳ぶぞ!」
陸の力強い言葉を合図に、青白い光がひときわ強く輝いた。
そして次の瞬間。
アルカディア・ネクサスの最も高いビルの屋上から、二つの人影は、まるで初めからそこに何も存在しなかったかのように、音もなく掻き消えていた。
後に残されたのは、夜明け前の冷たい風と、そしてこれから始まる壮大な冒険の予感だけだった。




