29 一人去る
29 一人去る
三枝と慎吾は芸能事務所巡りや、各種イベントへの参加で忙しくなっていた。美由はたまに二人について芸能事務所に行った。
勇太は三枝に気に入られるために、彼女から言われた雑用を何でもこなした。そして、この家の家計を助けるために、勇太はアルバイトも始めた。勇太はこの家での自分の存在価値を高めるために必死だった。彼自身はプロのミュージシャンになることは完全に諦めたようだったが、それでも三枝の傍にずっといたいと考えていた。
最近、勇太は三枝が隼人の世話を焼いていることに、嫉妬を覚えるようになっていた。隼人は三枝を母親のように慕い懐いていた。勇太は時々隼人にきつく当たるようになって、慎吾や美由は勇太の振る舞いに注意をしているのだが、勇太は隼人に声を荒げ、隼人が泣き出すこともあった。富田はそれを見ても知らん顔をしていた。隼人は勇太を怖がって近づかなくなっていった。慎吾と美由は、勇太のやり場のない苛立ちは、三枝への愛情の裏返しか、はたまた将来への不安か、おそらくその両方だろうと思った。勇太が隼人を肉体的に虐待する前に、何とかしなければならない、と考えるまでになっていた。
勇太は父親からまだ仕送りが続いていた。何度も帰ってくるように催促されているようだったが、彼はそれを無視し続けた。どうして彼は意固地なほど田舎に帰りたくないのだろう?
美由と三枝が夜出かけると、勇太が部屋でぼくと二人で飲もうと言ってきた。ぼくも勇太と二人で話すいい機会だと思った。
彼の話では、今の母親は父親の後添えで勇太とは血のつながりがないという。それが彼のトラウマになっているのだろうか?
勇太は酒が進むとぽつらぽつらと話し始めた。
実の母親は、おれが生まれてまもなくして男を作って家を出て行ったらしい。結婚すると同時に同居するようになった祖母と折り合いが悪かった、と聞かされた。同窓会で久しぶりに会った幼馴染の男に愚痴を零し、男が優しい声を掛けて、その夜隣町のラブホテルに行った。それから一週間後に、実の母は夜中に我家のみんなが寝静まってから、車の中で煙草をふかしながら待っていた男と一緒に家出をした。幼かったおれを置いてけぼりにして・・・。男と二人で下関という海峡のある街で生活するようになった。だけど、二人の生活は一年ももたず、男から捨てられた。もはやおれの家には戻ってこられなかったが、どうしたわけか我家の近所のアパートの一室に住み始めた。路上でおれと顔を合わせたことがあったのだろうけど、彼女が母だと名乗り出ることはなかった。彼女は一人で気ままに生きていたんだ。
こうしたことは、おれが高校を卒業して東京に行く前の日に、納屋でじいさんが漁網を修理しながら教えてくれた。おれも大人になったんだから、仔細を知っておいた方いいだろう、って言ってな。じいさん、随分年を取ったなって思った。
育ての母は良い人で、父との間にできた3つ違いの弟とおれをなんの分け隔てもなく育ててくれた。いや、弟以上におれを愛してくれた。おそらくおれのことを不憫に思っていたところもあるのだろうけど・・・。弟と喧嘩をしてもいつもおれの肩を持ってくれたし、近所の悪がきにおれがいじめられたら、普段は大人しい人なのに、すごい剣幕でその家に怒鳴り込んでいった。おれは小学4年生になるまで、この人を本当の母だと信じて疑わなかった。
ところが、実の母はいろいろな男に捨てられて寂しくなったんだろう。おれが小学4年生になった春、学校の正門でおれを待ち伏せして、突然、下校するおれの両肩を掴んで激しくおれの体を揺さぶって、「あたしがあんたのかあちゃんだ」と叫び出したんだ。何の予告もなしにだぜ。おれは不気味になって、その女の両腕を振り払って、走って逃げたんだ。後ろで、「勇太、勇太」とおれを呼ぶ女の声が聞こえたよ。でも、おれは後ろを振り向かなかった。おれは怖かったんだ。正門にいた小学生は、彼女の叫び声が聞こえていたはずだ。家に帰って、両親にこのことを言ったかって? 恐ろしくって誰にも言えなかったよ。子供心に、言ったら今の幸せが逃げていくように思ったんだろうな。
次の日も、その次の日も、実の母は正門でおれを待っていた。おれが見てもその女は精神が病んでいると思ったね。着ているものも、どこかだらしなくて、長く伸びた髪の毛は長い間洗っていなくて、櫛で梳かしていないようだった。頭からはくさい臭いが立ち込めてきた。ぼくには彼女が山姥のように見えて怖かった。
そのうち、親父が正門で彼女と大きな声で罵り合っているのを見た。親父がおれを目に止めて、おれを手で追い払うような仕草をしたんだ。おれはその場から走って逃げたんだ。親父は夕食が終わって、コップ酒をあおりながら、あの女はただのきちがいだから言うことを真に受けてはいけない、とおれに怒るように言ったんだ。小学4年生のおれは何も返事をすることができなかった。育ての母は、黙って台所で茶碗を洗っていたっけ。ちらっと、手が震えているのが見えたよ。袖で涙を拭ってから振り向いて、いつもと変わらずに、テレビを観ていたおれに向かって「勇太、早く風呂に入っておいで」と明るく声をかけてきたんだ。おれはいつもだったら「この番組が終わってから」と応えるのに、その晩は、黙って凍り付いたようにテレビを観ていたんだ。何の番組をやってるかもわからずに、ボーっとして・・・。弟が「兄ちゃん、トランプをしよう」と言ってきたのを、右手で振り払ったっけ。びっくりした弟は泣いて育ての母の方に行ったっけ。おれの周りの大切なものが壊れて行くのが、はっきりとわかったんだ。
