【隣の部屋】
泣き声が聞こえる。しくしくと、悲しそうな声だ。
召喚された勇者は、とりあえずということで離宮へ運ばれた。
本来は、宮殿に用意されていた勇者の部屋に入るはずだったのだが、急遽変更されたのである。この召喚に関わった人が皆、屈強な男性が召喚されると信じ込んでいたので、宮殿の部屋も当然それに合わせた内装だった。華美なものは好まないだろうと、質実剛健の建具が選ばれたし、女性が好むような花柄や明るい色のものは選択肢にすらなかったのである。体躯の良い人だろうからと、動線を広く取り、高身長であることを踏まえて鏡の位置も高くしていたのだ。
けれど魔法陣に呼ばれたのは、年端もいかない少年で。彼が、その部屋で過ごすには支障をきたすだろうと、部屋が準備できるまで離宮で過ごしてもらうこととなった。
便宜上、私の隣の部屋となったのは仕方ないことだろう。
提案したのは、いつものごとく宰相である。部屋が隣接している方が心の距離を縮めることもできようと、そういう算段だった。
また、私の部屋に関しては、普段は強い防音魔法がかかっているのだが、これも互いの気配が分かったほうが安心だろうということで魔法が解除されている。
だから、である。
ずっと聞こえるのだ。彼の泣き声が。
「軽食を用意してもらえると助かるわ」
ごく最近、私付となった侍女に声をかける。恭しい態度で頷いた彼女が廊下に出ると、ただちにメイドがワゴンを室内に運び込んだ。ある程度は既に準備してあったらしい。なかなかに食欲をそそるものが皿に載せられていた。
侍女が運んでくれると言ったけれど、自らティーワゴンを転がす。
うまく用意できるか不安だけれど、やらなければならない。
ある日突然、知らない世界に呼ばれた彼を少しでも安心させたいのだ。そのためにも、使用人ではなく私が一から十まで私が面倒をみるべきだと思っている。
大勢の知らない人間と関わるよりはずっとマシなはずだ。
自室を出て、すすり泣きの響く廊下に出る。ワゴンを慎重に動かして隣の部屋の扉を叩いた。すると、寸の間、静まり返る。
部屋に鍵はかかっていないけれど、特殊な扉なので内側からは勝手に開くことができなかった。外側からは自由に開けるので、つまり軟禁状態に近い。
「失礼します」
分厚い扉を引くと、整えられた部屋の隅に黒い塊が見えた。
ベッドと壁の隙間に挟まるようにして膝を抱えている勇者である。俯いた顔を両膝の間に埋めていた。
さらりと揺れる艶のある黒髪。この世界には存在しない髪色である。
「あの、勇者様」
声をかけるもやはり返事はない。すん、すんと鼻を鳴らす少年に近づき、薄い肩に手をかけると大袈裟なほどに震えて体を捩る。逃げようとしているのか。身体を押し込んだ細い隙間の、もっと奥へ入り込む。それでも私が気になるのだろう。そっと上げた顔は、頬が赤く染まり、両の瞼は腫れあがっていた。一晩中泣いていたのだからそうなってしまうのも納得だ。
うるうると揺れる双眸に私の顔が映っている。
「……だ、れ」しゃくりあげながら、懸命に声を出す姿がいじらしい。
掠れた声に問われて「貴方様をお迎えした一族の娘ですわ」と簡潔に答える。
「一族……?」
自動翻訳はうまく機能しているらしい。その子の黒い双眸からほろりと涙が落ちる。これほどに泣いていても、まだ水分が枯れることはないのは不可思議だった。
涙の源は血であるという。だとすれば、彼は血を流しているのだろうか。
「私、王族ですの」
「王……ぞく、って何? どういうこと? てか、ここはどこなの? 何で、何で君、日本語が話せるの? ここは外国? さっきもたくさん外国人いたみたいだけど」
とめどなく溢れる疑問をそのまま並べ立てる勇者。どうか落ち着いて、と声をかけてから答える。
「ここはさる王国で、私は王女です。私が貴方と同じ言語を話しているのは、実際に話しているわけではなく、魔法によって即座に翻訳されているだけですわ」
「……ま、ほう……。翻訳……?」
また、はらりはらりと零れ落ちる水滴を指で拭えば、はっと息を呑んだ幼い勇者が頬を染める。そして、自分の袖口を引っ張ってそのままごしごしと乱暴な仕草で顔を拭いた。
「何を言っているのか分からない。皆は? 一緒にサッカーしていたんだけど。どこかほかの部屋にいるの?」
丸まっていた背筋を少しだけ上に伸ばして、きょろきょろと視線を彷徨わせる。私と一緒に誰かが入ってきたと思ったのか。そして、その誰かが自分の知り合いかもしれないと期待している。一連の仕草に、まだこの子が希望を捨てていないことに気づく。感心すら覚えたのは、この状況においても尚、前向きな情報が得られる可能性を信じているからだ。
「この国に召喚されたのは貴方だけですわ。勇者様」
「僕、だけ……?」
召喚って? それって何? と抱えていた膝を床につき、上半身をぐいっと乗り出してくる。相手が同世代だからと、気を許しているのだろう。結局、宰相の思惑通りになっている気がした。
「我が国は長年、魔物に悩まされており、近年はもはや力負けしている状況にございます。大勢の民が犠牲となりました。さらに、魔王復活の兆しがあり、これから数年の内に現実のものになると……、天啓がございました」
「ちょ、ちょちょ、ちょっと待って、何を言っているの?」
「?」
「魔物? 魔王? ―――――っえ、魔王?! ふざけてる?」
大きな目をもっと大きく瞠って、全身をわなわな震わせた少年が私の肩を掴む。
「これってドッキリ? 何かの撮影? そうだよね?!」
「ど……? さつ、え……?」
突然、雑音が混じったかのように単語が聞き取れなくなる。翻訳がうまくいっていない。彼の言葉を、我が国の言語では適当に訳せないから起こった誤作動だろう。
「カメラは? カメラはどこにあるの?」
「カ、カメ……?」
不意に立ち上がった勇者が私を押しのけて、ベッドと壁の隙間から這い出る。ベッドシーツの端を捲り、その下を覗き込んだり、カーテンを持ち上げて窓枠を指でなぞったり。あるいは絨毯を持ち上げようとしてうまくいかず尻餅をつく。部屋の中を歩き回り、あちらが済んだらこちら、こちらが済んだらあちらと何かを確認している。
「あの、どうなさったのですか?」
「そうだよね! おかしいと思ったんだ。君は子役? 俳優さんかな? 演技上手だね!」
「……あの?」
「あ、そうだ。お母さんは? だってこういうのはきっと保護者の許可がいるよね。どこ? もしかして別の部屋で僕のこと見てる?」
「お母様?」
「うん、そう! お母さん!」
黒い虹彩にきらきらと大小の光が散る。まるで、とても良いことを思いついたかのように口角をきゅっと上げて嬉しそうな顔をしていた。
彼の言わんとしていることのほとんどが理解できなかったけれど、母親を捜していることだけは分かる。
「……お、母様……は、ここにはいらっしゃいません。勇者様」
「え?! 何で? 駄目だよね。僕、未成年だよ? 親の許可を得なきゃ駄目じゃん。それとも事後承諾? 許されるの? そういうの」
「……、」
さっきまで泣いていたとは思えないほど饒舌に、この理不尽な状況への不満を口にする勇者に言い訳すら思い浮かばない。
「勇者様。とりあえず、お食事を召し上がっていただけますか? 昨日から何も食べていらっしゃらないようですし」
「誤魔化すなよ!」
掴みかかってこられたので、その衝撃に耐えることができずのけぞるようにして倒れる。まさか転んでしまうとは思わなかったのだろう。「あ!」という短い悲鳴が聞こえて「ごめん!」と、無様になぎ倒された私を介抱してくれた。
差し出された手を握り、再び立ち上がる。
「君だってよく分からないよね。後で大人が来て、ちゃんと説明してくれるんでしょう?」
「……、」答える前に「それも分からないか」と、勝手に結論づけてしまう。
その顔を眺めるに留まっていると、ふふ、とよく分からない笑みを返された。突き飛ばしてごめんねと謝るその子が、よろよろと歩いてテーブルに寄る。わぁ、と感嘆の声を漏らし、その上をしばらく眺めて「ホテルのご飯みたい」と拍手した。
幼い仕草に、幼い声。子供らしい子供である。
「これ、食べていいの?」
「もちろんですわ」
パンにフルーツ、野菜スープ、飲み物と胃に負担がかからない物を準備した。美味しそう、とますます高くなった声に張りつめていた空気が和らぐ。
気を遣わなければならないのはこちらのほうなのに、明らかに私を気にしている。
せっかくだから一緒に食べようと誘われて、先に座った彼の斜め前に腰を下ろした。