あの日以来、実の母と会うことがなくなった。きっと、実の母は遠いところの精神病院に入れられたんだと思う。
田舎って話が回るのが早いんだ。友だちの一人が「かあちゃんが誰にも言わないようにって言って教えてくれたんだけど、おまえの本当のかあちゃんはあのきちがいだって言うんだ。そんなことないよな、そんなことないよな」って泣きながらおれに教えてくれた。だから、おれは本当の母親がきちがいであることが、不気味で恐ろしかったし、それ以上に、これまで本当の母だと思って一緒に暮らしてきた女が他人だと思うと、ぞっとしてさ。おれ、その人にずっと甘えていたんだぜ。
おれ、意識し出すと今まで母親と思ってきた人とどう接したらいいかわからなくなってきてさ。母親が嫌いになったわけじゃないんだ。ただ意識したらどういう風に口をきいたらいいかわからなくなってきたんだ。親父から「これまで通りにしろ」と言われたからって、以前どのように話していたのかさえも忘れてしまったんだ。ぎこちなくなってさ。ぎこちない親子なんていないだろう。ぎこちない親子を親子とは呼ばないだろう。
それからおれは今の母親と距離をおいて付き合うようになったんだ。母は淋しそうな顔をしていたな。それがまた気の毒でさ。でも、おれどうしていいかわからなかった。どうして、誰も教えてくれなかったんだよ。
おれたち顔だちも性格も似ていると思っていたけど、よく見ると全然似ていなかったものな。顔や性格が似ているって、大事なことか? 本当はそんなのどうでもいいことだよな。似ていなくっても、母子の愛情は溢れるほどあるものな・・・。
親父のあとを継ぐのは弟でいいんだ。弟はおれと違って、母親譲りで真面目だし、体が頑丈だから、漁師に向いているんだ。母親の実家も漁師なんだ。
おれ、田舎に帰れないよな。おふくろとうまくやっていけないものな。良いおふくろなんだぜ。自慢のおふくろなんだぜ。でも、「おれのおふくろだ」って友だちに紹介できなかったんだ。中学や高校の頃、おれはおふくろのことを友だちに紹介しないできた。おふくろ、かわいそうだった。おれ、本当は自慢のおふくろだってみんなに紹介したかったんだ。
おふくろから「勇太、歌がうまいね」って褒められて、おれそれ以来おふくろの前で歌を歌うのをやめたんだ。おれ、捻くれているだろう。おれ、本当は嬉しかったんだぜ。だからよ、東京に出たら、歌手になろって密かに決めて田舎を出たんだ。もしおれの歌が売れたら、NHK紅白歌合戦に出場できるだろう。紅白歌合戦でおれが歌ってるところを、大みそかの夜に家の人たちがテレビの前に集まってミカンを食べながら見るだろう。おれ、テレビ越しにおれの歌をおふくろにプレゼントしたかったんだ。
おやじが仕送りしてくれているだろう。不漁で現金収入がなくても、決まったお金を仕送りしてくれていたんだ。それは全部、おふくろが「勇太は東京でたいへんだろうから、たくさん送ってやってくれ」って言って、へそくりを渡していたんだって。東京でも売っているのに、チョコレートやポテトチップスまで宅急便に入れてよこすんだぜ。浪花節だよな。おやじが「たまにおふくろに電話をかけてやれ」っておれに電話をしてくるんだ。わかっているよ。おれもおふくろと話がしたいんだ。だけど、おれ、中学生の時、おふくろのことを「他人だ」と宣言してしまったし、「あんた」呼ばわりしていたからな。今さらおふくろって言えないんだよ。どうしておれって素直じゃないんだろう。
おまえを育てたのはおばあちゃんだものな。おれを育ててくれたのはおふくろなんだよ。本当はおれのたった一人のおふくろなんだぜ。おれはどうしておまえのように素直になれなかったのだろう。血が繋がっていようが、繋がっていないだろうが、そんなの関係ないよな。おれはおふくろが好きだ。
おれ、甘ったれているよな。おれだってわかっているんだ。おれの家族はみんないい奴ばかりなんだ。でも、おれはあのきちがいの子供なんだ。いつかみんなに迷惑をかけてしまうかもしれないんだ。
すべて話し終わると、いつしか、勇太はすっきりしたように眠った。
最近、勇太は、三枝が深夜に家を出て行くことを怪しむようになっていた。仕事だと言うので、自分もついて行くと言うと、毎回拒絶された。そこで勇太は三枝を尾行して、三枝が男とラブホテルに入るのを見た。違う日に三枝を尾行すると、彼女は以前とは違う男とシティホテルの中に入って行った。
勇太は三枝に男に体を売っているのではないか、と罵った。三枝は勇太に、「あなたは何か勘違いしているようだけど、あなたと寝たからと言って、私はあなたの恋人でも、ましてや母親でもないのよ。あなたはセックスフレンドかペット君というところじゃないかしら。私たちの間に愛情なんてないはずよ。少なくとも私にはね。寝たくらいで、私を束縛するようなことはしないで頂戴。この際だから言っておくけど、私が隼人に優しいからといって、隼人にあたることだけはやめてね。隼人に危害を加えたら、私は承知しませんからね。才能のない人間は田舎に帰った方がいいわ。あなたは東京で何かやりたいことがあるの。ないでしょう。ここらが潮時ね」と三枝は平然と言った。
三枝は常々「潮時」を他人が決めていいわけがない、と思っていた。自分自身も決して他人にそうされたくはなかったからだ。でも、愛する勇太をこんなところで屈折させるわけにはいかないと思った。
その夜、勇太は田舎に帰ることを決意し、この家を出た。三枝がさめざめと泣いているのが、襖越しにわかった。
つづく