「それでそれで? 僕は何をするの?」
果肉の残る飲み物を、ピッチャーからグラスに注ぎつつ楽しそうに問うてくる。
どういう心境なのか、落ち込んでいた様子から一変して晴れやかな雰囲気を纏うその姿に戸惑いながらも「魔王を倒すために協力してほしいのです。勇者様」と懇願すれば「なるほど、なるほど。そういう設定なんだね」とにこにこと頷いた。
撮影なら仕方ないよね。と呟く声がまた、聞き取れない。
「これ、美味しい!」澄んだ声が、胸を刺す。
*
「なかなか苦労しているようですね」
自室のソファに座り込んでぼんやりとしていれば、バルコニーに続く窓から侵入者があった。揺れるカーテンをうっとおしそうに腕で避けつつ、窓枠に腰かけている。
驚きはあったものの見知った顔であったから「結界はどうやってすり抜けたのです?」と首を傾いだ。
「魔術師なのでね。わけないです」と至極当然の顔をして、そのまま室内に降り立つ。
「そんなに簡単に抜けられるものなのですか?」
「まぁ、私は天才ですので」
確かに、と頷けば「意外に冷静ですね」と笑う。
勇者召喚のときと同じく、闇色のローブを纏っているがフードは被っていない。国外の生まれだという彼は、この国ではあまり見ない顔立ちをしている。それが神秘的だと、女性には評判がいいらしい。
「私も出られるかしら」
離宮全体にかけられた結界魔法は侵入者から身を護るためであるが、その一方で離宮に住まう王族も自由に出入りできないという難点がある。
正確には、出ることはできずが特定に人間にはそれが分かってしまうということだ。つまり、私がこの離宮から外に出れば、それが情報として宰相を含めた我が国の重鎮に伝わってしまうのだ。
「姫様も? 無理ですね。私のことだけならこの結界を欺くことができますが、貴女様を隠すことはできません。この結界はそもそも、姫様だけのものですし」
「天才ではないのですか?」
「天才にも限界があるわけです」
「なるほど。そういうことですのね。勉強になりますわ」
すっと音もなく私の前に立った魔術師に対面のソファを勧める。ふん、と笑みを浮かべたその人が「騎士を呼ばないのですか? 侵入者ですよ」と自らの罪を明かす。
「呼んでほしいのですか?」と答えれば、なぜか困った顔をした魔術師が、王女ともあろう肩に警戒心がないのは恐ろしくもありますね。とローブの裾をはらって悠然とした態度を保ったまま座った。
「勇者様と話がかみ合わないのです。何度、説明しても受け入れていただけなくて」
水を向けると、途端に皮肉げに鼻を鳴らした魔術師。魔力量の多い人間にありがちな年齢不詳の容姿であるが、私の知る限りでも、随分昔からその名を世界に轟かせていたようなので、見た目よりは年を重ねているのだろう。
「異世界人ですからね。この世界の常識はまず、通用しないと思ったほうがいいでしょう」
「そう、ですわね」それは身をもって実感している。
「あの細い体躯から鑑みるに、剣を握ったこともないでしょうし、それどころか力仕事すら従事したことがないのでは?」
「……、」
さすがにそこまでは考えていなかった。されど、召喚時に身に着けていた服や爪先を見れば労働階級でないことは明らかだ。もしかしたら、貴族の子供なのかもしれない。とはいえ、貴族であれば幼少期から騎士としても訓練を修めているはず。体力づくりもその一環として為されていて当然であるのに、その形跡はない。
「先が思いやられますね、姫様」
嘆息した私を見やって、組んだ足に肘をついた男が愉快そうに笑う。本音では何を思っているのか。
「けれどまさか姫様が勇者殿の面倒を見るとは思っていませんでしたよ。これにはどういう思惑が絡んでいるのか知りませんが。あの幼い少年を傷つけるようなことがあってはならないと、私は考えています」
そんな風に釘をさしながら彼がぱちんと指を鳴らせば、そこにティーセットが現れた。
「無から有を生み出せるのだとしたら、貴方は神に近い存在ですけれど」
最後まで言い切る前に、
「ここに来るまでの間に、廊下で侍女殿にお会いしたので。彼女から拝借したのですよ。ずっと廊下に控えておりましたよ?」
ふふんと、得意げな顔をする。すなわち廊下に置いていたティーワゴンから、ティーセットだけを転移させたということだ。
王宮の緊急用の転移魔法を思い出す。あれは魔法陣が必要なほどにおおがかりなものだが。この人は指先一つで物質を移動させることができるらしい。感服していると「命を運ぶのは難しいことですよ」私だって、指先だけで貴女様を移動したりはできません。と首を振った。
だけれども、いつしかそれを成し遂げそうな雰囲気はある。
「お茶でも飲みましょう」
世紀の大魔術師が手ずから茶を入れてくれた。
廊下にいるらしい侍女が、突然消えたティーセットに驚愕していないか心配ではあるが、扉の向こうからは物音ひとつしない。
「先ほどのお話ですが」
「さっき? 勇者を傷つけるなってやつ?」
「はい」
「約束してくれるんだ」
「いいえ、―――――お約束できかねます」
「ふうん」
初めの一杯を一気に飲み干した魔術師が、自分のカップにお茶を入れ直す。ととと、と軽快な音と共にティーポットから注がれる琥珀色の液体が弧を描いた。
「ちなみに私の名前はリオって言うんだけど」
今更ながらの自己紹介であるが、名乗らずとももちろん知っている。勇者召喚の際と、その前の顔合わせ。会った回数は少ないものの、彼の名前を知らない人間はいない。
「まぁ、君も落ち着いているとはいえ子供だしね。過度な期待はしないことにしますよ。子供同士、喧嘩をすることだってあるでしょう」
「私はもう十三歳ですわ」
「成人前であれば、子供です」
「……成人……。あ、そういうことですわね」
「え、何?」
「先ほど、勇者様がご自身のことを未成年と」
「未、成年。ああ、成人していないってことか」
「ええ」
たった一つの単語が、この世界と異世界を分断する。
自動翻訳のおかげで、同じ言語を話し、聞いているはずなのに。彼の口からは、この世界には存在しない単語が出てくる。
「あと、不思議なことを仰っておりましたの」
ふんわりと香る茶葉に口元が緩む。侍女は私の好きなお茶を用意してくれていたらしい。
「未成年だから、傍にお母様がいるはずだと。どこにいるのか聞かれました」
「? どういうことですか? 彼の国では、成人前だと親がついて回るということですか?」
「そのように聞こえましたわ」
「へぇ。それが本当だったら。……すごく厄介だね。まるで赤ん坊じゃないですか。異世界ってそういうところなんですね」
「そう、ですわね……」
我が国では、彼よりももっと幼い子供が働いていることがあるし、金銭的に余裕があれば学び舎に通う。貴族であれば男子は騎士を目指して訓練に励むし、女子であれば淑女教育が始まっている年頃だ。そのどれもが親同伴というわけではない。ほとんどの場合、専門の師について学ぶのでそこに家族を帯同していることは、ほぼない。
「けれど……、実際のところはどうなのでしょうか。我が国の子供たちは、いつも親と一緒にいるわけではないにしろ、どの程度一緒に過ごすものなのでしょう」
返答を求めたわけではない。ただ単に頭に浮かんだ疑問を口にしただけである。
リオはうーんと天井を仰ぎ「人それぞれじゃないですか?」と言った。彼にもよく分からないようだ。
「魔術師様には、」
「リオでいいよ」
「リオ様には」
「リ、オ」
「リオにはご両親がいらっしゃいますか?」
「いますよ。こう見えても人の子ですからね」
「そうですか。でも、一緒に暮らしてはいらっしゃらないですよね?」
「そうだね。魔術師の性でもありますよ。孤独を好むので」
「さようでございますよね。存じております」
ふむ、と一つ呼吸を置く。
「姫様は……、国王陛下はひとまず置いておくとして。王妃陛下が亡くなられてからもう五、六年経つんでしたっけ?」
「はい」
「死因は? 原因不明でしたか? 突然死?」
ほんの少しも配慮もなく、あくまでも会話の一つとして軽く訊かれたので拍子抜けする。身構える間もなかった。
「王妃陛下は、……母は。陛下との晩餐の際に、斬り殺されました。理由は私も存じておりません」
「えっ、暗殺? 初耳ですよ」
「そうですね。公にはしておりません。―――――暗殺ではありませんし」
「暗殺じゃないって? どういうこと? 斬られたってことは殺されたってことでしょう? 誰に殺害されたのです?」
「父ですわ。国王陛下が、王妃を斬ったのです」




